第4話 マグナス帝国の追手
アーシャの厳しい言葉と、異世界の現実。
丘の上で突きつけられた課題は、想像以上に重かった。
どこから情報が漏れたのか、あるいは俺の変身があまりにも派手すぎたのか。
近隣の地域にまで「英雄クロノス出現」の噂が広まり始めているようだった。
「言った通りになったな」
納屋の隅で壁に寄りかかっていたアーシャが、忌々しげに呟いた。
彼女はずっと俺を監視するように、この納屋で寝泊まりしている。
「時間の問題だと思っていたが……思ったより早かった」
「ごめん……俺のせいで……」
「謝って済む問題じゃない。問題はこれからどうするかだ」
アーシャの冷たい声が、俺の罪悪感をさらにえぐる。
彼女の言う通りだった。
俺の軽率な行動が、この村を危険に晒している。
そして、その「時」は、噂が広まってからわずか二日後にやってきた。
村の入り口が騒がしくなり、慌てて窓から外を覗くと、見慣れない一団が村に入ってくるところだった。
五、六人の男たち。
全員が統一された黒に近い灰色の鎧を身に着け、腰には長剣を下げている。
胸当てには、鷲を模したような鋭い紋章――あれがマグナス帝国の紋章か。
彼らの顔には表情がなく、ただ冷徹な目で村の様子を窺っている。
その威圧的な雰囲気だけで、彼らがただの旅人ではないことが分かった。
「帝国の……斥候だ」
隣で見ていたアーシャが低い声で言った。
彼女の表情にも緊張が走っている。
斥候たちは村の中央広場に村長らしき老人を呼び出し、何かを詰問し始めた。
声は聞こえないが、老人が必死に首を振っているのが見える。
他の村人たちも遠巻きに、怯えた様子で見守っている。
時折、斥候の一人が大声で怒鳴りつけ、村人がびくりと肩を震わせるのが見えた。
「まずいな。時間の問題だ」
アーシャが呟く。
「連中が本隊を呼ぶ前に、ここを出るぞ」
「ああ……分かった。村の人たちに、これ以上迷惑はかけられない」
俺たちは息を潜め、斥候たちの動きを監視しながら、夜を待った。
月が雲に隠れ、村が寝静まった頃を見計らって、俺たちは納屋の裏口からそっと外に出た。
「森を抜けて、東に向かう。そこなら帝国の監視も少しは緩いはずだ」
アーシャが小声で道筋を示す。
俺は頷き、足音を殺して彼女の後に続いた。
夜の森は昼間とは違い、不気味な静けさと暗闇に満ちている。
梟の声か、あるいは未知の生き物の鳴き声か、時折聞こえる物音がやけに大きく響き、心臓が跳ねた。
村はずれの森の入り口まで来た、その時だった。
「――そこにいるのは誰だ!」
鋭い声と共に、松明の明かりがこちらに向けられた。
まずい、見つかった!
見回りの兵士がいたんだ!
「逃げるぞ!」
アーシャが叫ぶのと同時に、俺は咄嗟に腰のベルトに手を伸ばした。
変身すれば、あいつらくらい……!
「変――」
体が勝手に光を放ち始め、力が暴走しかけているのが分かる。
まずい、このままじゃ……!
バックルが明滅し、制御できないエネルギーの奔流が俺の体を襲う!
「ぐあっ……!?」
次の瞬間、ベルトが異常な反応を示した。
バックルが明滅し、制御できないエネルギーの奔流が俺の体を襲う!
「ぐあっ……!?」
体が勝手に光を放ち始め、力が暴走しかけているのが分かる。
「こっちだ、間抜け!」
アーシャの声が響いた。
見ると、彼女は素早く石を拾い上げ、兵士たちとは逆方向に投げつけ、大きな物音を立てていた。
兵士たちの注意が一瞬そちらに向く。
「今だ、制御しろ!」
その一瞬の隙に、俺は必死でベルトに意識を集中させた。
「頼む、言うことを聞いてくれ……!」
溢れ出すエネルギーを、無理やり体の中に押し込めるような感覚。
全身の血管が切れそうなほどの圧力がかかる。
なんとか光が収まり、暴走が止まった。
息も絶え絶えになりながらアーシャを見ると、彼女はすでに森の奥へと駆け出していた。
「早く来い!」
俺は最後の力を振り絞り、彼女の後を追って暗い森の中へと飛び込んだ。
背後からは兵士たちの怒鳴り声と、追いかけてくる足音が聞こえる。
どれだけ走っただろうか。
追手の声が完全に聞こえなくなり、月明かりだけが差し込む森の開けた場所で、俺たちはようやく足を止めた。
「はぁ……はぁ……助かった……。ありがとう、アーシャ」
俺は地面に手をつき、肩で息をしながら礼を言った。
「礼はいい。それより、お前のその力……まともに制御できないようだな」
アーシャは息一つ乱さず、冷ややかに俺のベルトを見下ろしていた。
彼女の言う通りだった。
さっきの醜態……変身しようとして暴走しかけたところを、彼女はしっかり見ていたんだろう。
そう言われても仕方ない。
