第26話:静かなる戦場
カイン卿の姿が夜の闇に完全に消えるまで、私はその場を動くことができなかった。
彼が握りしめていった、バルテルス公爵家のブローチ。その重みが、まるで自分の心の一部を持って行かれたかのように、胸にぽっかりとした穴を開けていた。
「実に、忠実な騎士だ」
静寂を破ったのは、いつの間にか隣に立っていたユリウス王子の声だった。「だが、その忠誠心が、命取りにならねば良いがな」
彼の言葉は、気遣いのようでもあり、冷徹な分析のようでもあった。
私は、カインが消えていった闇から目を逸らし、決意を新たに彼に向き直る。今は、感傷に浸っている場合ではない。私には、私の戦場で、やるべきことがあった。
「さあ、私たちも始めましょう、ユリウス殿下。彼が帰ってくる場所を、安全な国にしておかなければ」
作戦室に戻ると、私はすぐさま、ユリウスの情報網からもたらされた、姉のいる辺境地域の詳細な地図と、グランヴィル公爵派の兵力配置図を広げた。
検事として、数えきれないほどの事件資料と向き合ってきた私の目は、そこに記された無機質な情報の中から、敵の「弱点」と「矛盾」を拾い上げていく。
「この麓の村の兵力は、修道院を監視するには過剰です。これは、単なる監視ではなく、いつでも攻撃に転じられる『臨戦態勢』にあることの証左」
「兵糧の補給路が、この一点に集中していますわね。ユリウス殿下の陽動部隊がここを叩けば、彼らは少なくとも半日は動けなくなるはず」
私が分析し、予測を立てるたびに、ユリウスは感心したように頷き、彼の部下たちに次々と新たな指示を飛ばしていく。私たちの間には、言葉はなくとも、一つの目的に向かう共犯者としての、奇妙な信頼関係が生まれつつあった。
時間は、刻一刻と過ぎていく。
カイン卿が出発してから、丸一日が経った。
私の心は、遠い北の山脈へと飛んでいた。彼らは無事に、あの険しい山道を進んでいるだろうか。姉は、無事でいてくれるだろうか。
不安が胸をよぎるたび、私はそれを振り払うように、目の前の情報分析に没頭した。
そして、作戦開始から二日目の夜。
一人の伝令が、息を切らして作戦室に飛び込んできた。ユリウスの配下のエージェントだ。
「ご報告します! 陽動作戦は成功! 麓の村の武器庫で火災が発生し、グランヴィル公爵の兵団は、現在、その消火と警備に追われ、混乱状態にあります!」
第一段階は、成功した。
安堵の息をついた私とユリウスの元に、彼は、しかし、険しい表情で言葉を続けた。
「ですが、カイン卿の部隊に、予期せぬ事態が……!」
「何があったのです!?」
伝令は、ごくりと喉を鳴らした。
「カイン卿たちが進む北の山脈で、突如、この季節にはありえない、局地的な大吹雪が発生した、との報告が……! 吹雪の中心は、まさに彼らが進む狩人の道。偶然とは思えません。おそらくは、グランヴィル公爵側が仕掛けた、大規模な天候操作魔法かと!」
部屋の空気が、一瞬にして凍りついた。
敵は、私たちの動きを読んでいたわけではない。だが、侵入者を阻むための罠を、あらかじめ用意していたのだ。
カインたちは今、猛吹雪という、自然の、そして魔法の脅威の真っ只中にいる。
私は、地図の上に置いた自分の拳が、白くなるほど強く握りしめられていることに、気づいていた。




