第3話:崩れゆく証言
私の問いかけは、静かだが鋭利な刃物のように、大広間の虚空を切り裂いた。
「聖女様の悲鳴を聞いた者や、私がその場から慌てて走り去るのを見た、というような第三者はおりませんか? 誰一人として、です」
アルフレッド殿下の顔から、すっと血の気が引いていくのが見て取れた。彼の碧眼が、助けを求めるように虚空をさまよう。だが、この場で彼に助け舟を出せる者など、いるはずもなかった。
「そ、それは……人払いをして、エリアーナと二人で散歩していたからだ! だから誰もいなかったのだ!」
苦し紛れに、王子が叫ぶ。
その瞬間、広間の隅にいた幾人かの貴族が、怪訝な顔で囁き合った。
「人払い? 先ほど殿下は、公務の合間に偶然通りかかったと……」
「ええ、私もそう聞きましたわ」
彼らの小さな声は、私の耳にも届いていた。
(なるほど。供述に矛盾が生じ始めた。典型的な虚偽の兆候ね)
私は内心の分析を顔には出さず、あくまで冷静に次のカードを切った。
「人払いをされていた、と。承知いたしました。では、犯行状況そのものについて、より詳しくお伺いします」
私は、大広間の豪奢なシャンデリアを見上げ、記憶の中にある城の設計図を思い浮かべながら言った。
「殿下がご指定になった西塔の螺旋階段。あそこは、塔を昇る際に右回り、つまり時計回りに造られていますね。私が聖女様を突き落とした際、私は階段の内側、つまり中心柱の側にいましたか? それとも壁のある外側にいましたか?」
それは、唐突に投げかけられた、あまりに具体的な質問だった。
アルフレッド殿下は、完全に意表を突かれた顔で、しばらく考え込んだ後、勢いよく答えた。
「お前は外側にいた! そして、内側を歩いていたエリアーナ様を、壁に向かって突き飛ばしたのだ!」
彼は、最もらしい状況を咄嗟に作り上げたことに、少しだけ自信を取り戻したようだった。
だが、その答えこそ、私が仕掛けた罠だった。
「そうですか」
私は小さく頷き、そして冷たく言い放った。
「不思議なこともあるものですね。殿下」
「……何が言いたい」
「螺旋階段において、外側の人間が内側の人間を突き飛ばした場合、よほど特殊な体勢を取らない限り、その力は進行方向、つまり前方に働くのが自然です。壁に激突させるのは物理的に極めて困難と言えるでしょう。むしろ、内側から外側を突き飛ばせば、被害者は壁に叩きつけられる可能性が高い。ですが、その場合、犯人である私は聖女様より後ろにいることになり、顔を見られることはありません」
私は一度言葉を切り、庇護されるように立つ聖女エリアーナに視線を移した。
「ちなみに聖女様の怪我は、右腕に集中しています。これは、ご自身でバランスを崩し、咄嗟に右手をついたか、あるいは手すりに強くぶつけた場合に生じる怪我と酷似していますが……殿下のご説明では、どうにも状況が一致しないように思えますね」
「なっ……き、貴様、何を詭弁を……!」
「詭弁ではありません。単なる論理と物理法則です」
私の言葉に、大広間の空気は決定的に変わった。
先ほどまでの嘲笑は完全に消え失せ、代わりに、私の言葉の一つ一つを吟味するような真剣な囁き声が満ちていた。
「確かにそうだ……あの階段の構造では、公爵令嬢の言う通りだわ」
「そもそも、なぜ殿下は一人でご覧になっていたのだ……?」
王子の絶対的な権威ではなく、私の無機質な「論理」に、人々の意識が傾き始めている。
アルフレッド殿下は、顔を屈辱と怒りで真っ赤に染め、わなわなと震えている。もはや、まともな反論の言葉すら出てこないようだった。
(これ以上、彼を問い詰めても無意味ね。感情的になるだけで、有益な情報は得られない)
私はターゲットを変えることにした。
ふ、と表情を和らげ、困ったように眉を下げてみせる。
「殿下。どうやら、少々混乱なさっているご様子。無理もありませんわ。突然のことで、きっと動揺されているのでしょう」
それは、一見すると気遣うような言葉だった。だが、その場にいる誰もが、それが彼の証言能力のなさを暗に指摘していることに気づいていた。
私は、もはや役目を終えた元婚約者に背を向け、静かに聖女エリアーナの方へと向き直った。
そして、できる限り穏やかな、しかし心の芯に響くような声で語りかける。
「聖女エリアーナ様。少しだけ、よろしいでしょうか」
庇護者である王子が完膚なきまでに論破され、次に尋問の矛先が自分に向けられたことで、エリアーナの肩がびくりと跳ねた。彼女の大きな瞳が、恐怖と混乱に揺れている。
何かを言わなければ、と本能が告げているのだろう。
彼女は、か細い声で答えようと、桜色のくちびるを、わずかに開いた。