第51話:そして、戦いのない朝へ
大謁見の間を、カイン卿の腕に支えられながら、ゆっくりと歩く。
あれほど私を射抜いていた、貴族たちの好奇と、猜疑と、憐れみの視線は、今や、畏敬と、そして、ほんの少しの恐怖の色を帯びて、私たちに道を開けていた。
だが、そんなことは、もう、どうでもよかった。
私の世界には、ただ、隣を歩く彼の体温と、しっかりと私を支えてくれる、その腕の力だけが存在していた。
私たちは、言葉を交わさなかった。
交わす必要がなかった。
長い、長い戦いの後で、ようやく訪れた、安らかな沈黙だった。
姉のリリアーナが待つ部屋へ戻ると、カイン卿は、その場の空気を読んで、静かに一礼し、「外で、控えております」とだけ言い残し、扉の外へと姿を消した。
「ルクレツィア!」
姉は、駆け寄ってくると、私を強く、強く抱きしめた。今度は、再会の時のような、悲しみの混じったものではない。ただ、心からの、喜びと、誇りと、そして、感謝に満ちた、温かい抱擁だった。
「あなたが、やり遂げてくれたのね。私たちの、家の名誉を……」
「いいえ、姉様」
私は、その胸に顔をうずめながら、首を横に振った。「私たちが、やり遂げたのですわ。姉様の、あの場での勇気ある証言がなければ、私は、きっと、心のどこかで折れていました」
私たちは、どちらからともなく、微笑み合った。失われた二年間が、ようやく、本当に終わりを告げた瞬間だった。
その日の午後、国王陛下からの使者が、一枚の書状を届けてきた。
そこには、簡潔に、しかし、厳粛な事実だけが記されていた。
――元グランヴィル公爵は、今朝、夜明けと共に、裁定通り、刑が執行されたこと。
――元宰相エルミントは、全ての地位を剥奪され、王城の黒の塔に、終身幽閉となったこと。
正義は、その最後の最後まで、確かに、成されたのだ。
***
夜になり、私は、カイン卿の容体を確かめるため、彼にあてがわれた客室を訪れた。
薬師たちの懸命な治療のおかげで、彼の顔色は、昼間よりも、ずいぶんと良くなっているように見えた。
「……来てくださったのですか、ルクレツィア様」
ベッドの上で、身体を起こしていた彼が、私に気づいて、少しだけ、慌てたように言った。
私たちの間に、ぎこちない空気が流れる。
もはや、私たちは、ただの「公爵令嬢」と「補佐役の騎士」では、いられないのだから。
「ええ。あなたの傷の、具合が気になりましたので」
私は、ベッドのそばの椅子に腰かけると、尋ねた。「痛みは、もう、ありませんの?」
「あなたがあの場で勝ち取ってくださった、この静かな時間のおかげで、傷は、驚くほど、快方に向かっております」
彼が、グラスの水を飲もうとする。私は、咄嗟に、その水差しを支えようとして、彼の手と、私の手が、触れ合った。
ほんのわずかな接触。だが、それだけで、お互いの顔に、熱が集まるのが分かった。
私は、慌てて、立ち上がった。
「で、では、私はこれで……! あなたは、休まなければ。これは、命令ですわ!」
「……ずいぶんと、あなたの『命令』には、慣れてしまいました」
カイン卿が、悪戯っぽく、笑った。
その、初めて見る、穏やかな笑顔に、私の心臓が、また、大きく跳ねる。
私が、部屋を出ていこうとした、その時だった。
「ルクレツィア」
彼が、私の名を呼んだ。様、をつけずに。
私が、驚いて振り返る。
「……これから、あなたはどうされるのですか。全ての戦いは、終わった」
私は、窓の外に広がる、平和になった王都の夜景を見つめた。
「いいえ、カイン。終わってはいませんわ」
私の声には、新たな決意が宿っていた。
「グランヴィル公爵という、一つの巨悪は、消え去りました。ですが、彼のような人間を生み出した、この国の歪んだ法と、古い慣習は、まだ、残っています」
「私の、本当の戦いは……ここから、始まるのです」
それを聞いた彼は、ベッドの上で、ゆっくりと、しかし、力強く、頷いた。
その瞳には、私と同じ、未来を見つめる光が宿っていた。
「ならば、俺の戦いも、ここから始まるようです」
「俺のいるべき場所は、あなたのそばですから」
その言葉は、恋の告白ではなかった。
だが、どんな愛の言葉よりも、深く、そして、確かに、私たちの未来を約束する、魂の誓いだった。
第1部の幕は、静かに、そして、希望に満ちて、下ろされた。
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