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海の女王  作者: 和泉 兎
7/9

フィオラ

 満月の夜。

 誰かがやってきた。


 気配を探ってみればすぐに、それは私のよく知る人魚とクラーケンだと分かった。


 ふたりは、私が人間を包んでいる辺りを観察していた。

 しばらくして、中にいるものを目にしたクラーケンは、不快感を露わにすると、すっと背を向けて泳ぎ去ってしまった。


 ひとり残された人魚は、去る気配はない。

 青ざめてはいるものの、未だにしっかりと視線を向けていた。


 私は彼女に、声をかけることにした。


 使えるようになったばかりの身体を、人間にほど近い枝に出現させる。

 そして初めて、口を動かして声を出してみた。


「ラピス」


 初めて放った言葉は、彼女の名前になった。


 ラピスのことは稚魚のときから知っている。

 他の者たちの事もみんな知っているが、やはり希少種であるラピスの存在感はとても大きかった。


 他の魚たちにもよく噂されていたし、自由に力強くあちこちを泳ぎ回る姿は、みんなの憧れだった。


 私はそんなラピスの成長を、ずっと感じてきた。


「え?」


 名前を呼ばれたラピスは、すぐに私を見つけた。

 その目はみるみる見開かれていく。


「う、……そ……」


 漸く絞り出した声は、震えていた。


「ラピス」


 私は、もう一度名前を呼びかけた。

 すると、ラピスははっと我に返り、私のすぐ傍まで躊躇いがちに泳いできた。

 そして、人型になった私をまじまじと見つめてから、信じられないという様な表情を浮かべた。


「あなた深海樹、だよね」

「ええ、そうよ。わたしは、……フィオラ」


 ラピスの問いかけに、頷きながら答える。

 人間が私に対して呟いたそれを、私は自分の名前にした。


 私の葉を見て囁かれたその音が、とても美しいと思った。

 気がついたら、無意識にそう名乗っていた。


「フィオラ!ああ、嘘みたい……!なんて綺麗!」


 綺麗?


