作戦
フィオラが、海の女王が、現れた。
海の生きものたちは歓喜に沸き、興奮に満ちていた。
女王は現れるや、願いがあるとみんなに告げた。
みんなは女王の望みを叶えるべく、相談を始めた。
「還すって言ったって、どこに還すんだ?」
「人の世界は広い。それに、危険だ」
大きなウツボが疑問を口にすれば、エイはひらりと舞うように泳ぎながら懸念を漏らす。
それに同調するものが、唸るような声を上げた。
海に暮らすものたちは知っていた。
人間というものが、どんなに恐ろしいものかを。
今では陸地はその殆どが人の暮らす場所となっていて、他の生きものは人によって概ね管理されてしまっていた。
そして人は、その陸地を巡り、同じ人同士で危害を加え合ったりもしていた。
縄張り争いと呼ぶにはあまりにも酷いそのやり方は、自然に対する敬意も、他の生きものへの配慮もない。
海においても我が物顔で広く繰り出し、バランスが崩れるほどの乱獲を行っていたり。
とても臭く汚いものを海へと注ぎ入れ、汚したりしていた。
はっきりいって、ここに暮らす者たちは人間が恐ろしいし、嫌いだった。
あまりにも傲慢であり、不遜であるが故に。
到底許せないことを遥か昔から繰り返され続けたせいで、たとえ瀕死の人間が流れて来たとしても、これまでは助ける気など毛頭起きなかった。
しかし、今回は話は別だった。
女王の願いとなれば、そんな深い遺恨すらもどうでもいい。
課せられた前例のない使命を全うするべく、全力を以てみんな事にあたっていた。
最初の課題は場所だった。
帰すと言っても、広大な陸地の何処に返せばいいのか。
陸地はこの広い海のあちこちにあり、その内のどの場所にも概ね人間は生息していた。
返す先は、どの浜なのか。
どこでもいいのか。
陸地が海と同じくらい広いことは知っている。
この人間が人間の世界には帰れたとしても、そこから無事に元いた場所まで自力で辿り着けるとは、彼らには到底思えなかった。
しかし、その問題はあっという間に解決した。
「それは大丈夫よ。この人間は私の一部を持っている。そして、その欠片が陸にあるわ」
フィオラは自らの一部であったかつての葉の一枚を、この人間が持っていると言った。
そして、その葉と対になっていたもう一枚が今も海に程近いとある陸地にあり、気配を感じとることができると言うのだった。
フィオラは、それがあるその場所がこの人間の帰る場所だと明言した。
「それなら話は早い」
「その場所に近い浜へ送り届ければいいのだな」
マンボウが明るく言えば、カブトガニが続けた。
最初の課題が解決する頃には、みんな前向きに議論していた。
もう誰も、人間に対する思いを口にしない。
それはこの海において、自然の摂理だった。
海の女王が助けたいと願っている。
人間に対する思いは変わらなくとも、その望みを反故にするなど、誰にもできないのだった。
「レンさん」
「ああ」
ラピスが声をかければ、レンも頷いた。
レンはフィオラに熱の籠もる視線を向けると、眉尻を下げて微笑んだ。
「他ならぬ貴女の頼みなら、端から断れるはずがないんだ」
必然的にこの楽園で一番の知恵者であるレンが、指揮を取って算段を立てることになった。
やる事が決まれば、あとは早い。
必要なもの、条件、情報を一つずつ整理していくことにした。
まずは人間を移動させるための準備だ。
レンは記憶を頼りにちょうど良さそうなものを考える。
何か器に入れて運ぶのが良いだろうと思いついた。
「大蛸が、人間が木で作った器を住処にしていたな。それを借りるのはどうだろう」
そう発案しラピスを見れば、ラピスは小さく頷いて大蛸の側へと泳ぎ寄る。
ラピスが頼むと、大蛸は快く大きなフジツボのようなものを貸してくれた。
だいぶ昔に流れ着いた木の器は大きさもちょうど良く、強度も問題なさそうだった。
器は決まった。
だけど、これだけでは駄目だ。
レンは知りえる限りの人間の生態を語り出した。
「人間は海中生物よりも体温が高い。この楽園は水温も高く暖かいが、これから目的の方向へ向かうとなると、水温はどんどん下がってくる」
次の問題は移動時の環境管理。
これが中々難しかった。
「どうすればいいの?」
「暖める必要があるだろうな」
「暖めるって、どうやって?」
