第10話:呪いの枷と聖なる光
「ひぃ……! お許しを……お許しください……!」
元侍女長アンナは、床に倒れ込み、見えない何かに怯え、ただ許しを乞うことしかできなかった。彼女の首筋に一瞬浮かんだ、禍々しい黒い痣のような文様。あれが、彼女から言葉を奪い、真実を縛り付ける「口封じの呪い」の正体。
私は咄嗟に駆け寄り、震える彼女の肩を抱いた。
「アンナ、しっかりして! もう何も話さなくていい。大丈夫、大丈夫ですから!」
今は尋問どころではない。まずは彼女を落ち着かせ、安全を確保することが最優先だ。私が彼女の背中をさすっていると、部屋の扉が静かに開き、異変を察知したカイン卿が滑り込んできた。
「何があった!」
彼の鋭い目が、室内の惨状を一瞥する。
「口封じの呪いです」
私は、アンナに聞こえないよう声を潜め、状況を簡潔に伝えた。「彼女は話せない。無理に話そうとすれば、命に関わるかもしれない」
カイン卿の顔に、厳しい色が浮かぶ。「……やはり、ただの監視ではなかったか。これ以上は危険だ。一旦、引きますよ」
私は頷き、アンナの手をそっと握った。その手は、氷のように冷え切っていた。
「アンナ、聞いてください。必ず、あなたをその呪いから解き放つ方法を見つけて、ここへ戻ってきます。それまで、決して無理に事件のことを思い出そうとしたり、誰かに話そうとしたりしないで」
私の言葉に、彼女はただ、涙を流しながら小さく頷いた。その瞳に宿る深い絶望に、私の胸は締め付けられるようだった。
特務調査室に戻る道すがら、私の頭は高速で回転していた。
「強力な契約魔法だと思われます」
隣を歩くカイン卿が、専門的な見地から分析する。「並大抵の術師では、解呪は不可能でしょう。下手に手を出せば、術が暴発してアンナの命を奪いかねない」
「宮廷魔術師長のダリウス卿では?」
「彼ほどの術師でも、他人がかけた複雑な契約魔法を、術者本人に気づかれずに解くのは至難の業です。黒幕が王弟殿下クラスの大物だとすれば、術者も相当な手練れのはず」
物理的な拷問も、自白剤も、魔法の契約の前では無力だ。
前世で私が培ってきた捜査技術のほとんどが、このファンタジーの世界の「絶対的なルール」の前に、意味をなさない。
初めて感じる、完全な手詰まり感。
(魔法には、魔法を……? いいえ、私にはその力はない)
私は思考の袋小路に入り込み、唇を噛んだ。
(でも、待って。この世界には、魔法とは異なる理で、奇跡を起こす存在がいるじゃないか)
私の脳裏に、あの断罪の日に見た、可憐な少女の姿が浮かび上がった。
桜色の髪。純真な瞳。そして――聖女エリアーナ。
そうだ。彼女の力は、通常の系統魔法とは違う。教会の教えでは、「聖なる力は、邪悪な呪いや穢れを浄化する」とされている。
「……アシュベリー卿」
私は、足を止めて彼に向き直った。
「聖女様の力は、呪いを解くことができるでしょうか」
私の突飛な提案に、カイン卿は虚を突かれたように目を見開いた。
「聖女様を? しかし令嬢、彼女をこれ以上、我々の危険な企みに巻き込むのは……」
彼の気遣いはもっともだった。だが、もう悠長なことは言っていられない。
「彼女はもう、無関係な傍観者ではありません」
私は、きっぱりと言った。「あの日、彼女もまた、アルフレッド殿下の嘘によって利用された被害者の一人なのです。そして何より、私が話した限り、彼女は真実を求める強い心を持っている。私は、彼女を信じたい」
アンナを救い、姉の無実を証明するためには、聖女の力が必要不可欠だ。
私の決意に満ちた瞳を見て、カイン卿は長く息を吐くと、やがて頷いた。
「……分かりました。あなたの判断を信じましょう」
「ありがとうございます。私が行って、直接エリアーナ様にお願いしてきます」
私は踵を返し、来た道を引き返し始めた。
目的地は、聖女エリアーナが、毎日の祈りを捧げているという、王城の最も清らかな場所。
――大聖堂の礼拝堂。
ファンタジーの壁には、ファンタジーの力で。
新たな希望の光を求め、私は、祈りの場所へと、迷いなく歩みを進めた。




