第32話:盤上の攻防と北への活路
グランヴィル公爵の執務室に、側近からの緊急報告が響き渡った。
「――閣下! 逃亡者を、北の山脈に追い詰めました。もはや袋の鼠にございます!」
報告に、公爵は満足げに口の端を上げた。全ては、計画通り。
だが、その笑みは、次の報告によって、瞬時に凍りついた。
「それが……閣下、緊急事態が。隣国が、『大規模な軍事演習』と称して、我が国との北の国境線を、複数の部隊が“誤って”侵犯したとの報せが! 現地は、一触即発の状態にあります!」
「……何だと?」
公爵の顔から、血の気が引く。偶然か? いや、このタイミングで、これほどの偶然などありえない。
(ユリウス……あの小僧、何を企んでいる……!?)
彼は、歯ぎしりした。理由は分からない。だが、この外交問題は、今すぐに対処しなければならない、王国全体の問題だ。山の中の、たかが二人を追うことよりも、優先順位は上だった。
「……ちっ! 山狩りの部隊を半分、直ちに北の国境へ向かわせろ! 隣国の若造に、アステリア王国を舐めるなと教えてやれ!」
苦渋の決断だった。彼は、まんまと敵の陽動にかかっていることなど、知る由もなかった。
***
山中の岩陰で、カインたちは、追手の角笛の音が、少しずつ遠ざかっていくのを聞いていた。
「……どういうことです? なぜ、追手が引いていく……?」
部下の一人が、訝しげに呟く。
カインにも、理由は分からなかった。だが、これが天が与えた好機であることだけは、確かだった。
「カイン様」
その時、これまで黙っていたリリアーナが、静かに口を開いた。彼女は、険しい山々の稜線と、空に輝く星々を見つめている。
「あの星……『羊飼いの瞳』と呼ばれる、北を示す星です。私の家庭教師が教えてくれました。あの星だけを見失わなければ、私たちは、この山脈で最も険しいですが、最短のルートで北の峠を越えることができます」
二年間、書物だけを相手に過ごしてきた彼女の知識が、今、ここで活路を開いた。
カインは、彼女の瞳に宿る、揺るぎない光を見て、深く頷いた。
「……承知いたしました、リリアーナ様。あなたを信じます。全員、準備しろ! 北へ向かう!」
***
「――グランヴィル公爵が、動きました。山狩りの兵力を、北の国境へ再配置しています」
ユリウスの宿舎にもたらされた報告に、私は、安堵の息を漏らした。
「……第一段階は、成功ですわね」
「君の博打は、見事に当たったわけだ」
ユリウスは、ワイングラスを傾けながら、感心したように言った。「だが、安心するのはまだ早い。グランヴィル公は、決して愚かではない。彼が、この陽動の意図に気づくのも、時間の問題だろう」
「ええ、分かっています」
私は、地図の上で、カインたちが進むであろうルートを指でなぞる。
「彼らが国境を越えるまでが、本当の勝負。公爵は、必ずや、手元に残した最も手練れの追手を、彼らに差し向けるはず……」
私の言葉は、予言となってしまった。
***
北の峠道へと続く、最後の尾根。
眼下には、雪に覆われた、隣国の広大な平原が見えていた。あと少し。あと少しで、私たちは追跡から逃れられる。
誰もが、そう思った、その瞬間だった。
アオォォォォンッ!
それは、ただの獣の咆哮ではなかった。空気を震わせ、魂を直接凍りつかせるような、禍々しい遠吠え。
カインが、即座に剣を抜き、リリアーナの前に立ちはだかった。
「……最悪だ。来てしまったか」
彼の顔から、血の気が引いている。
木々の間から、闇よりも暗い、複数の影が姿を現した。その影の額には、不気味な赤い瞳が、爛々と輝いている。
「影の猟犬……!」
グランヴィル公爵が、私兵として飼っている、目標の匂いをどこまでも追い続ける、魔法の獣。
公爵は、陽動にかかりながらも、最後の、そして最悪の切り札を、私たちの元へと放っていたのだ。
赤い瞳が、一斉に、私たちを捉える。
国境線を目前にして、私たちは、逃げ場のない絶望的な死の猟犬たちに、完全に包囲されていた。
続きが気になっていただけたらブックマークと評価★★★★★いただけると嬉しく、投稿速度が上がります!!