レンは少し考えて、そうだ、と提案する。
「水鳥たちに羽毛を分けてもらおう。それをこの器に人間と一緒に詰めればいいだろう」
博識とは知っていたが、ここまで知識と知恵があるとはみんなも知らなかったようだ。
レンに対して感嘆の溜息があちこちから漏れ聞こえた。
すぐさまラピスが海面に顔を出し、イヴにレンの考えを伝える。
海鳥たちはイヴの指示の元、自らのネットワークを最大限利用して少しずつ羽を持ち寄ると、あっという間に器一杯の羽毛を集めた。
器は羽を蓄えたまま、イヴと海鳥たちによって海面から突き出た岩礁に運ばれた。
イヴが決行の日まで、そこにある洞窟で保管することにした。
「それから、一番大事なこと。人間は水中では生きられない」
レンがそれを伝えると、海中ではざわざわと戸惑いの声が上がった。
「魚たちが陸に上がると、苦しくて死んでしまうだろう?それと逆に、人間は水中ではあっという間に息が出来なくなって死んでしまうんだ」
みんな、何となくはわかっていた。
人は海の中にその身一つでやって来ることはまずない。
いつも何かに覆われたり、海面に浮かぶものに乗ったりしてやって来る。
だがそれが、息ができないからだとは思いもよらなかった。
レンが深海樹へと視線を移すと、みんなもつられるようにそちらへ視線を向けた。
そこには変わらず空気の粒が降り注ぎ、枝へと集まっていく。
「今もフィオラが常に新鮮な空気を集めて交換しているんだろう?」
「ええ。海が海面から送ってくれてるわ」
レンが聞くと、フィオラが頷いた。
あの夜起きたこの異変はそのためのものだったのだと、みんなこの時漸く理解した。
とりあえず、今は空気の心配はない。
でも移動しながら空気を送り続けることは、どう考えても難しかった。
これはかなりの難題になった。
つまりは、常に海上を移動しないといけないということになったからだ。
海鳥も人間同様、水中では呼吸ができない。
しかし、潜水して泳ぐこともできるし、海面にいつまでも浮いている事もできる。
更には空高く飛び上がり、浜や人の暮らす陸地にだって自由に行くことができた。
試しに、イヴに聞いてみた。
海鳥の力で空を運ぶことはできるのか、と。
答えは即答で無理だった。
海鳥の移動方法は参考にはできない。
レンはもうこれしかないと腹を括り、口を開いた。
「運搬はイルカに頼もうと思う」
それ聞いたイルカたちは、レンの側まで素早くやってくる。
そして、興奮気味に息巻いた。
「任せておいて!」
「私たちがやる!」
こうして、実行部隊はバンドウイルカの群れに決まった。
レンとイルカは簡単に相談を済ませ、数頭の背鰭と器を繋いで固定し運ぶ事になった。
それにラピスが付き添い、器が落ちないように支えたり、補佐を行う。
固定に使うのは、長めの海藻を使ったり、海鳥たちに島から植物を取ってきて貰って行うことになった。
「……私も、上空を飛んで一緒に行く」
ラピスが概要を伝えると、イヴは自分も行くと言い出した。
正直、海上を行くとなると速度も落ちる上、わからない事も多いので不測の事態も起こりやすい。
海上に慣れたイヴの存在は、ラピスにはとても心強かった。
レンにイヴの同行を伝えると、レンも珍しく海面までやってきてイヴの考えを聞いた。
「……天気の変動や、進行方向に人間がいたりしたら、その都度知らせる」
「そうだね、うまく天候の安定しているルートを選んで進もう!」
前向きなイヴとラピスに、レンはしっかりと釘を指す。
「でも空にいるイヴは人の目にとまる可能性が大いにある。島や陸には近づかないようにね」
「……わかった」
レンは自分の心配していることを、ふたりに伝えた。
「いいかい、一番怖いのは他の人間に見つかることだよ」
それを口にした瞬間、緊張感が辺りを包んだ。
レンは強い視線でふたりを見つめる。
「特にラピスとイヴは希少種だ。絶対に見つかってはいけないよ」
ラピスはごくりと唾を飲む。
イヴは大きく頷いた。
「細心の注意を払って行こう」
レンが最後にそう言いながら、ふたりの緊張を少しだけ和らげるように微笑んだ。
「うん!」
「……わかった」
ラピスとイヴも力強く応えて微笑むと、気合を入れて頷き合うのだった。
浅瀬まではイルカたちが請け負ってくれた。
