第37話:嵐の前の攻防
臨時御前会議まで、三日。
その時間は、あまりにも短く、そして、あまりにも長かった。
ユリウス王子の宿舎にある作戦室は、今や、グランヴィル公爵を断罪するための、巨大な頭脳と化していた。
私は、山のように積まれた資料と格闘していた。ロデリックとアンナの証言、ヘイワードの残した水晶の記録、そしてバルテルス公爵家の書庫から取り寄せた「古の盟約」に関する、あらゆる古文書。それらを元に、私は検事として、グランヴィル公爵を法的に、そして完全に追い詰めるための「弾劾状」の最終稿を練り上げていた。
姉のリリアーナも、そばで私の作業を手伝ってくれている。彼女の存在が、私の心をどれほど支えてくれていることか。
そして、カイン卿は、その間、一瞬たりとも私のそばを離れなかった。
私が部屋で資料を読んでいれば、彼は扉の外に立ち、私が廊下を歩けば、影のように、しかし決して威圧的ではない距離を保って、付き従う。
その静かな守護は、私に安堵を与えると同時に、私の心を、絶えず乱し続けた。
作戦会議が深夜に及んだ、二日目の夜。
私が一人、書斎で考え込んでいると、カイン卿が、音もなく入ってきて、私の肩にそっとショールをかけた。
「……ありがとうございます。ですが、あなたも少し休むべきですわ。この二日間、ほとんど眠っていないでしょう?」
「俺のことは、お気になさらず」
彼の声は、低く、そして硬かった。「俺のいるべき場所は、ここです。二度と、過ちを繰り返すつもりはありません」
彼の言う「過ち」が、歓楽街での一件を指していることは、明らかだった。
私たちが、言葉もなく見つめ合う。その瞳に宿る、真剣な光。それは、私を、ルクレツィア・バルテルスという一人の女性を、何よりも優先するという、彼の魂の誓いそのものだった。
心臓が、また、大きく音を立てる。私は、その感情から逃れるように、慌てて目の前の書類に視線を落とした。
その時、ユリウス王子が、厳しい表情で部屋に入ってきた。
「――公爵が、動いたぞ」
彼の言葉に、部屋の空気が一気に張り詰める。
「私の諜報網が、公爵の動きを捉えた。彼は、自らの私財を管理する金庫を、空にしたらしい。全ての財産を投げ打って、“最後の手段”を探しているようだ」
そして、彼は続けた。
「時期を同じくして、裏社会に、一つの不気味な噂が流れている。大陸で最も悪名高い、あの魔法暗殺者ギルド『紅の刃』が、アステリア王国内で、破格の報酬の依頼を受けた、と……」
ユリウスは、私とカインを、真っ直ぐに見つめた。
「依頼人が公爵だと、あるいは、標的が我々だと、確定したわけではない。だが、このタイミングは、あまりに都合が良すぎる。……最悪の事態を、想定しておくべきだ。今この瞬間から、いつ、どこで、何が起きてもおかしくない、と」
***
そして、運命の三日目の朝が来た。
これまでの二日間、何事も起こらなかったことが、逆に、嵐の前の静けさとして、私たちの緊張を極限まで高めていた。
私は、一点の曇りもない、決意を象徴する純白のドレスを身にまとった。
王城の玄関で、国王陛下が手配した護衛の近衛騎士団が、物々しく整列している。カイン卿も、その中で、ひときわ鋭い視線を周囲に放っていた。
私は、王家の紋章が入った豪奢な馬車に乗り込む。
馬車が、ゆっくりと動き出した。大謁見の間へと続く、最後の道のり。
私は、決戦への覚悟を胸に、窓の外を流れる景色を見つめていた。
その隣で、馬を並走させるカイン卿の目が、プロの騎士として、その視界に入る全てのものを、鋭く、そして冷静に分析していた。
――屋根の上の鳩の群れが、何の前触れもなく、一斉に飛び立った。
――前方の道で、果物を売っていた露天商が、やけに慌てた様子で、店じまいを始めている。
――子供が落としたのであろう、赤い鞠が、絶妙なタイミングで、先導する馬の前に転がり、行列の速度を、ほんの一瞬だけ、緩ませた。
一つ一つは、王都の日常にありふれた、些細な出来事。
だが、その全てが、この瞬間に、この場所で、寸分の狂いもなく連動している。
カインの背筋を、冷たいものが走った。これは、偶然ではない。巧妙に仕組まれた、罠の**「兆候」**だ。
敵は、もう、すぐそこにいる。
彼は、すぐさま馬を、私の乗る馬車の窓へと寄せた。
そして、その声を、極限まで潜めて、しかし、切迫した響きで、私の名を呼んだ。
「ルクレツィア様。――何か、おかしい」
私の目が、驚きに見開かれる。
「罠です。気を付けて――」
カインが、その言葉を言い終えるのと、世界が、轟音と共に爆ぜたのは、ほぼ、同時だった。
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