第2話 魔物の霧との初遭遇
どれくらい森の中を歩いただろうか。
日は既に傾き始め、巨大な木々の影が地面に長く伸びている。
見たこともない植物や虫の声に囲まれ、方向感覚はとっくに失われていた。
体力には妙な自信があったが、さすがに疲労と空腹、そして何より心細さが限界に近づいていた。
本当にここは異世界なんだろうか?
俺はこれからどうなるんだ?
不安だけが募っていく。
「はぁ……はぁ……もうダメかも……」
思わず弱音を吐きながら、太い木の根元に腰を下ろした、
その時だった。
「……ん? あれは……光?」
木々の隙間から、遠くにチロチロと揺れるオレンジ色の光が見えたんだ。
一つじゃない、いくつも集まっている。民家の灯りだ!
「やった! 人里だ!」
疲れも忘れて立ち上がり、光に向かって駆け出す。
助かった、これで誰かに話を聞けるかもしれない。
元の世界に戻る方法だって分かるかもしれない。
希望が湧いてきて、足取りも軽くなる。
森を抜け、少し開けた場所に出た。
そこからは、谷間に寄り添うように建てられた小さな村の全景が見えた。
藁葺き屋根の家々、畑らしきもの、そして中央には小さな広場のような場所も見える。
夕餉の支度だろうか、いくつかの家からは煙が立ち上り、人々の話し声のようなものも微かに聞こえてくる。
よかった、本当に人がいる。
安堵感に包まれ、村への坂道を下り始めようとした、まさにその瞬間。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
さっきまで感じていた生暖かい風が止み、代わりに妙に冷たく湿った空気が肌を撫でる。
そして、どこからともなく白い霧が湧き上がり始めたんだ。
最初は薄い靄のようだったものが、あっという間に濃度を増し、視界を急速に奪っていく。
「な、なんだこれ……?」
霧はまるで生きているかのように、音もなく村全体を覆い尽くしていく。
さっきまで見えていた家々の輪郭も、灯りも、全てが乳白色のカーテンの向こうに隠されてしまった。
気味が悪いほどの静寂。
自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。
霧からは、カビ臭いような、それでいて何か生臭いような、嫌な匂いがした。
その時、霧の奥から、低い唸り声のようなものが聞こえてきた。
一つじゃない、いくつもの声が重なり合っている。
――グルルル……ギャァ……。
心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
本能的な恐怖が全身を支配する。
なんだ、今の声は?
動物……?
いや、違う。
もっと、こう……歪んだ、悪意に満ちた響きがあった。
霧がわずかに揺らめき、その向こうから何かが現れた。
「ひっ……!?」
思わず息を呑む。
それは、俺が知っているどんな生物とも似ていない、異形のものだった。
ぬらりとした灰色の皮膚、不規則に並んだ複数の赤い目、歪んだ長い手足。
体からは粘液のようなものを滴らせ、腐臭をあたりに撒き散らしている。
それが一体だけでなく、次々と霧の中から姿を現し、ゆっくりと、しかし確実に村の方へと進んでいく。
次の瞬間、村の方から絶叫が上がった。
「ぎゃあああああっ!」
「逃げろ! 家の中に!」
平和そうに見えた村は、一瞬にして地獄絵図と化した。
魔物たちは家々の壁をいとも簡単に破壊し、逃げ惑う村人たちに襲いかかる。
鋭い爪が、牙が、容赦なく振るわれる。
悲鳴、怒号、建物の崩れる音、そして魔物の不気味な咆哮。その全てが混ざり合って、俺の耳に叩きつけられる。
俺は、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
足が震えて、動かない。
目の前で繰り広げられる惨劇に、恐怖で体が完全に石化してしまっていた。
(助けなきゃ……)
頭の中ではそう思うのに、体が言うことを聞かない。
(ヒーローなら……こんな時、絶対に助けるはずだ……!)
そうだ、俺はヒーローになりたかったんじゃないか。
誰かを守れる存在に。
もしかしたら、このために俺はこの世界に来たんじゃないのか?
あの事故も、このベルトも、全てはこの瞬間のために……?
(でも……怖い……!)
あの異形な魔物たち。
あの圧倒的な暴力。
俺に何ができる?
下手に飛び出して、俺も殺されたら?