そこから先、浜に近づいた後はアオウミガメたちに任せることになった。
「私たちは海中を追いかけて行きます」
「浜へ上げる時はお任せください」
ウミガメは産卵のために砂浜へ上がる。
浜に上がることにおいては、彼らが一番得意だった。
これである程度の方向性は決まった。
これからはもっと具体的、かつ現実的に詰めていくことで話はまとまった。
一連のことを黙って見守っていたフィオラは、海上にまで届く声を辺りに響かせた。
「みんな、ありがとう」
何もできないことがもどかしかった。
自分のしたい事なのに、自分でできない。
しかも、自分の我儘で、みんなを危険に晒すことになる。
フィオラは、悔しさと心からの感謝を滲ませて声を送った。
すると、それを知ってか知らずか、周りから明るい声が返ってきた。
「お礼を言うのはまだ早いよ、フィオラ!」
「そうさ、本番はこれからだよ!」
「さあ、準備を始めよう!」
小さな魚たちからヤドカリ、珊瑚に至るまで、みんなが自分にできる事をしようと張り切っていた。
それも、どこかわくわくとしたような響きを含んで。
「大丈夫、みんな案外楽しんでるよ」
「そうだよ!」
レンとラピスがフィオラの手を握り笑い掛けた。
フィオラは周りを改めて見回して、みんなの様子をよく見つめる。
みんな興奮した様子で、なんだか楽しそうに動いていた。
「うん」
フィオラは嬉しくなって、いつしか笑っていた。
「みんな、お願いね」
大切で、大好きな仲間たちを信じて。
準備は少しずつ進んでいった。
「人間の傷がもう少し癒えたら、始めよう」
レンの言葉で決行の予定がたった。
この人間は、瀕死だった。
フィオラに見せられた時は、そのまま死ぬだろうと思ったものも多かった。
フィオラが言うには、これでも大分回復したという事だったので、初めはどれだけ酷い状態だったのかと信じられなかった。
海に住む生きものたちは、きっとフィオラが癒したのだと思った。
きっと女王の慈悲により、この人間は命を取り留めたのだと確信していた。
月が掛けていき新月が近くなった頃、ついに出発の日を迎えた。
目的の浜までの距離はわからない。
途方も無く遠いということは分かっているが、どれだけかかるのかは想像もできなかった。
ラピスは海面から大きな貝に空気を入れて持ってくると、人間の頭にそれを被せた。
しっかりと頭が覆われたことを確認してから、レンは長い脚を器用に使い人間を枝の籠からそっと出した。
「人間って怖いっていうより、面倒くさいものなんだね」
ふたりで人間を海面まで運びながら、笑いあう。
恐怖の対象でしかなかった人間と初めて触れ合って、いかに弱い生きものなのかを知ったのだった。
海面まで浮上すると、イヴと海鳥たち、そしてイルカたちが待っていた。
イルカの背鰭にはすでに羽を敷いた器が用意してある。
その中へ人間を入れると、海鳥たちが羽を隙間に詰めた。
これなら寒さからも、多少の衝撃からも守ってくれそうだった。
レンは器の変わりように言葉をなくしていた。
内側は以前見たままだったが、外側が大きく変わり果てていた。
どう見ても巨大な鳥の巣にしか見えない。
「……蓋も、付けてみた」
イヴの言葉に、レンとラピスは思わず吹き出した。
「こりゃいい!完璧だ!」
器の外側を、みんなで枝葉やら唾液やら糞やらで固めたらしい。
少し心配だった強度もだいぶ上がったようだし、何より浮力が格段に増していた。
通気性もある蓋を被せれば、安定して海面に浮いていて、これなら波に揺られても沈みそうもなかった。
準備は整った。
レンは海中へ戻り、フィオラにそれを伝える。
フィオラはしっかりと頷いてから、静かに指を組んだ。
残っていた葉が光り輝き、一枚、また一枚と海中に旅立ってゆく。
そして、残りの全ての葉を解き放った。
「この葉を追って」
フィオラの声と共に速度を上げて流れ始める葉は、海上からもしっかりと見えた。
眩しいくらいに光り輝き、真っ直ぐに目的地を目指して流れていく。
「海が流れを作って道を示してくれるわ。この葉の辿り着く先が、目指す場所よ」
ラピスとイヴ、そしてイルカとウミガメたちは、葉を追って楽園を出発した。
強い意志で葉が落ちるのを抑えていたフィオラだったが、最後に全てを解き放った瞬間、新たな芽が一気に芽吹き始めた。
