第1話:断罪のテミス
第1部は全53話となります。数話ずつ毎日更新していきます。
キン、と硬質な音が、磨き抜かれた大理石の床に反響した。
目の前に突きつけられた、抜き身のサーベル。その切っ先が、私の喉まであと数寸という場所で、ぴたりと静止している。純白の儀礼用手袋に包まれた柄を握るのは、このアステリア王国が誇る、美貌の王太子。
「悪役令嬢ルクレツィア・フォン・バルテルス! 貴様は、その邪悪な嫉妬心から、聖女エリアーナ様を虐げ、あまつさえ呪いをかけるという大罪を犯した! その罪、万死に値する!」
金色の前髪を誇らしげに揺らし、絵画から抜け出してきたかのような顔貌を、今は正義の怒りで歪ませている。アルフレッド・フォン・アステリア殿下。私の、今日まで婚約者であったはずの男性だ。
彼の声は、だんまりを決め込む貴族たちで埋め尽くされた王城の大広間に、朗々と響き渡った。誰もが私に、冷たい視線を投げかけている。嘲笑、侮蔑、そして純粋な憎悪。まるで、物語に登場する邪悪な魔女でも見るかのように。
アルフレッド殿下の隣では、桜色の髪をした小柄な少女が、庇護されるようにして佇んでいた。聖女エリアーナ。その腕に巻かれた痛々しい包帯が、私の「罪」を雄弁に物語っている、ということらしい。彼女は青ざめた顔で小さく震え、潤んだ瞳で私を見つめていた。やめて、ルクレツィア様、とでも言いたげな、そのあまりにも健気な表情が、私の罪悪をさらに際立たせる演出となっている。
ああ、頭が割れるように痛い。
視界がぐらぐらと揺れ、目の前の光景に焦点が合わない。これは、現実なのだろうか。
「よって今この場において、私、アルフレッドは貴様との婚約を破棄する! そして、貴様を育てたバルテルス公爵家の監督責任を問い、爵位剥奪を国王陛下に進言するものとする!」
婚約破棄。爵位剥奪。
それは、貴族として生きてきた女にとって、死刑宣告にも等しい言葉だ。
事実、周囲の貴族令嬢たちの中から、勝ち誇ったような忍び笑いが漏れたのが聞こえた。彼女たちは皆、私が王太子の婚約者という地位から引きずり下ろされる、この日を待ちわびていたのだ。
なぜ。どうして、私がこんな目に。
必死に記憶を探る。私が、聖女様を? あの、か弱い少女を階段から突き落とし、呪いの言葉を吐いたというのか。覚えがない。全く、身に覚えがないのだ。
だが、私の声は喉の奥で凍りつき、意味のある言葉にならない。ただ、くちびるがわななくばかりだ。絶望が、冷たい鉄の枷となって、私の全身を縛り付けていた。
その、ときだった。
ズキン、と脳の芯を直接鷲掴みにされたかのような、激しい痛みが走った。
視界が真っ白に染まり、立っているのもやっとの状態になる。耳の奥で、知らない人々の声が、けたたましいサイレンの音が、怒号が、嵐のように渦を巻き始めた。
『――天堂検事! 例の贈収賄事件、物的証拠が出ました!』
『また徹夜か、澪。お前、そのうち本当に倒れるぞ』
『判決を言い渡す。被告人を、懲役三年に処する』
知らない記憶。いや、違う。これは、私が「知っている」記憶だ。
霞が晴れるように、思い出していく。
そうだ。私は、天堂澪。東京地検特捜部に所属する、検事だった。寝る間も惜しんで働き、正義の実現こそが我が身のすべてと信じ、そして……三十代半ばという若さで、過労の果てにあっけなく命を落とした、愚直な女の記憶だ。
そして目の前の光景。金髪の王子。桜色の髪の聖女。悪役令嬢。
ああ、そうか。
前世で、疲れた頭を癒すために妹に勧められて、ほんの少しだけプレイした乙女ゲームがあった。タイトルは、確か……『王立アステリアの恋詩』。
目の前の光景は、そのゲームのオープニング。ヒロインである聖女が転入してきた学園で、最初に起こるイベント。王子の婚約者である悪役令嬢ルクレツィアが、嫉妬心からヒロインに危害を加え、返り討ちに遭う形で断罪される、あまりにも有名な場面だ。
「何か言うことはあるか、ルクレツィア!」
アルフレッド殿下が、勝利を確信した顔で、私にとどめを刺すように問いかける。
周囲は静まり返り、罪人の最後の言い訳を、あるいは見苦しい命乞いを、固唾をのんで見守っている。
絶望は、いつの間にか消え失せていた。
代わりに私の胸を満たしたのは、別の感情。
プロフェッショナルとしての、静かで、しかし燃え盛るような怒りだった。
(告発者、王太子アルフレッド。被告人、私、ルクレツィア。罪状は、傷害及び……呪いをかけた、という点については名誉棄損か? 証拠とされるのは、被害者とされる聖女エリアーナの腕の包帯と、告発者自身の目撃証言のみ)
検事・天堂澪の思考が、クリアに冴えわたっていく。
(なんだ、これは。杜撰にもほどがある。証拠の客観性は皆無。証言は伝聞ばかり。そもそも、これは正式な裁判ですらない。ただの感情論に基づいた、公開リンチだ)
ふ、と自然に笑みが漏れた。
許せない。法を、手続きを、そして何より、真実を無視したこの茶番が。
検事として、見過ごすことなど断じてできなかった。
私はゆっくりと、震えを止めた顔を上げた。
恐怖に歪んでいたはずのルクレツィアの表情を、怜悧な微笑みに塗り替えて。
その変化に、アルフレッド殿下がわずかに目を見張ったのが分かった。
「……静粛に」
凛、と響いた声は、自分でも驚くほど冷たく、そして澄んでいた。
大広間のざわめきが、ぴたりと止む。
私は、喉元に突きつけられたサーベルの切っ先を、まるで邪魔な小枝でも払うかのように、白い指先でそっと横にずらした。
そして、告げる。
被告人としてではなく、この理不尽な法廷の、唯一の支配者として。
「これより、被告人ルクレツィアの最終弁論を、始めます」
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