 この姿になれるようになって初めて言われたけど、嬉しいと思った。


「ありがとう、ラピス」


 素直にお礼を返せば、ラピスは興奮した様子で私の側を泳ぎ回る。

 前から後ろから上から下から、あらゆる方向から見つめられて少し恥ずかしかった。


 私は、感極まって泣き出しそうな顔のラピスにもう一度話しかけた。


 どうしても伝えたい、大切な言葉があった。


「お願いがあるの」


 そう切り出すと、ラピスは泳ぎを止めて私の前へとやってきた。


「お願い?」

「ええ、そう」

「何でも言って!」


 間髪入れずに聞き入れてくれたことが嬉しくて、自然と笑みが溢れる。

 ラピスは、それにも見惚れた様子で感動を顕にした。


 私はラピスの手を取って、そっと握る。

 そして、その潤んだ瞳を見つめて切り出した。


「あのね、みんなに相談があるの」

「相談?」


 うっとりとした表情はそのままだったけれど、ちゃんと話を聞いて相槌を返してくれたので、私は話を続けた。


「みんなを集めてくれる?」


 そうお願いを口にすると、ラピスはすぐに大きく頷いた。

 そして、眩しい笑顔を振りまいて私の手をぎゅっと握り返してくれた。


「任せておいて!」


 言うな否や、ラピスは手を離すと方向転換しあっという間に泳ぎ去ってしまった。

 私はあまりの行動の速さに驚きながらも、感謝した。


 程なくして、私の周りにはたくさんの海の生き物たちが集まっていた。

 ラピスが私の願いを叶えて、あっという間にみんなを集めてくれた。


 その中には、さっき立ち去ったクラーケンのレンの姿もある。

 遠巻きにしてはいるが、彼女も大きな存在感を持ってそこにいた。


 そしてもうひとりの希少種、セイレーンのイヴも私の遥か上の海上の空にいる気配がした。


 私の周りには、種族や食物連鎖に関係なく、あらゆる生き物たちが集まっていた。

 ラピスは、本当にこの楽園に暮らす“みんな”を集めてくれたようだった。


 私は一度幹に戻っていた姿を、再びみんなの前に現した。

 枝の広がり始めの辺りの、一番みんなを見渡せる場所に上半身を形成する。


 ざわざわと騒がしかった周りが、途端にしんと静まり返った。

 誰も音を発しなければ、動きもしない。

 ただそこに在って、私を見ていた。


「みんな、来てくれてありがとう」


 まるで時間が停止してしまったような海中に、私の声が伝わっていく。


 それからひと呼吸おいて、わっと歓声が上がった。


「し、深海樹が!」

「凄い!凄い!」

「ああ、なんて美しいの……」

「フィオラ!フィオラ!」


 既にラピスから聞いていたのだろう。

 私が姿を現せるようになったことも、フィオラと名乗ったことも、それなりに広まっていたようだった。


 予め噂は聞いてはいても、実際に目の当たりにした時の衝撃は大きかったようで、周りは途端にお祭り騒ぎ。

 あちこちから興奮した声が上がり、世界が一気に動き出した。


 熱帯魚たちは私の周りを泳ぎ回り、枝の隙間を縦横無尽に泳ぎ抜けていく。

 イルカは急浮上して海面へと大きくジャンプを繰り返し、鯨は一際大きな潮を吹いて咆哮を上げた。


 その上空では海鳥たちがけたたましいくらいの鳴き声を響かせて、旋回や滑空を繰り返していた。


 レンとラピスがそんな様子を見上げながら、私のすぐ側までやってきた。

 私はそちらに向き直り、すぐに行動を起こしてくれたラピスにお礼を言った。


「ラピス、ありがとう」

「どういたしまして!」


 ラピスに微笑みかければ、嬉しそうな笑顔が返ってきた。

 その横に目をやれば、レンが興奮を隠しきれない様子で何か言いたそうにしている。


「レンも、戻ってきてくれてありがとう」

「いいえ!」


 人間を見て不快感を顕にしたレンが、また来てくれるとは思わなかった。

 レンだけでなく、私の呼びかけにこんなに多くのものたちが集まってくれるとは、思っていなかった。


 これなら、何とかなるかもしれない。

 私は、意を決して声を発した。


「みんな」


 途端、誰も彼もが動きを止めた。

 再び海中に、静寂が訪れる。


 みんなが私の声をしっかりと聞いてくれようとしていた。


「相談があるの」


 できるだけ遠くまで。

 海上の鳥たちにまで届くように、私は声を出す。


 誰も口を挟むこともなく、私が話し出すのを待っていた。

 みんなに感謝しながら、私はある枝の一部へと視線を向けた。


 私の葉は、ほとんど散っていた。

 でも一部の葉は落ちることなく、半円状に絡み合った枝にしっかりと生えていた。

 そこへ視線を送っていれば、みんなもそこへ注目した。


 私は、中の空気がこぼれないように、そっと葉を開く。

 その中を出来るだけ見えるように広げて、中を見せた。


「人間!」

「人間だ!」

「なんで!」


 突然の事に混乱が起きた。

 さっきまで歓喜していた者たちも、恐怖に右往左往して逃げ惑う。


 どうやらここに人間がいる事は知らなかったようだった。


 みんな人間に恐怖と怒りを隠しきれない。

 中には人間に牙をむこうとするものもいて、私は強く声を上げた。


「やめて!」


 大声を出したわけではなかった。

 でも、不思議なくらいよく通ったそれは、自分の耳でも煩いくらいによく聞こえた。


 その瞬間、みんなは叫ぶことも逃げ惑うことも止めていた。

 そして気がつけば、私にほど近いものから順番にひれ伏していくのが見えた。


 最初に、すぐ側にいたラピスとレンが。

 次に、木の周りを泳ぎ回っていた魚たちが。

 そして、海底に蠢いていた深海生物や、上空にいた海鳥までが、落ち着きを取り戻し頭を下げていた。


 宣言も、任命もない。

 必要なかった。


 私がやめて、と言った。

 その瞬間、誰もが動きを止めた。


 そこにいるものたちは、もう誰もその人間に対する感情を現すことはなかった。


 楽園に住むものたちにはわかった。

 この海に初めて、海の女王が現れた。


 今、目の前に。

 ここにいる。


 身体中が感じる。


 憧れ。

 喜び。

 畏れ。


 その場にいた者たちは、みんなその感情に震えていた。


 私にもわかった。

 自分で、自分の変化をしっかりと受け止めた。


 私はみんなを見回して、再び話しだそうと口を開く。

 しかしその時、別のものの声がそれを阻んだ。


 人間が、唸るように小さな声を上げた。


「……カ……ナミ……奏未……」


 どう聞いても私たちの言葉でない、その言葉。

 意味は全くわからなかった。

 でも誰かを呼んでいるということは、どうしてか理解できた。


 私は人間のすぐ側に姿を現して、その顔を覗き込む。

 苦しそうな、悲しそうな寝顔を見れば、胸が痛んだ。


「逢いたいの?帰りたいの?」


 問い掛けに答えはない。

 人間は、眠りながらも同じ言葉を繰り返し繰り返し音にするだけだった。


 ずず、と心が動いた。


 見えるようになって、話せるようになっても、私はこの樹の一部だからここを動けない。

 枝葉の届く範囲に姿を現すことしかできない。


 だから。


「みんなに、お願いがあるの」


 人間が声を発しても、もう誰も取り乱したりはしなかった。

 みんなが私の言葉にだけ意識を向けていた。


「この人間を、陸に返したい」


 私はみんなに視線を向けて、願いを口にする。

 海面から降りてくる空気の粒と、眩いほどの月明かりだけが、きらきらと揺れ動きながら降り注いでいた。


「お願い、手伝って」


 それに反対するものはいない。

 みんなは、私に向けたその熱い視線を以て、了承した。


 金色の光の降るその楽園で。

 海の女王の願いを叶えないという選択肢は存在しないのだった。

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