第30話:鉄の薔薇と騎士の覚悟
「静かなる我らの聖域に、どうやら、汚い鼠が紛れ込んでいたようですわね」
修道院長の氷のように冷たい声が、部屋の静寂を切り裂いた。彼女の言葉を合図に、両脇を固める女兵士たちが、ぎろりとカインを睨みつけ、じりじりと距離を詰めてくる。
罠だった。潜入は、初めから見抜かれていたのだ。
「私は国王陛下の勅命により、リリアーナ様の保護に参った、王家の騎士である。道を開けよ」
カインは、リリアーナを背中に庇いながら、低い声で言い放った。
だが、修道院長は嘲笑うかのように、くつくつと喉を鳴らした。
「ここでは、グランヴィル公爵閣下のお言葉こそが、法。――おとなしく投降なさい。さすれば、無用な苦しみは与えません」
「捕らえなさい!」
その号令と共に、女兵士たちがカインに襲い掛かる。
多勢に無勢。この狭い部屋で、リリアーナを守りながら戦うのは、あまりにも不利だ。
だが、カインは動じなかった。彼は、この絶望的な状況を覆すための、たった一つの活路を一瞬で見出していた。
彼は、女兵士たちには目もくれず、部屋の隅にあった重い真鍮の燭台を掴むと、それを――リリアーナの背後にあった、巨大なステンドグラスの窓に向かって、全力で投げつけた!
ガッシャァァァンッ!!
色とりどりのガラスが、けたたましい音を立てて砕け散る。
突然の破壊音と、窓の外から吹き込んできた凍てつくような冷気に、女兵士たちの動きが一瞬、止まった。
「愚か者! 逃がすな!」
修道院長の怒声が響く。一人の女兵士が、我に返ってリリアーナに掴みかかろうとした、その時だった。
「――お熱いのが、お好きかしら?」
凛とした声。それは、リリアーナのものだった。
彼女は、テーブルの上に置かれていた熱い紅茶のポットを、驚くべき速さで掴むと、その中身を、女兵士の顔面に浴びせかけた!
「ぎゃあああっ!」
熱湯を浴びた女兵士が、悲鳴を上げて顔を押さえ、その場に崩れ落ちる。
カインが、目を見張ってリリアーナを見た。彼女は、カインに向かって、力強く、そして少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「この二年、ただ泣いて過ごしていたとでも、思いましたの? 騎士様」
その瞳には、諦観などではなない、鉄の薔薇のような、気高い意志が宿っていた。
彼女はずっと、この監獄の中で、たった一人で戦い続けていたのだ。
カインの胸に、熱いものがこみ上げる。
彼は、リリアーナの腕を掴んだ。「お見それしました、リリアーナ様。――私を、信じていただけますか!」
彼は、砕け散った窓の外を指さす。そこは、雪が積もった中庭へと続く、絶壁。だが、その石壁には、何十年もかけて育ったであろう、太い蔦がびっしりと張り付いていた。
「ええ、信じますわ。妹が信じた、あなたを」
「しっかり捕まっていてください!」
カインは、リリアーナの身体を強く抱きしめると、窓枠から、躊躇なくその身を躍らせた!
眼下に広がるのは、目もくらむような高さ。だが、彼は正確に壁の蔦を掴むと、その強靭な腕力で衝撃を殺し、壁を蹴りながら、一気に中庭へと降りていく。
上からは、矢や、魔法の礫が雨のように降り注ぐが、カインは自らの身体を盾にしながら、全てを弾き、あるいは受け止めた。
雪が積もった中庭に、二人はなんとか着地する。
だが、休む暇はなかった。修道院中に、けたたましい警鐘の音が鳴り響いている。
「隊長! こちらです!」
中庭の木陰から、カインの部下たちが姿を現した。彼らが、もう一方の陽動を終え、駆けつけてくれたのだ。
「さあ、行くぞ! ここを突破する!」
カインは、リリアーナの手を固く握りしめる。
彼女は、もう囚われのお姫様ではなかった。共に戦う、気高き戦士だった。
彼らは、修道院の裏手にある脱出路を目指し、降りしきる雪の中を、ただひたすらに駆け抜けた。
追っ手の怒号と警鐘の音を、背中で聞きながら。