第15話 異世界の旅路と文化
エレミアの喧騒を背にして、俺たちの本格的な旅が始まった。
目指すはアーシャの故郷、「風の谷」。
エレミアから東へ、七王国連合の中でも特に辺境とされる地域を抜けていく長い道のりだ。
最初の数日は、まだエレミア近郊の比較的整備された街道を歩いたが、次第に道は険しくなり、周囲の風景も荒涼としたものへと変わっていった。
緑豊かな森が途切れ、ごつごつとした岩山や、乾燥した風が吹き抜ける草原が広がる。
時折、遠くに魔物らしき影を見かけることもあり、野営の夜は交代で見張りを欠かせなかった。
焚き火の炎だけが頼りの暗闇の中、アーシャが狩ってきた(らしい)硬い干し肉を齧り、ルークが汲んできた水を飲む。
そんなサバイバルな日々だ。
「なあ、アーシャ。風の谷って、あとどれくらいなんだ?」
焚き火にあたりながら俺が尋ねると、アーシャは地図を広げながら答えた。
「この山脈を越えて、さらに森を抜けた先だ。順調にいっても、あと十日はかかるだろうな」
「と、十日……!?」
思った以上の長旅に、俺は少し気が遠くなった。
ルークは「冒険みたいでワクワクするぜ!」と元気いっぱいだけど。
旅の途中、俺たちは食料や水の補給のために、いくつかの小さな村に立ち寄った。
そこで俺は、この世界の文化の多様性と、「英雄」という存在がいかに様々な形で語り継がれているかを目の当たりにすることになった。
最初に訪れたのは、山の中腹にある、比較的豊かな村だった。
石造りの家々が並び、畑には青々とした作物が実っている。
村人たちの表情も明るく、俺たち旅人にも親切に接してくれた。
驚いたのは、村の中央広場に、太陽を背にした勇ましい英雄の巨大な石像が祀られていたことだ。
「あれは、我らが村をお守りくださる『太陽の英雄ソル』様じゃ」
村の長老らしき、長い白髭を蓄えた老人が、誇らしげに教えてくれた。
「大昔、この地を襲った闇の魔物を、ソル様がその光の力で打ち払い、我々に豊穣をもたらしてくださったのじゃ。今でも、年に一度の収穫祭では、ソル様への感謝の祈りを捧げておる」
ここでは、英雄はまさに「神様」のような存在として、人々の生活に深く根付いているようだった。
振る舞われた食事も、香りの良い木の実を使った煮込み料理や、ふかふかのパンなど、これまで食べた異世界食の中では一番美味しかった。
しかし、次に立ち寄った、寂れた鉱山町の村では、英雄に対する評価は全く逆だった。
村は活気がなく、家々は煤けていて、すれ違う人々の目つきもどこか疑り深い。
広場の片隅には、英雄らしき人物が描かれた古い壁画があったが、その顔の部分は意図的に削り取られていた。
「英雄……? ちっ、疫病神の間違いだろうが」
酒場で情報を集めようとした俺たちに、鉱夫らしい男が吐き捨てるように言った。
「百年前だったか……この辺りを治めていた英雄様とやらが、仲間割れで大暴れしてな。そのせいで鉱山は崩れるわ、街は半分焼けるわで、散々な目に遭ったんだ。それ以来、ここでは英雄なんて言葉は禁句よ」
壁画には、二人の英雄らしき人物が互いに武器を向け合い、背後で街が炎に包まれている様子が描かれていた。
アーシャが以前話していた、「英雄終焉の夜」の悲劇の一端なのかもしれない。
ここでは、英雄は崇拝の対象ではなく、災厄の記憶として人々の心に刻まれていた。
出された食事も、硬い黒パンと、味の薄い根菜スープだけだった。
立ち寄る場所ごとに、英雄の評価は天と地ほども違う。
食文化も、人々の気質も、服装や挨拶の仕方も、少しずつ異なっている。
俺はまるで文化人類学の研究者になったような気分で、その違いを興味深く観察していた。
(場所が変われば、正義の形も変わる。絶対的なヒーロー像なんて、やっぱりないのかもしれないな……)
夜、野営の焚き火を囲みながら、俺はそんなことを考えていた。
「でもさ、どの村でも、みんな何かしらの『物語』を信じて生きてるんだよな。それが英雄伝説だったり、土地の神様の言い伝えだったり……」
「物語なんて、所詮は誰かの都合の良いように作られたものだ」
アーシャが冷めた口調で言う。
「真実とは限らん」
「そうかもしれないけど……でも、その物語が、人々の支えになってる部分もあるんじゃないかな」
俺がそう言うと、アーシャは黙ってしまった。
彼女の故郷「風の谷」には、どんな英雄伝説が伝わっているんだろうか。
彼女はその伝説を、どう思っているんだろう……。
「俺は強い英雄が好きだな! バーンって魔物をやっつけるやつ!」
ルークが、無邪気に木の枝を振り回しながら言った。
その純粋さが、少しだけ羨ましかった。
俺がなるべき英雄の姿は、まだ見えない。
でも、この旅を通じて、様々な価値観に触れることで、少しずつその輪郭が見えてくるのかもしれない。
俺は、揺れる焚き火の炎を見つめながら、そんなことを考えていた。
風の谷への道のりは、まだ遠い。
◇
エレミアを出発してから、もう何日経っただろうか。
辺境への旅は、想像以上に過酷だった。
道は険しくなり、時には魔物や盗賊の気配に怯えながら野営することもあった。
それでも、アーシャの的確な先導と、ルークの持ち前の明るさのおかげで、俺たちはなんとか旅を続けていた。
様々な村で聞いた英雄伝説の違いは、俺の中で「ヒーローとは何か」という問いを、より深く、複雑なものにしていた。
そんな旅の途中、岩がちな丘陵地帯を歩いていた時のことだ。
道の脇に、大きな荷物を広げて座り込んでいる人影を見つけた。
近づいてみると、それは一人の女性だった。
古めかしい、学者のようなローブを着て、地面に広げた羊皮紙に何やら熱心に書き込みをしている。
その周りには、うず高く積まれた書物の山。
そして、鼻の上には……一つ、二つ、三つ……いや、もっとか?
