第二話:影を追い、エルドに揺られ─その三
「主人。この騒ぎはどういうことかな」
男は助かったというような安堵の表情を浮かべ、彼に事情を話す。ジャックと交渉している際にシーラが自身の持ち物であるエルドを逃がしたのだと。開け放たれた門をみて、男は地面から何かを拾い上げる。
「鍵というのはこれですかな」
それは装飾が施され、しっかりとした南京錠だ。その金属の輪がボロボロにちぎれている。本当はシーラが薬品で溶かしたものだが、一般人の眼には引きちぎられたようにしか見えないだろう。
「はい、そうです。こいつが引きちぎったに違い……ありません」
彼は自身の言葉をもう一度反芻し、首をかしげる。年端もいかぬ、ましてや男ですらないシーラにそのようなことができるだろうか、と。
「この男は主人と交渉していた。そうですね」
ローブの男はジャックを指さす。厩舎の主人は頷く。先ほどの威勢はどこに行ったのか、ずっと押し黙っている。
「なら実行するとすればこの少女だが、どう見ても収穫祭の時に力比べをする男ほど屈強には見えない」
彼はその錠を主人に渡し、告げる。
「単純にその錠を酷使しすぎたのではないか? それほど太いものでもなさそうだからこれを機に丈夫な錠前に変えた方がよいのではないだろうか。すまないが、そのような言いがかりに付き合っていられるほど我々は暇ではない。エルドは私たちがなんとかするので借りてよいな? それに代金は私が払うのでこの二人にも貸してあげなさい」
「い、いえ。滅相もない。旦那の分は勉強させていただきますから。それにこのふたりについては丁度貸そうと思ってたところですよ。親戚の知り合いなんで、もちろんタダでございますよ!」
先ほどまでとは打って変わり、媚びへつらうような態度を見せる男にシーラは辟易として舌を出す。司祭は同様にローブを着た数人にエルドを連れ戻すよう命じ、ふたりへ歩み寄る。
「あの、ありがとうございます」
ジャックは帽子を取り、深々と頭を下げる。赤い癖っ毛が揺れる。
「なに、我々も使うので当然のことをしたまでだ。ところで君たちはどこへ行くのだ?」
「私たちは南方遺跡と呼ばれている所に行くの。司祭さんたちは?」
「丁度私たちもそこへ向かう。司教様から調査を依頼されてね。ここで会ったのも何かの縁だ。一緒に行こうではないか」
偶然にも依頼されている対象者に出会ってしまった。しかしここでは人の眼が多く、当然始末することはできない。さらに彼の部下がエルドを連れ帰ってきた。しかし行先は一緒だ。ならばどこかで仕事をやりおおせる機会はあるだろう。何はともあれ予想外のことは起きたが、ふたりはようやくコルストヴァを発つことができるのだった。
ジギオンとその司祭は名乗った。彼が引き連れている部下は司祭ではなく、教会に属する兵士らしい。コルストヴァは指揮を担う騎士・貴族階級と平民から志願した一般兵士からなる常備軍がいる。常備軍を率いて戦うのは騎士や貴族の役目であり、遥か昔の大災厄戦争の折にもこのコルストヴァで凄絶な戦いを繰り広げたという。貴族は一部の土地持ちを除き、専ら軍の統帥権と都市の中では比較的大きな屋敷、自身の身分行使権を長子に継承していく。それに対して教会は相続の際に蔑ろにされる貴族の次男以下の男で構成された聖戦士団を組織している。元々教会の指導者を守るために警備兵としての役割を持つ彼らの戦闘力は騎士に劣るも、常備軍よりは装備が充実している。なによりデュルガウム神教の教義に殉じるべく日々の修行も欠かさないため、戦時の際に徴発された民兵より士気が高いことが特徴だ。司祭の中にはこの戦士団が出身の者もいる。
「シーラ殿、はジャック殿とは親戚の類ですかな」
コルストヴァから南方遺跡への道の途中。エルドを走らせるも一泊は挟んでしまう。夜通し走ればたどり着けるかもしれないが、夜盗に襲われるリスクが高い。疲れ切ったエルドで逃げ切れるほど間抜けな盗賊団はいないだろう。陽が沈む直前も身ぐるみ剝がされた数人の遺体が転がっており、司祭や兵士と埋め立て、祈りを捧げたところだった。
シーラはこっそりとジャックに視線をやる。当然だが、ジャックの雇い主であるなどとは口が裂けても言えない。
「そうですね。姪っ子なんですけど、こう見えて彼女も探索者歴が長いもので。時々手伝ってもらってます」
「ほう、見た目によらず逞しい娘さんですね」
無難な回答にホッとする。暗殺を生業とする点においてはアウトローな存在であるので中らずと雖も遠からずだが。
「ジギオン司祭様は司教様から調査を依頼されたと伺いましたが、何か気になることがあったのですか?」
「呼び捨てで大丈夫ですよ。詳細は省きますが、遺跡がいつ頃のものか。そして人為的なものなのかを調査することを目的としております」
