満月の夜
深海樹の枝の奥に何かを見たラピスは、またイヴに相談しにきていた。
いつものように岩場に腰掛け、見たことを話す。
イヴは時折相づちを打ちながら、静かに聞いていた。
「凪は治まったけど、気持ち悪いよね」
「……うん」
深海樹のすぐ近くで起こる異変を聞いて、心配そうに同意するイヴにラピスは切り出した。
「あのさ、レンさんに一緒に見に行って貰おうと思うんだ」
イヴはきょとんとした顔でラピスを見つめた。
そしておうむ返しに問いかける。
「……レンさんに?」
「うん。レンさんは滅多に外には出てこないけど、現状を説明すればきっと気になるはずだから」
「……そうだね」
「それに、レンさんはこの海で一番の物知りだし」
「……うん、いいと思う」
イヴに視線を向ければにっこりと微笑んで、賛成してくれた。
よし、レンさんの知恵を借りよう。
ラピスは博識のクラーケン、レンに会いに行くことにした。
レンはこの楽園で一番深い所にある洞窟に住んでいる。
昼間は大抵寝ており起こすととても機嫌が悪くなるので、ラピスは辺りが暗くなってからレンの元を訪れた。
「レンさん?」
洞窟の入り口で控えめに声をかける。
すぐに不機嫌そうな唸り声が聞こえて、その存在を知らせた。
まだ眠っていたらしいその声音に、ラピスは少し怖くなる。
湧き出る恐怖に耐えながら少しの間待っていると、どうやら完全に目を覚ましたらしく返事が返ってきた。
「誰だい?」
いらいらした気分そのままの声にラピスは少したじろいだが、気を取り直して再度声をかけた。
「レンさん、ラピスだよ。相談があるの」
それを聞いたレンは一瞬で機嫌が回復したらしく、洞窟から細長い脚を出すとくねくねと手招きをした。
「なんだいラピス、久しぶりじゃないか!入っておいでよ」
「うん、おじゃまします」
レンの機嫌が良くなったことにほっと安堵のため息を漏らし、ラピスは躊躇うことなく洞窟に入る。
さして広くないそこには珊瑚や真珠が敷き詰められ、周りの無骨な岩肌に反して足元は豪奢な空間となっていた。
奥の方に目をやれば、上半身を起こしたレンがラピスに笑いかけた。
「よく来たね。座りなよ」
「うん、ありがとう」
レンはそう言うなり、脚を使ってラピスの座る場所を作った。
腰から上はラピスのように人型に近かったが、下半身には吸盤のたくさんついた長い脚があり、いつもうねうねと艶めかしく揺れている。
ムラサキクラゲのような綺麗な色のその脚で器用に何でも掴んだり移動したりできるのだった。
ラピスが勧められた場所に落ち着くと、さっそくレンが切り出した。
「相談だって?」
「うん」
「ラピスが相談なんて、珍しいね」
レンの元には毎日いろいろな生き物がやってくる。
産卵に最適なタイミングや潮の流れの予想をして貰ったり、その時々で一番いい餌場を教えてくれと請われたりといつも忙しかった。
運悪く、空腹時や眠りを妨げられて不機嫌なレンの前に行ってしまうと捕食されてしまうこともあるけれど、それでもみんな何かと彼女を頼っている。
レンは楽園に住む者たちの占い師のような存在だった。
「深海樹についてなの」
「そのことか」
みなまで言わずに察したらしいレンに、ラピスはただ頷いた。
「話は聞いてるよ。凪が止んでもおかしいんだろ」
「そうなの」
ラピスは深海樹の上部の流れ、残った葉、そしてその中に何かが見えたことを順番に話した。
レンは黙って興味深そうに聞き入っている。
一通り伝えてラピスが意見を求めると、レンはそうだねとだけ応えてしばらく何やら考え込んでいた。
ラピスが次の反応を待っていると、レンはふうっとため息を漏らして、豪快に頭をかく。
脚と同じ色の癖のある髪を荒っぽく海中に漂わせて、今度は大きなため息を吐いた。
「仕方ない、見に行くか」
提案するまでもなく、そう決めたレンにラピスはぱっと表情を明るくした。
ラピスは内心かなり嬉しかった。
なぜなら、レンは気難しい。
機嫌を損ねると、猛毒のあるクラゲだろうが、海の圧倒的強者であるサメだろうがいつ食べられてしまってもおかしくないのだ。
同じ希少種である人魚のラピスであっても、無事でいられる保証なんてない。
すんなりと思う様に事が運んだラピスは、自然と溢れる笑顔で頷いた。
二人は早速、深海樹の様子を見に向かった。
深海の中でも一番深い場所にある洞窟を出て、深海樹のある場所を目指して浮上していくと、月が登り始めたようで水面が仄かな明かりに光っているのが見えてきた。
今夜は満月だから、夜でも充分明るい。
これなら深海樹の様子もよく見えるねと話しながら、ラピスはレンと深海樹の元へと泳いでいった。
深海樹の前までやってくると、海面からの月光によっていつにも増して美しいその姿に、ふたりは暫し見惚れた。
月明かりを浴びて色鮮やかに彩られたたくさんの珊瑚。
その中に悠然と佇む、深海樹。
きらきらと海中を舞い降りる空気の粒。
それに紛れて、まだ眠りについていない原色の魚たちが踊る様に泳いでいた。
そんな様子を眺めつつ、降りてくる泡を確認し、そして視線を葉のまだ残る枝の辺りへ向ける。
「あそこだね」
「うん」
レンが指を指したそこを凝視してみる。
やっぱり絡み合う枝と葉、その中から溢れ出る空気の粒でよく見えなかった。
「何かの巣のようにも見えるけど」
「深海樹に巣を作るなんて、ありえないよ」
「そうだね」
細い枝が大きく海中に広がっているため、目的の箇所にはあまり近づけない。
それでも可能な限り側まで寄って、観察を続けた。
そうしていると、大きな泡が吐き出されるようにして飛び出した。
わずかにほどけた枝の隙間から、泡は海面へと急浮上する。
泡が飛び出て枝が再び閉じてしまう瞬間、僅かに中の様子が垣間見えた。
そこに見えたのは、ひとつの人影。
話でしか聞いたことはない。
でも、ラピスにはすぐにわかった。
人だ。
「なんでこんなところに、人間が……」
レンは今見たものを信じられないとばかりに首を振りながら、不快感を露わに吐き出した。
ラピスは震えが止まらない自分の身体を、無意識に抱きしめた。
言葉なんて、出てこなかった。
ただただ衝撃だけがラピスを襲う。
深海樹の奥にあったもの。
それは枝葉に守られるようにして眠る、ひとりの人間だった。