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海の女王  作者: 和泉 兎
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 この星の、広い広い海の中の、ほんの僅かなその場所に、海に暮らす生き物たちが海の臍、あるいは楽園と呼ぶ海域があった。


 そこは常に温暖な気候を保ち、四季もなく、自然の恵みの豊かな場所で、多種多様な生き物たちが暮らしていた。


 色鮮やかな珊瑚やイソギンチャクが彩る海底は何段階かの深さに変化し、海面近くから深海付近まで続いていて、その水の色は海面側の空色から、より深い海底へ向かうにつれて夜色へと美しいグラデーションを見せていた。


 透明度は、遥か遠くの小さな魚まではっきりと見えるほど。

 魚たちはあらゆる方向に踊るように泳ぎ回り、海面からの光を反射してきらきらと煌めいていた。


 そんな場所の、やや深めの位置に繁る珊瑚の影に、大きなシャコガイがあった。

 すでに貝の中身はおらず、大きく口を開けたその中には別のものがいた。


 その白い二枚貝の中で、寝息をたてるのは一匹の人魚。

 緩く編んだ、ヒメアマエビの色に似た透き通るような紅みがかった長い髪を、細い腰の上に漂わせて眠っていた。


 幸せそうな表情で眠る彼女の顔の上に、一匹のアオウミウシがいた。


 アオウミウシはゆっくりとした動きで、縦横無尽に動き回っている。

 彼はなんとしても、彼女を起こさなければならなかった。


 しかし、もう半日も前からこうして頑張っているにも関わらず、人魚は起きない。

 それでも諦めることなく、ひたすらに這い続けていた。


 しばらくすると、人魚は睫毛をわずかに震わせた。


「う、うーん」


 アオウミウシはようやく仕事を終えて、顔から降りた。


「よく寝たぁ」


 人魚は目を覚ますと、寝ぼけ眼のままゆっくりと起き上がる。

 腕を海面へ向けて伸ばし、寝起きの身体をバキバキといわせながら欠伸を噛み殺した。


「あいたたた」


 寝すぎて強張った身体を伸ばせば、ようやくしっかりと目が覚めた。


 ふと頭上に反射する光を見上げると、昨夜は降っていた雨はすっかり上がったようで、もうアカタチのような朱い色が混ざっていた。


 海中においても、日の沈むその瞬間だけは朱に染まる。

 神秘的な光景に見惚れたのも束の間、はっと用事を思いだし青ざめた。


「やばっ。……イヴ、怒ってるかなぁ」


 今日の昼に訪ねることになっていた友のことを思い出して、焦る。


 人魚は急いで肩にアオウミウシを載せると、自分の寝ていたシャコガイの貝殻から飛び出して、岩場を目指して泳ぎ出した。


 サクラダイの色に似た尾びれを力強く振って、水を切り裂いていく。

 所々で遭遇した魚の群れをかわしながら、浅瀬のほうへ急いだ。


 途中、トビウオの群れと一緒に泳いだり、ホオジロザメの背鰭に掴まらせて貰ったりしながら目的地を目指す。

 魚たちと会話を交わしながらもかなり急いだため、程なくして浅瀬についた。


 水面から顔を出して岩場へ近づくと、一番平べったい岩の上に友の姿を見つけた。


「イヴ!」


 名前を呼びながら急いで近づく。


「……ラピス、待ってた」


 待ち合わせの相手であるイヴは特に怒るでもなく、人魚の少女、ラピスを出迎えた。


 イヴの声はとても小さい。

 しかも言葉も少ないから、あんまり聞くことはできなかった。


 せっかく綺麗な声なのに勿体ないと、ラピスは思う。

 どんな音よりも美しいイヴの声は、普通に会話をしていてもうっとりしてしまう程だった。


 たまにリクエストすれば、イヴは喜んで歌を歌ってくれるけれど、その歌声は普段のそれとは比べ物にならないくらいに綺麗で、聴いているだけでいつも笑顔になったり涙が零れたりする。