このベルトは、俺が思った以上に扱いが難しい。
ただ変身できればいい、それだけじゃダメなんだ。
この力を完全に制御できなければ、俺はヒーローどころか、周りを危険に晒すだけの存在になってしまう。
自分の未熟さを、そしてこの異世界の厳しさを、俺は再び痛感させられていた。
◇
俺はしばらく森の暗がりで呆然としていた。
追手の気配はもう感じられない。
俺たちはひとまず、その場で夜を明かすことにした。
アーシャは手際よく焚き火の準備を始める。
乾いた枝を集め、火打石のようなもので火花を散らすと、すぐに小さな炎が生まれた。
パチパチと木のはぜる音が、夜の静寂に響く。
彼女はどこからか取り出した干し肉のようなものを黙々と口に運び、俺にも少し分けてくれた。
硬くてしょっぱい、不思議な味だった。
気まずい沈黙が流れる。
俺は何を話せばいいのか分からず、ただ揺れる炎を見つめていた。
アーシャも何も言わず、時折、鋭い視線で周囲の闇を警戒している。
焚き火の暖かさだけが、冷え切った体に染みた。
異世界に来てまだ数日。
ヒーローになれたと思ったのも束の間、今は追われる身だ。
これからどうなるんだろう……。
不安と疲労で、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
翌朝、鳥の声で目を覚ますと、アーシャは既に行動の準備を終えていた。
「行くぞ。長居は無用だ」
俺たちは再び森の中を歩き始めた。
昨夜の逃亡で体力を消耗していたが、アーシャは疲れを見せることなく、淡々と道なき道を進んでいく。
半日ほど歩いただろうか。
森の少し開けた場所で、前方に動く人影が見えた。
思わず身構える俺に、アーシャが「待て」と手で制する。
近づいてみると、それは十数台の荷馬車と、五十人ほどの集団だった。
老人、子供、様々な服装をした人々が、疲れ切った表情でゆっくりと歩いている。
荷馬車には家財道具らしきものが積まれ、中には怪我人や病人もいるようだ。
彼らもまた、何かから逃れてきたのだろうか。
アーシャは俺に目配せすると、集団の前方にいる、リーダーらしき屈強な男に近づいていった。
男は熊のような髭を蓄え、使い古された革鎧を身に着けている。
鋭い目でアーシャを警戒していたが、彼女が何かを話すと、少し表情を和らげ、こちらを一瞥した。
「事情は分かった。我々も故郷を追われた身だ。食料はギリギリだが、道中、助け合っていこう。ただし、問題は起こすなよ」
リーダーの男は低い声でそう言うと、俺たちに同行を許可してくれた。
俺とアーシャは、キャラバンの最後尾に加わった。
彼らとの旅は、俺にとって異世界の日常を初めて垣間見る機会となった。
昼はひたすら歩き、夜は荷馬車を円陣に組んで野営する。
食事は質素なスープと硬いパンが中心で、決して美味しくはなかったが、空腹には勝てなかった。
言葉は完全には通じないけれど、身振り手振りや、アーシャの通訳を介して、他の難民たちと少しずつ話をするようになった。
彼らは魔物の襲撃や、マグナス帝国の圧政から逃れてきた人々だった。
中には人間以外の、獣のような耳や尻尾を持つ「獣人」と呼ばれる種族もいて、俺は内心驚きながらも、それがこの世界の普通なのだと理解していった。
夜の焚き火を囲む時間には、誰かが古い楽器を奏でたり、故郷の歌を歌ったりすることもあった。
そんな時、長老格の老人が、古い物語を語ってくれることがあった。
「わしらの村にはな、『風の英雄ライザ』様の伝説が残っておる。嵐を呼び、悪しき竜を退治したという……」
別の日に立ち寄った小さな集落では、また違う話を聞いた。
「この辺りじゃあ、英雄様は恐ろしい存在だよ。なんでも100年前に、英雄同士の争いで街が一つ消えちまったって話だからな……」
英雄が神のように崇められる場所もあれば、災いの象徴として恐れられる場所もある。
俺が知っている「ヒーロー=絶対的正義」という単純な図式は、この世界では通用しないのかもしれない。
アーシャも、旅の合間に少しずつこの世界の歴史や、100年前の「英雄終焉の夜」について断片的に話してくれた。
彼女自身の過去については口が重かったが、英雄に対する複雑な感情――憧れと憎しみ、期待と諦めが入り混じったような――が、その言葉の端々から感じられた。
「理想だけじゃ、誰も守れない。時には……汚い手段も使わなければならない時もある」
焚き火の炎を見つめながら、彼女がぽつりと呟いた言葉が、妙に心に残った。
理想のヒーロー像と、伝説の中の英雄、そしてアーシャが語る現実。
その乖離に、俺はますます困惑し始めていた。
俺が目指すべきヒーローって、一体どんな姿なんだろう……?
