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第31話:雪中の絆と盤上の攻防

修道院の警鐘が、遠ざかっていく。

だが、それは安全を意味するものではなかった。カイン卿に導かれ、私と彼の部下たちは、膝まで埋まる深い雪の中を、ただひたすらに突き進んでいた。

アドレナリンが切れ、身体を突き刺すような寒さと、二年間ろくに動かしていなかった身体の悲鳴が、私の意識を奪おうとする。


「…っ!」

木の根に足を取られ、私が雪の中に倒れ込んだ。すぐに立ち上がろうとするが、足が言うことを聞かない。

「申し訳、ありません…。少し、だけ…」

その時、カイン卿が私の前に屈み込み、事務的な、しかし有無を言わさぬ口調で言った。

「リリアーナ様。これでは日が暮れるまでに、安全な場所までたどり着けません。任務遂行のため、失礼をお許しください」


彼がそういうと、私の身体は、まるで大切な荷物を運ぶかのように、しかし慎重に、その逞しい腕で横抱きにされた。


「騎士様…! 重いでしょう、お放しください!」

「黙って、捕まっていてください。あなたの身の安全を確保することが、私の最優先任務です」

彼の声には、個人的な感情ではなく、騎士としての、揺るぎない責務の響きがあった。私は、もう何も言えず、彼の胸に顔をうずめることはせず、ただ前を見据えた。


***


次に目を覚ました時、私は、小さな岩陰の洞で、焚火の穏やかな光に照らされていた。身体には、カイン卿のものであろう、乾いた分厚い外套がかけられている。


「気が付かれましたか。まずはこれを」

カイン卿が、温かいスープの入った木製のカップを差し出してくれた。

私がそれを受け取ると、彼は少し離れた場所に腰を下ろし、火の番をしながら言った。

「あなたは、サー・カイン、ですわね? 妹のルクレツィアが、手紙で知らせてくれていました。『王国で最も信頼できる騎士だ』と」


私の言葉に、カイン卿の肩がほんの少しだけ揺れた。

「……光栄です。ルクレツィア様の知略と決断力は、俺など足元にも及ばない。あの方の作戦を完璧に遂行することこそが、俺の務めですので」


彼の声に、ルクレツィアを語る時の、深い敬意と、それ以上の何かがこもっていることに、私は気づいていた。この不器用な騎士は、私の妹に、忠誠以上の想いを寄せているのだ。

私は、ふっと微笑んだ。絶望の中にいた私にとって、それは心から安堵できる事実だった。

「……そう。あの子は、あなたのような素晴らしい騎士に巡り会えたのですね。それを知れただけでも、私は……」


その時だった。

遠くで、複数の獣の咆哮のような、甲高い角笛の音が響いた。追手だ。彼らは、山狩りを始めている。


***


「――追手が動き始めました! このままでは、夜明けを待たずに発見されます!」

ユリウスの宿舎で作戦を見守っていた私とユリウスの元に、現地の諜報員からの緊急報告が届いた。

地図の上で、カインたちのいる地点を取り囲むように、敵の駒が配置されていく。


「南の王都へ向かう道は、全て封鎖されるでしょう」

私は、唇を噛んだ。「彼らが、この包囲網を突破するのは不可能……」

絶望的な状況。だが、私の頭は、検事として、この「詰み」の盤面を覆すための一手を探していた。


南がダメなら。

「……北ですわ」

私は、地図の、これまで誰も見ていなかった場所を指さした。アステリア王国と、ユリウス王子の国との国境線が引かれた、北の辺境州。

「彼らは、南の王都へは向かいません。北へ抜けるのです」


ユリウスが、私の意図を察して、目を見開いた。

「正気か? 北へ抜けてどうする。国境を越えれば、彼らは逃亡者ではなく、侵入者となるぞ」


「ええ。ですから、彼らが“侵入者”ではなく、“保護すべき対象”になるような状況を、こちらで作るのです」

私は、ユリウスに向き直り、とんでもない提案をした。


「ユリウス殿下。あなたの国と我が国の間で、**“外交問題”**を、起こしていただけませんこと?」

「北の国境付近で、小競り合いを。あなたの国の兵士が、我が国の領土を“誤って”侵犯した、などと。アステリア王国は、当然、北の国境へ兵力を割かざるを得なくなる。グランヴィル公爵の私兵も、その対応に駆り出されるでしょう。その隙に、カイン卿たちは国境を越える」

「そして、国境を越えた先で、あなたの軍に『アステリア王国の反逆者から追われる、公爵令嬢を保護した』と発表させるのです」


それは、一つの事件を隠すために、国家間の戦争すら引き起こしかねない、あまりにも大胆で、危険な策謀。

私の常軌を逸した提案に、ユリウスは、しかし、不敵な笑みを浮かべた。


「ククク……ははは! 面白い! 実に面白いぞ、ルクレツィア嬢! 君は、法廷だけでなく、国家間の盤上すらも、自らの手で動かそうというのか!」

彼は、立ち上がると、部下に命じた。

「全軍に通達! これより、アステリア王国との国境にて、大規模な“軍事演習”を開始する! ……多少のトラブルは、覚悟しておけ、とな」


新たな戦いの火蓋が、今、切って落とされた。

それは、一人の騎士の命と、一人の令嬢の自由、そして、二つの国の運命を懸けた、壮大な盤上遊戯ゲームの始まりだった。

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