第29話:静寂の監獄
吹雪が去った山道は、死の世界のように静まり返っていた。
カイン卿と彼の部下たちは、体力を消耗しながらも、休むことなく歩みを進めた。そして、夜が明け、朝日が雪山を照らし始めた頃、彼らはついに尾根の向こうに目的の場所を捉えた。
聖エララール修道院。
雪に覆われた山脈の懐に抱かれるように佇むその建物は、陽光を浴びて白く輝き、遠目には神聖なサンクチュアリのように見えた。だが、カインはその平和な光景の裏にある、冷たい現実を知っていた。あれは、祈りの家ではない。美しき、静寂の監獄だ。
彼らは、嵐から逃れてきた巡礼者を装い、修道院の重い門を叩いた。
出迎えたのは、一人の若い修道女だった。彼女の態度は丁寧だったが、その瞳の奥には、温かさのない、人を値踏みするような光が宿っていた。
「――嵐で道に迷われたとか。お気の毒に。さあ、こちらへ。温かいスープをご用意いたします」
案内された客室で、カインは部下たちに休息を命じると、自らは「祈りを捧げたい」と申し出て、一人、院内の廊下を歩き始めた。
石造りの廊下は、しんと静まり返っている。だが、その静寂は、どこか不自然だった。すれ違う修道女たちのほとんどは、俯きがちで、その足取りには、祈りの家の住人らしからぬ、規律だったものが感じられた。
(……混じっているな)
カインは、瞬時に見抜いた。修道女の中に、明らかに訓練された兵士、グランヴィル公爵の間者が、複数紛れ込んでいる。
彼は、院内をさまようふりをしながら、警備の配置と、特に厳重な場所を探る。すぐに、一つの場所にたどり着いた。北の塔に併設された、隔離された居住棟。その入り口には、他の場所とは違い、屈強な尼僧――いや、尼僧の服を着た女兵士が、二人、常に立っていた。
(……あそこか)
カインは、一度その場を離れると、部下の一人に合図を送った。
数分後、客室の方から「うわっ! 大変だ、旅の疲れが出たのか、仲間が倒れた!」という、計画通りの叫び声が響く。警備の女兵士たちの意識が、一瞬だけそちらへ向いた。
その隙を、カインは見逃さない。
彼は、まるで影のように音もなく廊下を滑り、目的の居住棟へと潜入した。
一番奥の部屋。その扉の前にも、一人の見張りが立っている。だが、彼は客室の騒ぎが気になっているようだった。カインは、床に落ちていた小石を拾うと、反対側の廊下の隅へと投げた。
カラン、と響いた小さな音に、見張りが「誰だ!」とそちらへ向かう。
その数秒で、カインはリリアーナ様が囚われているであろう部屋の扉の前に立つと、懐から取り出した細い金属具で、寸分の無駄もない動きで鍵を開けた。
部屋の中は、質素だったが、清潔に整えられていた。
窓辺の椅子に、一人の女性が座り、外の雪景色を静かに眺めている。
その姿には、二年という幽閉生活にも決して損なわれることのない、気高さと、そして深い哀しみが滲んでいた。ルクレツィアによく似た、美しい銀髪。姉君、リリアーナその人だった。
私の気配に気づいた彼女が、ゆっくりと振り返る。その瞳には、諦観と、そして消えることのない警戒の色が浮かんでいた。
カインは、その場で静かに片膝をついた。
「リリアーナ様」
彼女は、眉一つ動かさずに、冷たく問い返した。
「……あなたが、グランヴィル公爵の差し向けた、新しい看守ですの?」
カインは、言葉で返す代わりに、懐から、ルクレツィアから預かった小さな銀のブローチを取り出し、彼女の前に差し出した。
「妹君、ルクレツィア様の命により、お迎えに上がりました。彼女は、あなたと共に戦うことを望んでおられます」
リリアーナの瞳が、その見慣れたブローチを捉えた瞬間、大きく見開かれた。
彼女の完璧な仮面が、初めて崩れる。その瞳から、大粒の涙が、一筋、また一筋とこぼれ落ちた。
「……ルクレツィア……。あの子が……」
彼女が、震える手でブローチに触れようとした、その時だった。
バタンッ!
部屋の扉が、荒々しく開け放たれた。
そこに立っていたのは、この修道院の長、厳格な顔つきの修道院長。そして、その両脇を、あの屈強な女兵士たちが固めている。
修道院長の目は、氷のように冷たかった。
「静かなる我らの聖域に、どうやら、汚い鼠が紛れ込んでいたようですわね」
罠だった。
私たちの潜入は、初めから、全て見抜かれていたのだ。
カインは、絶体絶命の状況で、静かに立ち上がり、リリアーナの前に立ちはだかった。