いくつもの形の違う眼鏡を、重ねるようにして掛けている。
(この人は……確か……)
俺はその特徴的な姿に見覚えがあった。
エレミアで教授の研究室を訪ねた時に、確かいたはずだ。
英雄の研究をしているとかいう、変わり者の……。
「あの……すみません、大丈夫ですか?」
俺が声をかけると、彼女はこちらに気づき、顔を上げた。
そして、一番手前にあった眼鏡を外し、別の眼鏡を掛け直しながら、きょとんとした顔で俺を見た。
「おや……あなたは、たしかエレミアで教授のところにいた……一翔さん、でしたか?」
「あ、はい! 覚えていてくれたんですね。えっと……エレナ、さん?」
「ええ、エレナ・フォスターです。英雄学を少々嗜んでおります」
エレナさんは、やはり俺のことを覚えていたらしい。
彼女は立ち上がり、服についた土を払いながら言った。
「奇遇ですね。今、風の谷へ向かっている途中なのですよ。あそこには、失われた英雄時代の貴重な古文書が眠っているという噂を聞きましてね」
「えっ、エレナさんも風の谷に?」
これは本当に偶然だ。
「それにしても……」
エレナさんは、掛けている眼鏡をまた別のものに掛け替えながら、俺の腰のベルトに鋭い視線を向けた。
「あなたのそのベルト……やはり興味深い。英雄クロノス、でしたね? あなたの変身と能力は、私の研究している『英雄パターン分類』の中でも、極めて稀有な『時間型』に該当する可能性が高いのです!」
彼女は興奮した様子で、鞄から分厚い資料を取り出し、俺に見せ始めた。
そこには、歴代の英雄たちが「守護者型」「変革者型」「賢者型」など、能力や役割によって細かく分類され、分析されている。
「例えばですね、第一級英雄『太陽のソル』は典型的な守護者型、百年前の『炎の剣士ライアン』は変革者型に分類できますが、あなたの『時間歪曲』能力は、記録にあるどのパターンとも微妙に異なる……ああ、実に興味深い!」
彼女の研究への情熱は凄まじく、俺はただ圧倒されるばかりだった。
アーシャは少し離れた場所で警戒するように様子を窺い、ルークは「学者先生、すげー!」と目を輝かせている。
一通り説明し終えた後、エレナさんは期待に満ちた目で俺を見た。
「つきましては、一翔さん! 是非とも、あなたのその貴重な能力と経験について、詳しく調査させて頂けませんか!? もしよろしければ、風の谷まで、このエレナ・フォスター、あなたの旅に同行させていただけると、研究者としてこれ以上の喜びはありません!」
彼女は、悪気はないのだろうが、いささか強引に、そして周りの状況などお構いなしといった様子で申し出てきた。
俺は少し戸惑ったが、彼女の持つ知識は、俺にとっても非常に有益なものに思えた。
「俺は構いませんけど……アーシャはどう思う?」
俺が尋ねると、アーシャはふんと鼻を鳴らした。
「……足手まといにならなければ、好きにすればいい」
どうやら、完全な反対ではないらしい。
彼女も、エレナの知識が役立つ可能性は感じているのかもしれない。
「やったー! これで旅がもっと面白くなるね!」
ルークは素直に喜んでいる。
こうして、俺たちの旅に、英雄学者エレナという、ちょっと(いや、かなり)風変わりな仲間が加わることになった。
彼女と話していると、時折、その言葉遣いや知識の中に、何か引っかかるものを感じることがあった。
この世界の常識とは少し違うような、どこか現代的というか……。
気のせいかもしれないが、彼女もまた、何か秘密を抱えているのかもしれない。
ともあれ、エレナさんの専門的な視点は、俺が「英雄」について考える上で、きっと新たな光を当ててくれるだろう。
俺は、彼女の知識への敬意と、ほんの少しの警戒心を抱きながら、新たな仲間と共に再び風の谷への道を歩き始めた。