答えの見えない問いを抱えながら、俺たちは、まだ見ぬ目的地へと進んでいくのだった。
◇
俺とアーシャは、他の難民たちになるべく素性を悟られないよう、目立たず、しかし協力しながら旅を続けていた。
アーシャは相変わらず俺を監視しているようだったが、時折、この世界の歴史や地理について教えてくれることもあり、少しずつ打ち解けてきた……ような気がしないでもない。
そんなある日、キャラバンの進む先に、巨大な石造りの壁と門が見えてきた。
マグナス帝国の国境関所だ。
キャラバン全体に緊張が走り、皆、口数が少なくなる。
「ここを越えれば、しばらくは帝国の追手も緩くなるはずだ。だが、この関所が最大の難関だな」
隣を歩くアーシャが、低い声で呟いた。
彼女の表情も普段より硬い。
関所に近づくと、その威圧感に息を呑んだ。
高い壁の上には武装した兵士が立ち並び、巨大な鉄の門の前には、通行を待つ人々の長い列ができていた。
商人、旅人、そして俺たちのような難民……誰もが不安そうな顔をしている。
鎧の擦れる音、兵士たちの号令、そして時折響く厳しい尋問の声が、嫌な緊張感を醸し出していた。
俺とアーシャも、難民の他のメンバーと共に列に並ぶ。
難民のリーダーが用意してくれた偽の身分証を、汗ばむ手で握りしめる。
ただの農民、タカツキとアーシャ。
そんな設定だ。
列は牛歩のようにしか進まない。
順番が近づくにつれて、心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。
検査はかなり厳重なようだった。
身分証の確認だけでなく、荷物の内容も細かくチェックされ、さらに全員が奇妙な杖のようなものを体に向けられていた。
「あれは何だ?」
俺が小声で尋ねると、アーシャが答えた。
「魔力測定器だ。特に強い魔力反応を持つ者……つまり、『英雄の血脈』の疑いがある者を見つけ出すためのものだ」
英雄の血脈……。
俺のベルトは、魔力と関係があるんだろうか?
不安が胸をよぎる。
そして、ついに俺たちの番が来た。
無表情な検査官――鉄兜を目深にかぶり、帝国の紋章が入った硬そうな鎧を着込んだ男――が、俺とアーシャの前に立つ。
その目は感情を映さず、ただ機械的に俺たちを観察している。
「身分証」
短い命令。
俺は震える手で偽の身分証を差し出した。
検査官はそれを受け取り、手元の書類と照合する。
沈黙が重い。
「よし、通れ。次」
身分証は問題なかったようだ。
ホッと息をつきかけた、その時。
「待て。そこの男」
別の検査官が、例の魔力測定器を俺に向けてきた。
先端に埋め込まれた水晶のような部分が、不気味な青白い光を放っている。
「魔力検査を行う。動くな」
測定器が俺の体に近づけられる。
まずい、と思った瞬間、腰のベルトが熱を持ち始めた!
森で暴走しかけた時と同じような、嫌な予感。
ベルトが測定器に反応しているんだ!
測定器の光が強くなり、低い警告音のようなものが鳴り始める。
検査官の眉がピクリと動く。
「ん? この反応は……」
やばい! バレる!
心臓が喉までせり上がってくるような感覚。
どうすれば……!
その時だった。
「きゃっ!」
隣にいたアーシャが、わざとらしく短い悲鳴を上げ、バランスを崩したように俺の方へ倒れ込んできた。
「す、すまない……! 足がもつれて……」
彼女は俺の体に寄りかかるふりをしながら、巧みに俺と測定器の間に自分の体を入れた。
同時に、彼女の体がベルトに触れた瞬間、ベルトの反応がすっと収まった気がした。
「何をやっている! さっさと行け!」
検査官はアーシャの突然の行動に一瞬驚いたようだが、すぐに苛立ったように怒鳴り、測定器を下ろした。
警告音も止まっている。
「も、申し訳ありません!」
アーシャは慌てたふりをして検査官に頭を下げ、俺の腕を掴んで足早に関所の中へと進んだ。
俺もまだ心臓がバクバク鳴っていたが、必死に平静を装って彼女に続いた。
関所の門をくぐり抜け、しばらく歩いて人目がない場所まで来てから、俺たちはようやく足を止めた。
「助かった。ありがとう、アーシャ」
俺は心からの感謝を込めて言った。
彼女の機転がなければ、今頃どうなっていたか……。
「礼はいい」
アーシャは冷たく言い放ったが、その横顔には微かな安堵の色が見えた気がした。
「あの測定器は、『英雄の血脈』が持つ特有の魔力パターンに反応する。お前のベルトがなぜ反応したかは分からんが……もしあのまま検査が続いていたら、間違いなく捕まっていた」
彼女は続けた。
「帝国は『英雄』という存在そのものを恐れている。だから、少しでも疑わしい者は容赦なく排除する。私も……昔、それで……」
アーシャはそこまで言って口をつぐんだ。
彼女の瞳の奥に、深い悲しみと怒りのようなものが一瞬よぎったのを、俺は見逃さなかった。
彼女もまた、この世界の過酷な現実の中で、何かを背負って生きている。
そのことを改めて感じさせられた。
俺はアーシャに何も言えなかった。
ただ、彼女が身を挺して俺を守ってくれたという事実が、俺たちの間に新しい、確かな繋がりを生んだような気がしていた。