「ジギオンさん、少しいいですか? 教会としては永らく遺跡のことを古戦場跡だとか遥か昔の修行場などと断定してきましたが、今更どうして調査をしているのでしょうか?」
シーラと司祭の質問にジャックが割り込む。遺跡の研究に携わった身として何か思うことがあるようだ。
「おい探索者、教会の声明に疑いを持つことは神教徒として恥ずかしいと思わないのか」
火の番をしながら休憩をしている戦士のひとりが彼に喰ってかかる。その言葉にジャックは鼻で笑って返す。
「おいおい、さっきの司祭様の話を聞いてたか? かつて言い切っていたことを今更確認するなんてその声明が間違ってたってことじゃないか。それに俺は軍神教徒じゃない。アポタイトの教えに従って生きている」
「何? 異端者の分際でまだ神の都に居座っているのか! ここで首を切り落とされるか、デュルガウムへの誓いを立てるか選べ!」
戦士は立ち上がり、腰の短剣を引き抜く。幅広で手入れの行き届いたそれは持ち主の気性を表すように炎を直線的に切り取っている。
「バーン、やめなさい。神に仕える戦士ならば市民に刃を向けるなどあってはなりません」
「しかし司祭」
「よろしいか。以前より言っておりますが、異端というものは本来存在しないのです。同じ神を信じているという事実を無視することは神にとっても、信仰する者にとっても許しがたい暴挙ですから」
シーラは自分の雇い主からはおよそ聞くことができないであろう意見を目の前の男が持っていることに驚いた。ハスラも言っていたが、コルストヴァはデュルガウム信徒のための都市ではない。小さいころヴァルギリウスに連れられて教会にいったことはあるが、彼自身は熱心な信者ではなかった。暗殺者としての心構えや技術を教えられこそすれ、食前の神への祈り以外の信仰の言葉を彼の口から聞いたことがない。神職の者たちと接点がなかったことから、雇い主のように他の教えを拒絶することが基本的なスタンスだと彼女は知らず知らずのうちに思い込んでいた。ハスラやジャックの態度から、コルストヴァの司祭に対して横暴だと感じたこともその思い込みの一助になっていた。
しかしこの司祭はジャックの宗派を否定することなく、むしろ同胞として扱う姿勢を見せている。ジャックも驚きの表情をジギオンに向けている。
「その、ジギオン様。教会内では司祭様のような考えはよくあることなのでしょうか?」
「シーラ殿。なかなかいたいところを突きますね。詳細を話すことは差し控えますが、同じ考えを共有する者は多くはありません。しかし、経典を事細かに研究すれば自ずとわかると私は考えております」
「そうなのですね。私はデュルガウム以外の教えは邪教に等しいと他の司祭から教わったもので」
「教会内にそう考える司祭はおります。そういう方ほど熱心に活動するので目立ちます。しかしそれは一部にすぎず、すべてがそのような考えを持っているとは限りません。信徒にはそのような間違った信仰を持たないでほしいのですが、今の教義論争が行われている状況では統一された教えを施すのは難しい。私にできることは教会をまとめ上げようと努力なさっている司教様を支えるのみです」
焚火に照らされたジギオンの表情はごく穏やかなものだった。あの遥拝堂で祈りを捧げる男のローブの下はどのような顔だろうか。シーラは乾いた枝をくべながら遠いコルストヴァでの記憶に想いを馳せる。
「ジギオン司祭。私は祖母からアポタイトやマハザールの司祭も都市を祝福していたと聞いてます。この五十年でデュルガウムの司祭が支配を確立したと。そして私個人の話ですが、友人との研究を通じて南方遺跡はその事実と深い関りがあると思い知りました。あなたがこうして調査に出向いたのは市井で噂されている “タリウストヴァ建設計画” に関連があるのではありませんか?」
「貴様!」
バーンが立ち上がり、ジャックに詰め寄る。ジャックは杖を肩にもたれさせたままピクリとも動かない。その視線は司祭に注がれている。
「よしなさい、バーン」
「しかし、こいつには口が災いの元となることを教えてやらないと」
「やめなさい。言論に対して暴力を振るっては解決の糸口を失うばかりだと言ったのを忘れたのですか」
司祭に強くたしなめられ、戦士はおとなしく元の位置に座る。しかし厳しい視線はなおも彼に注がれている。
「探索者よ。その話はここでするものではない。その判断は実地での調査に基づき行われる。ただひとつ言っておこう。私はあくまでも司教様の判断に従う。司教様は信仰に生きる信徒であると同時に教会のトップだ。その言動は私のような平々凡々な司祭とは比べ物にならないほどの影響力を持つ。それなら為すべきことはただひとつ。その判断を濁らせることのない真実を見つけ出し、報告することです」
ジャックの視線を受けてジギオンは静かに答えた。
「信じていいんだな。その言葉」
「もちろんです」
彼はしばらく沈黙した後、司祭に短く感謝を述べた。