 空や海中までも響き渡る歌声に、みんな魂を揺さぶられた。


 時折、偶然イヴの歌声を聞いた人間の船が沈むこともあった。

 きっと、あまりの美声に魂を抜かれたのだと、ラピスは確信していた。


 声以外も、イヴは美しかった。

 その姿は、よく見かけるどの海鳥たちとも違う色鮮やかな羽毛に包まれていた。


 羽毛のない頭のまわりは、赤から黄色にグラデーションのかかった髪が海風に揺れていて、まるで虹のように見える。


 ふんわりと編み込み纏められたそれは、いつもラピスが編んでいた。

 イヴには腕がなく、その代わりに島の木々のような鮮やかな色の翼を持っていたので、それはいつしかラピスの役目になっていた。


「ごめーん、寝過ごしちゃって」

「……もぅ」

「ごめんってば!」

「……しょうがないな」


 ラピスが手を合わせて謝ると、イヴは呆気なく許した。

 半日も遅刻したにも関わらず、怒ったり呆れたりした素振りもない。


「ありがと」

「……ううん」


 特段なんでもない事のように首を振れば、ラピスもいつまでも引きずる事もなく、本題を切り出した。


「急に呼び出すなんてどうしたの?」


 ラピスは肩からアオウミウシを手に載せ換えてイヴの前に降ろす。

 アオウミウシはゆっくりと海中へ帰っていった。


 これは、イヴの会いにきてのサイン。

 昨夜のうちに来たアオウミウシは、明日の昼に会いたいという意味を持っていた。


 朝会いたいときはダイダイウミウシ、昼間会いたいときはアオウミウシを使いに知らせるのが、いつからか二人の連絡手段になっていた。


 そして、それらのウミウシが来たときには、海中深くに入れないイヴのために、いつもラピスから会いに行くが慣習になっていた。


「……海鳥が、騒いでいたの」


 不安そうな面持ちでイヴは簡潔に答えた。

 それに対して、ラピスも表情を曇らせて頷く。


「うん、魚たちもだよ」


 さっき、ここへ来るまでの間にトビウオやホオジロザメから聞いていた。


 それはこの楽園の中心部、深海樹の辺りの異変について。

 彼らは流れがおかしいと騒いでいた。


 いつもは激しく不規則な流れに囲まれている海域が、何故か穏やかで緩やかなそれになっている。

 イヴが海鳥たちから聞いた話では、昨夜近くを通りすぎた嵐がいなくなってから、だんだんとそうなっていったらしかった。


 もしかして、深海樹に何かあったのだろうか。

 深海樹を守るように巡っていた潮がこうも力ない流れになってしまうなんて、ふたりには考えられなかった。


 知恵を出しあっていろいろと推測するも答えは出ず、深海樹への心配は増すばかりだった。


 嵐はたくさんの瓦礫を落としていったから、それが流れてきて深海樹に当たってしまったとか。

 はたまた、良からぬものが楽園に入り込んで何らかの悪さを働いたのか。

 それとも、想像もつかない異常事態が起きているのか。


 悪い想像しかできないまま、次第に会話は少なくなって、沈黙が訪れた。


 二人は不安げな表情を濃くしながら、沈み行く夕日を眺めた。


「もうすぐなのに、心配だね」


 夕日が沈みきったところでラピスがぽつりと口にすると、イヴも小さな声でうんと頷いた。


 彼女たちの暮らすこの海には、深海に根付いたただひとつの大樹、深海樹がある。


 深海樹は一年に一度だけ葉を落とし、その葉は海に広がり、波に流され、いつしか粉々になって海に還る。

 ごく稀に海に帰らずに形を残して結晶化するものもあるらしいが、ラピスは見たことはなかった。


 葉のほとんどが、海に還り新たな命の糧となるための旅に出るのだった。


 葉を全て落とした深海樹には、すぐにまた新たな葉が芽吹く。

 それはこの海に暮らす誰よりも永く生きた、この木の神秘。


 陸に生える緑とは違う水の色を濃く写した葉は、唯一無二の宝石のようで、その葉が一度に芽吹いて開く様は、他に感じたことのないほどの感動と衝撃を与えた。


 そのため、この瞬間は毎年お祭り騒ぎ。

 たくさんの海の生き物たちがこの楽園を訪れて、その場に立ち会うのが至福なのだった。


 でもそんな深海樹の周りの様子がおかしいなんて、とても気になった。


「……レンさんも気にしてた」

「レンさんここにきたの?」

「うん、……嵐で客が来なくて暇だから、歌聞かせてって、今朝来た」

「そうなんだ、レンさんらしいね」

「……うん」


 また会話が途切れるとラピスは少し思案して、ぱっと顔を上げた。

 そして、イヴに向き直ると意を決したように視線を向けた。


「気になるしちょっと見てくるよ」

「……もう暗くなっちゃうよ?」

「うん、ちょっと見てくるだけにしとく。すぐ戻ってくるから待ってて」

「……気をつけて」


 頷くや否や、ラピスは尾びれを大きく振って一気に潜水した。

 ぐんぐん速度をあげて深海樹を目指す。


 いつまでも悩んでいたって仕方がない。

 考えるよりも動いた方が、真実に近づける気がした。


 次第に暗くなり視界が悪くなってきたけれど、もう深海樹のすぐそばまで来ていた。

 深海樹の放つ微かな光を目指して更に潜っていく。


 次第に近づいてくると、ふと違和感を覚えた。


 水面から深海樹に向かって、ゆっくりと泡が降りてくる。


「あれ?」


 いつもなら、深海樹の方から海面へ向かって空気の粒が浮き上がっていく筈だった。

 それが、どういう訳か上から下へと降りてきていた。


 明らかにいつもとは逆の流れ。

 間違いなく、海流が変わっていた。


 ラピスが観察を続けていると、その泡は深海樹へゆっくりと集まっていく。

 目を凝らして見てみても、ラピスにはそれがどういうことかはわからなかった。


 日もすっかり落ちてしまい、葉の少なくなった深海樹の僅かな光では、これ以上確認もできない。

 ラピスはすぐさま泳いできたルートを戻り、イヴに結果を報告した。


 自分の目で見れば何かしらわかるかと思ったが、謎は深まるばかりだった。


 二人で考え込んでいると、ふと、不可解な気配を感じた。


「待って……なんか、変」


 二人は海を振り返り、辺りを見回す。

 イヴの回りを飛び交っていた鴎が騒ぎ出した。


「……え?」

「波が!」


 常に様々な海流が入り乱れ、人間の侵入を許さないこの海域。


 人を嫌い、私たちが楽園と呼ぶこの海が、凪いでいた。

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