小さな芽は次々と海中に広がり、豊かな葉を茂らせてゆく。
辺りにわっと、歓声が起こった。
月のない漆黒の夜の海中が、光り輝く葉で眩く煌めき出す。
あまりにも神秘的な光景に、誰もが見惚れていた。
深海樹のこの現象は、いつもお祭り騒ぎが起きるくらい特別なものだった。
ラピスもいつもこの瞬間に立ち会って、見つめ続けて来た。
その感動と興奮が、今夜は背中から伝わってきた。
今回は見ることは出来ないけれど、その神秘を感じ取れば自然と笑顔になった。
それに後押しされるように、ラピスたちは先を行く葉を追って、楽園を後にした。
楽園を出発してから数日、行程は順調だった。
天気も波も安定しているし、人間に遭遇することもなく進んでいた。
海がフィオラの願いに応えている為か、流れも風も後押ししてくれている。
時々、器を運ぶイルカや、空を追従する海鳥を交代させたりしながらも、予定通り目的の浜へと向かっていた。
点々と雲の浮かぶよく晴れた空に、イヴの色鮮やかな翼が映える。
ラピスはそれを見上げて、なんて美しいんだろうと思いながら泳ぎ続けていた。
すると、不意にイヴが高度を下げてラピスに近寄り、声を上げた。
空から緊急の合図が入ったのだ。
「……大変。この先に鯖の群れがいる」
イヴがそう言うと、補足するべく一羽のカモメが続けた。
「人間が追い込んだせいで移動してきたんだ。その内その人間もこっちにくるぞ」
「なんだって!?」
イルカが焦って叫ぶ。
ラピスは、どうするか思案した。
迂回するしかないか。
でもそうすると、追っている葉を見失ってしまうかもしれない。
自分たちは迂回して、海中から進行しているウミガメたちに葉を追わせるのが最善か。
そう考えていた。
すると、すっとラピスたちの脇に一匹のホオジロザメが寄ってきた。
そして、一言。
「俺たちが行こう」
そう声を上げた。
その後ろには、他にも数匹の鮫たち。
ラピスは危機の回避を悟り、表情を明るくした。
「ありがとう!」
「気にするな。俺たちにもうまい話だ」
鮫たちは言うな否や、あっと言う間に行ってしまった。
鯖の群れめがけて一斉に加速する。
そのまま遥か遠くの群れに飛び込むと、大量の鯖を頬張りながら追いやっていった。
助かった。
これでまた真っ直ぐに進むことができる。
楽園に暮らすものだけでなく、この広い海に棲むみんなが助けてくれる事に、ラピスは感動した。
きっと、海の女王が誕生したことがもう広まっているのだろう。
そしてその願いも。
ラピスはこれからの道のりもなんとかなりそうだと感じ、心強さを覚えていた。
それから、また暫くは安定して進む事ができた。
時折、人を乗せた大きなものを避けたり、波間に身を隠してやり過ごしたりということはあったけれど、特に問題もなく泳ぎ続けていた。
しかし、それはある時突然やって来た。
海中深くを何かが近づいてくる。
それも、後ろからもの凄い速度で。
生きものではない。
無機質でとても不気味なものが、どんどん差し迫っていた。
ラピスは、そのもののあまりの大きさに震えた。
イルカやウミガメたちは、恐怖に固まるしかない。
得体の知れないものへの不安で動けなくなっていると、すかさず空から救いの声が降ってきた。
あれは中に人間が入っていて操っているのだと、イヴが海鳥からの情報を届けてくれた。
「……じっとしていれば大丈夫」
でもそれは生きものの影を見ているから、ラピスにはイルカの上に乗ってやり過ごすように伝えた。
ラピスは言われた通りイルカの背に乗って、海中を見つめた。
それはラピスたちの遥か下の方を通って、追い越していった。
気配がなくなって、ほっと安堵のため息をついた。
人間があんなものを作れるなんて、ラピスは知らなかった。
人間とは本当に恐ろしいものだと、改めて実感した。
この旅の始まりから、時々イヴが空から木の実などを届けてくれた。
それもレンの指示で、より水分の多いのもを選んであった。
もちろん集めてきたのは海鳥たち。
近くの島々まで飛んで行っては、何度も採って来てくれたのだった。
鳥から受け取った木の実を、ラピスは潰してから人間の口に入れた。
人間は無意識にそれを飲み込んだ。
