くゆる春
その絵を見た瞬間、これはわたしが手に入れなければと思った。自分のものにしなければ、絶対に後悔する、と。
文哉とわたしは、同じ高校の美術部に入っていた。主に油絵を描いていて、みんな写実的な絵を描いている中、文哉だけは一人、抽象画を描いていた。いつも真剣な眼差しをキャンバスに向けていた。その集中力は凄まじく、ただ声をかけただけでは彼の耳に届くことはなかった。モデルも物体も何もない、ただ色を置いているだけだと馬鹿にする生徒もいた。一体何を描いているのかわからなかったが、わたしは文哉の絵が好きだった。
「僕の絵は、僕だけがわかっていればいい。他の誰かにわかってもらいたいとも思わない。」
文哉はよくそんなことを言っていた。わたしは文哉の絵を理解したいと思っていた。でも、わかってもらいたくないなら、わからないままでいい、ただいいなと思っているだけでいい、わたしはそう考えるようになっていった。
二年に上がり、桜も散り、若葉が顔を出し始めた頃、文哉はひとつの抽象画を完成させた。パステル調のピンクと水色をメインとした春らしい絵だった。わたしは、考える間もなく「これ、ほしい。」と口にしていた。直感で、これはわたしがもらわなければならない、と思った。文哉は急に声をかけられ、驚いた表情を見せたあと、少し困ったように言った。
「これは人にあげるようなもんじゃないよ。」
わたしは食い下がった。
「どうしても、ほしい。お金出してもいい。」
文哉はしばらく黙ったあと、
「わかった。乾ききったらもっていっていいよ。お金はいらない。」
と了承してくれた。
朝起きて、文哉の描いた絵を眺める。やわらかなそれは、わたしを見つめ返す。絵を見るたび、きゅ、と胸が締めつけられる感覚がした。わたしは、文哉に恋をしていた。絵も、描いてる姿も、自分の意志をしっかりもっているところも、文哉の織り成す世界が好きだった。
文哉は自分の絵を理解してほしくないのだろうと思っていたけど、この絵だけは、何を考えて描いたのか知りたかった。こんなにも惹きつけられる絵ははじめてだった。文哉に尋ねてみると、言いづらそうにはしていたが、ぽつりぽつりと話してくれた。
「これ、好きな子のことを考えて描いたんだよね。でもその子、彼氏がいてさ。好きだけどどうしようもできない気持ちを表してんの。」
一気に、心が冷えていくのを感じた。喉がつまる。視点が定まらない。胸の鼓動だけが脳に響く。文哉は言葉を続けるがそのあとは何も頭に入ってこなかった。
どうやって、家に帰ってきたのかもわからなかった。
いつも揃えてから上がっている靴も脱ぎっぱなしで、わたしは自室に入り、壁に飾っていたキャンバスの絵を外した。仏壇のある居間に向かい、線香立ての横に置いてあるライターを手に取って庭にでた。物置にしまいこまれた焚き火用のドラム缶をひっぱりだす。そこに絵を入れて、火をつけた。ゆっくりとキャンバスを火が囲んでゆく。パチパチと、木枠が鳴いている。ゆれるオレンジが、淡い春をゆっくりと殺していった。