第33話:影の猟犬と月光の壁
アオォォォォンッ!
魂を直接凍らせるような、禍々しい遠吠えが、雪山の静寂を切り裂いた。
木々の間から、闇が凝って生まれたかのような、複数の獣の影が姿を現す。その額に浮かぶ、血のように赤い一つ目が、憎悪と飢餓にぎらついていた。
影の猟犬。グランヴィル公爵が放った、死の猟犬たちだ。
「円陣を組め! リリアーナ様を中央へ! 何があっても、陣形を崩すな!」
カイン卿が、絶望的な状況下で、即座に命令を下す。
彼の部下である二人の騎士は、満身創痍ながらも、主君の姉を守る最後の壁となるべく、剣を構えた。
これは、もはや生きて帰るための戦いではない。一秒でも長く、彼女が生き延びるための、時間を稼ぐための戦いだ。
猟犬たちが、一斉に襲い掛かってきた。
その動きは、自然の獣のそれではない。影が地面を滑るかのような、予測不能な速度。カインの剣が、聖なる光をかすかに放ち、一体の猟犬の首を刎ねる。だが、その影は霧のように掻き消え、別の場所で再び形を結んだ。物理的な攻撃だけでは、致命傷を与えられない。
「くそっ!」
カインは、歯噛みする。騎士の一人が、猟犬の影の爪に腕を裂かれ、雪の中に倒れた。
包囲は、徐々に狭まっていく。
絶望が、冷たい霧のように、私たちの心を覆い尽くそうとしていた。
その時だった。
「――カイン様!」
円陣の中央で、リリアーナが、切迫した、しかし、凛とした声で叫んだ。
「あの松の木! 木の幹に生えている、銀色の苔です!」
彼女が指さす先には、この辺りの古い松の木々にだけ寄生するように生えている、月光を浴びて青白く光る、不思議な苔があった。
「二年間、書庫で読んだ古い書物にありました! 影の猟犬は、純粋な影の魔力から生まれた存在。そして、あの『月光の苔』は、聖なる月の光を蓄える性質を持つ、彼らにとっての天敵のはずです!」
その言葉は、暗闇を貫く一条の光だった。
カインは、即座に彼女の意図を理解した。
「……よくぞ、見抜いてくださいました、リリアーナ様!」
彼は、残った騎士に叫んだ。
「聞いただろう! 火種は持っているな! あの苔に火をつけろ! 光の壁を作るんだ!」
騎士が、懐から火打石を取り出し、必死に火花を散らす。
その時間を稼ぐため、カインは、ただ一人、円陣から前に飛び出した。
「お前たちの相手は、この俺だ!」
彼は、群れの中で一際大きな、リーダー格の猟犬に向かって、真っ直ぐに突進していく。
カインが、命がけで敵の注意を引きつけている、その間に。
ボッ、と音を立てて、月光の苔に火がついた。それは、熱い炎ではない。まるで、満月そのものが燃え上がったかのような、清浄で、力強い、青白い光の炎だった。
光は、次々と隣の木の苔へと燃え移り、瞬く間に、私たちと猟犬たちを隔てる、光の壁を作り出した。
ギャアアアッ!
聖なる光に焼かれた猟犬たちが、苦しみの叫びを上げて後ずさる。
「今です、カイン様!」
リリアーナの叫び声に、カインはリーダー格の猟犬に深手の一撃を浴びせると、素早く光の壁の内側へと戻った。
彼は、私の手を強く掴んだ。
「リリアーナ様! 行くぞ!」
私たちは、燃え盛る光の回廊の中を、国境線目指して、最後の力を振り絞って駆け抜けた。
背後からは、光の壁を越えられない猟犬たちの、怒りに満ちた遠吠えが聞こえてくる。
そして――。
雪の中に立つ、古い石の標。国境を示す、その標を越えた、その瞬間。
私たちの目の前に、見慣れぬ紋章を掲げた、屈強な兵士の一団が姿を現した。
彼らは、敵ではなかった。
一人の隊長らしき男が、前に進み出ると、私たちに恭しく敬礼した。
「リリアーナ・バルテルス様ですね。私は、ユリウス王子殿下の命を受け、お迎えに上がりました、ヴァレリウスと申します」
彼は、穏やかに、しかし力強く宣言した。
「――ようこそ、我が国へ。あなた様は、今この瞬間より、我々の保護下にあります」
その言葉を聞き届けたカイン卿は、張り詰めていた全ての糸が切れたように、その場に、ゆっくりと膝をついた。
安堵と、極度の疲労。
だが、その顔には、任務をやり遂げた、誇らしい笑みが浮かんでいた。
長い、逃走劇が、ついに終わったのだ。
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