目指す陸地に向かいながら、その作業を何度も繰り返す。
ラピスは指が木の実の色に染まってしまう事も構わずに、こまめに与え続けていた。
レンが言うには、こんなに恵まれた海というものがあるのに、人間にはそれでは駄目らしい。
ラピスはそれが本当に不思議だった。
あんなに恐ろしいものを作れるくせに、こんなにも面倒くさい。
ラピスは、知れば知るほど人間というものがわからなくなってゆくのだった。
夕陽が辺りを紅く照らし出す。
長い旅の果てに、遂に目的の陸地が遠くに見えてきたと、イヴから連絡があった。
ウミガメからも、フィオラから放たれた葉が全てその浜へ流れ着いたと報告が入る。
ラピスは身震いする程の興奮を抑えて、最後の仕事を遂行するべく気合を入れ直した。
器を包んでいた鳥の巣はもうほとんどが剥がれ落ち、木の部分が多く見えていた。
蓋も少し前に取れてなくなってしまい不安を覚えていたが、なんとか保ってくれそうで安堵した。
ラピスは合図を送り、イヴを先に楽園へと帰らせた。
もう人間のたくさんいる陸地付近まで来ている。
身を隠す場所のないイヴには、とても危険だと判断した。
イヴは、帰還する前にその陸地を縄張りとする鳶を呼んで事情を話し、協力を取り付けて帰って行った。
ラピスは手を振ってイヴを見送ると、早速鳶に意見を聞いた。
鳶はよく人間を観察している。
もたらされた情報は、とても有益なものだった。
「この辺りの海は凪ぎの日や満潮は人が少ないぞ」
「理由はわからないが、波の高い日は人間がうようよいる。近づくなら満潮だな」
「それと時間は日の出前がいいだろう。この辺の人間は日の出と共に動きだし、日が沈むと眠るようだ」
ラピスは良かったと歓喜した。
ちょうど今夜、満月が沈む頃がその条件に当てはまる。
あたりも暗くなるし、なんとも良いタイミングだった。
新月の夜に出発して、今夜は満月。
ラピスは人間に見つからないようにイルカたちと沖合いに待機し、時を待った。
長い旅路だった。
でもそれも、あと少し。
日が落ちて月がてっぺんまで登り、更に半分ほど下がったところで、ラピスは目的の浜を目指して進み始めた。
ゆっくり慎重に、警戒しながら砂浜へ泳いでゆく。
「私たちはここまでのようだ」
群れのリーダーのイルカが言った。
ラピスは頷いてから、そのイルカを抱きしめた。
ここまで共にやって来た、特別な仲間たち。
心からの労いの気持ちを込めて、感謝を伝えた。
「ありがとう」
「もう少しだ。あとは頼む」
「うん。アオウミガメを呼ぶね」
海中に顔を入れて呼べば、すぐに三匹の大きなアオウミガメが近寄ってきた。
首の付け根に海藻を括り付けると、イルカから器を外し、そこへ繋げ直した。
器はまだなんとか浮力を保ち、浮いていた。
「さあ、あとひと息よ」
イルカたちの見守る中、ラピスとアオウミガメたちは最後の大仕事に挑むのだった。
日の昇り始める少し前。
たどり着いた浜は満潮だった。
鳶の情報通り人間に見つからずに、浅瀬にアオウミガメと共に上がってゆく。
波が段々と引いていくのに合わせて、私たちはなんとか人間を砂浜に引き上げた。
絡み合った海草をなんとか解くと、人間を入れていた器が壊れた。
明るくなり始めた空の下で改めて見てみると、ここまで保ったことが信じられない程ぼろぼろだった。
散乱した木片は、ラピスにはまるで、役目を終えたと言っているように見えた。
共に詰めていた海鳥の羽が、風に乗って舞い上がる。
水平線から昇り始めた朝日に照らされて、まるで黄金色の羽が舞っている様だった。
ラピスは人間が息をしていることを確認すると、アオウミガメたちと急いで海へ戻る。
遠くに、砂浜を歩く人間の影が見えていた。
こちらへ向かっていた様だから、きっとすぐにあの人間を見つけるだろうと思った。
もしかしたら、この人間が呼んでいたのはあの人間かもしれないと、そう思った。
しかし、そんな思いはあっという間に消え失せた。
もう、ラピスたちの役目は終わった。
あとはあの人間の運次第。
ここまでは海の女王の加護があったけれど、陸に上がればもう知ったことではないのだ。
ラピスたちはもうあの人間に対する興味を無くし、海へ戻ってゆく。
自分たちの場所へ帰るべく、力強く泳ぎ出した。
女王の待つ、彼らの聖域へと。