第16話:悪魔の囁きと騎士の傷
氷の礫が砕け散った後の静寂の中、私はフードで顔を隠したまま、へたり込んでいるヘイワードの前にゆっくりと進み出た。絶望に染まった彼の瞳が、新たな闖入者である私を、怯えながら見上げている。
「な、なんだ、あんたは……あの男の仲間か……?」
私は、彼の隣で腕の傷を隠しながら立つカイン卿を一瞥し、そして冷たくも美しい声で、彼に語りかけた。
「哀れな魔術師、ヘイワード。あなたに、二つの道を与えましょう」
私の声は、裏路地の淀んだ空気を切り裂くように、凛と響いた。
「一つは、そこにいる借金取りに、その魔力回路も、臓器も、全てを売り払われ、誰にも知られず路地裏で惨めに朽ち果てる道」
「もう一つは」と、私は続ける。
「私の小さな頼みを一つ聞き、その莫大な借金を全て帳消しにした上で、王都から逃げ延びるための十分な路銀を手に入れる道。……さあ、どちらを選びますか?」
それは、地獄の淵に垂らされた、一本の蜘蛛の糸。
ヘイワードは、信じられないという顔で、私とカイン卿を交互に見た。
「た、頼み……? なんだ、俺に一体何をさせようってんだ……!」
「簡単なことですわ」
私は、彼の目の前に膝を折って、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「二年前。あなたがグランヴィル公爵の命令で、リリアーナ・フォン・バルテルス様を陥れた事件。その全てを、洗いざらいお話しいただきたいのです」
その名が出た瞬間、ヘイワードの顔から完全に血の気が引いた。
「し、知らない! 俺は何も知らない! 人違いだ!」
彼は、見え透いた嘘で白を切ろうとする。だが、その動揺が何よりの答えだった。
私は、嘲笑うかのように、くすりと喉を鳴らした。
「人違い、ですって? グランヴィル公爵から受け取った褒賞金の額、あなたがそれを歓楽街でどのように使い果たしたか、全て調べはついていますのよ。公爵にとって、あなたはとうに用済みの駒。現に、あなたはこうして死の淵にいる。彼が、あなたを助けてくれましたか?」
私の言葉の一つ一つが、彼の心の脆い部分を的確に抉っていく。
プライド、恐怖、そして見捨てられたという絶望。
私は、最後の一押しをするために、悪魔のように囁いた。
「私に協力すれば、あなたは生き延びられる。グランヴィル公爵を裏切るのです。どちらが賢明な選択か、あなたほどの頭脳があれば、お分かりのはずですわ」
数秒の葛藤の後、ヘイワードの肩が、がっくりと落ちた。
「……わかった。わかったよ……。話す。全部話すから……助けてくれ……!」
「よろしい」
私は立ち上がり、小さな金の入った袋を彼の前に転がした。
「今宵、月が一番高くなる頃、西の広場の噴水前に来なさい。その時に、あなたの話の裏付けとなる“証拠”……例えば、公爵とのやり取りを記録した通信魔法の水晶などを持参すれば、残りの金をお支払いしましょう」
ヘイワードは、金の袋に飛びつくと、何度も頷き、よろめきながら裏路地の闇へと消えていった。
嵐が去り、路地に残されたのは私とカイン卿の二人だけ。
張り詰めていた空気が緩んだ瞬間、私は先ほどまでの冷徹な仮面をかなぐり捨て、彼の腕に駆け寄った。
「アシュベリー卿、腕を!」
私の必死な声に、彼は一瞬驚いた顔をしたが、観念したように腕を差し出した。砕けた籠手の下の、騎士服が赤黒く染まっている。
私は、自分のドレスの裾を躊躇なく引き裂くと、その傷口にきつく巻き付け、手際よく応急処置を施した。
至近距離で、彼の息遣いを感じる。私の心臓が、また大きく音を立て始めた。
「……あなた、こういうことにも慣れているんですね」
沈黙を破ったのは、カイン卿だった。
「検事時代は、逆恨みされることも多かったですから。自分の身くらいは自分で守れ、と……」
私は、顔を上げずに答える。
「でも、今日はあなたに守られてしまいましたわね」
その言葉に、自分でも驚くほど、熱がこもった。
すると、彼は、いつもの皮肉な口調ではなく、少しぶっきらぼうな、低い声で言った。
「……それが、俺の仕事ですので」
顔を上げると、ごく間近に、彼の真剣な眼差しがあった。
その瞳に射抜かれ、私は言葉を失う。
裏路地の喧騒も、事件のことも、何もかもが遠くに聞こえる、ほんの数秒の沈黙。
その沈黙が、私と彼の間に、何か新しい、名前のない感情が芽生えたことを、はっきりと告げていた。
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