助けたい気持ちと、死への恐怖。
理想と、現実。二つの感情が俺の中で激しくぶつかり合い、身動き一つ取れなくさせていた。
その時だった。
腰に巻かれたベルトが、微かに、しかし確かに、温かくなったのを感じた。
まるで、心臓が脈打つように、バックルの中央が淡い光を放っている。
「……ベルトが……?」
腰のベルトが放つ微かな熱と光。
それはまるで、恐怖で竦む俺の背中を押すかのようだった。
◇
魔物の咆哮がすぐ近くまで迫っている。
村人たちの悲鳴も、もう断続的にしか聞こえない。
(逃げなきゃ……でも、どこへ?)
パニックになりかけた俺の目に、村から少し離れた森の端に古びた石造りの建物が飛び込んできた。
あれは……神殿か?
今は考える余裕なんてない。
俺は反射的に、その建物に向かって走り出していた。
苔むした石段を駆け上がり、朽ちかけた木製の扉を押し開ける。
中はひんやりとした空気に満ちていて、外の喧騒が嘘のように静かだった。
薄暗く、埃っぽい匂いがする。
壁は湿った石でできていて、床には枯葉や土が積もっていた。
長年、誰も足を踏み入れていないのだろう。
目が暗闇に慣れてくると、壁一面に何か描かれているのが見えた。
色褪せてはいるが、それは巨大な魔物と戦う、鎧をまとった人々の姿だった。
槍を構える者、剣を振るう者。
そして……俺が今腰に巻いているベルトと似たようなものを装着し、光を放つ者。
これが、この世界の「英雄」たちの姿なのか。
壁画はまるで、古代の叙事詩を物語っているかのようで、俺はその場に立ち尽くし、しばし見入ってしまった。
神殿の奥へと進むと、簡素な石造りの祭壇があった。
その上には、分厚い埃に覆われた、奇妙な物体が一つだけ置かれていた。
「……ベルト……?」
それは間違いなく、ベルトだった。
しかし、俺が知っているどんなヒーローのベルトとも違う。
鈍い金属で作られたバックル部分は、複雑な幾何学模様が刻まれ、中央にはくすんだ宝石のようなものが嵌め込まれている。
ベルト部分は革製のようだが、ひび割れて硬化している。
古風で、どこか神秘的な雰囲気を漂わせていた。
何かに導かれるように、俺はそっとそれに手を伸ばした。
埃を払い、冷たい金属のバックルに指先が触れた、その瞬間。
バチッ!!
強い静電気のような衝撃と共に、腰のベルトが激しく反応した。
さっきまでの比じゃない、強い熱と光を発し始める。
「うわっ!?」
驚いて手を引っ込めようとしたが、遅かった。
祭壇の上の古びたベルトが、まるで磁石に引き寄せられるように宙に浮き上がり、俺の腰のベルトに向かって飛んでくる。
「な、なんだよこれ!?」
二つのベルトが接触した瞬間、目も眩むほどの強烈な光が神殿全体を包んだ。
金属が溶け合うような、あるいは無数の光の粒子が再構成されるような、言葉では言い表せない現象が目の前で起こる。
熱い!
いや、熱いというより、何か根源的なエネルギーの奔流が、二つのベルトを媒介にして俺の体に流れ込んでくるような感覚だ。
光が収まった時、俺は恐る恐る自分の腰を見た。
そこには、全く新しいベルトが巻かれていた。
俺が作った現代的なデザインのバックルを核にしながらも、表面には古代ベルトにあった神秘的な幾何学模様が融合し、より洗練され、力強い印象を与えている。
中央のクリアパーツは深い青色に輝き、その奥で複雑な光が明滅している。
ベルト部分も、しなやかで強靭そうな未知の素材に変わっていた。
そして、ベルトから流れ込んでくるエネルギー。
それは痛みではなく、むしろ全身の細胞が活性化するような、力がみなぎる感覚だった。
同時に、知識が頭の中に直接流れ込んでくる。
このベルトの使い方、変身の方法、そして……その名が「クロノスベルト」であること。
呆然としながら顔を上げると、さらに信じられないことが起こった。
さっきまで意味不明な記号にしか見えなかった壁画の文字が、すらすらと読めるようになっていたんだ。
そこに刻まれていたのは、祈りのような、あるいは命令のような言葉だった。
『――永き眠りの時を経て、最後の英雄よ、目覚めよ。汝の力で、再びこの世界に光を――』
最後の……英雄……?
状況は全く飲み込めない。
でも、一つだけ確かなことがある。
このベルトは、ただのレプリカじゃない。
そして俺は、もうただの特撮オタクの大学生じゃいられなくなったんだ。
神殿の外から、再び魔物の咆哮と、村人の短い悲鳴が聞こえてきた。