第三話:誇りを胸に─その五
闇夜に紛れて家の近くにある詰め所の壁に登る。そこから手近な高い建物を登り継ぎ、周囲を見渡せる高さに到達する。夜半を過ぎた町から灯りは少なくなったが、彼女の能力を最大限発揮するのに好都合な時間帯でもある。
ハビリオス地区の例の教会まではそれほどかからない。目の前の兵舎もいつの間にか門番がいなくなっており、代わりに門扉が閉まっている。そして反対側にある教会の扉の前には誰かが立っている。相手の感覚を探ったが、寝ているのかいつものベールが見えない。帽子を目深に被り、近くの建物の窓を伝って二階に上がろうとしたが声をかけられた。
「先ほどは仲良くご挨拶を交わしましたのに、今度は何用かしら。司祭様に御用がありましたら先に私に申し付けくださいまし」
なぜ気付かれたのか。不思議に思いながらもシーラは諦めて彼女の前に立つ。やや背の高い相手にできるだけ丁寧に言葉をつづる。
「依頼は既に遂行しました。都市を代表して神の代理人を名乗る不届き者の心臓の所在を明らかにするために参上しました。どうかそこをどいてくれませんか」
「私の今の仕事はあの司祭さんを守ることだからその願いは聞き届けられないわ。それに都市の代表ねぇ。あなたひとりに務まる大役ではないと思うけどどうかしら?」
レイアはため息混じりに返し、口角を上げる。手にはいつのまにか鋲を打ち込んだ手袋をはめている。シーラも半身で仕込み杖を突き出し、相手を牽制する。
「でもそんなことどうでもいいですわ。ゾクゾクしますわ、その殺気。この仕事をしていれば稀に出会う強者の空気よ。この際大義とか命令とかどうでもいいわ。早くやりあいましょ」
舌なめずりをして彼女が先に動く。流れる黒髪が闇に溶ける。拳を覆う尖った金具が低い位置から腹部を狙う。シーラは冷静に一歩下がりながら杖を振り、拳を払う。そのまますかさず肩を突き、距離を保つ。しかし彼女は執拗に前進し、距離を取ることを許してくれない。覚悟をしていたが、決着はすぐにつきそうもない。シーラは上段から杖を振り下ろすフリをして彼女の回避を誘い、大きく離れる。相手が距離を詰める前に窓枠や建物の間の壁を利用して路地から近くの建物の平屋根に乗る。教会から離れることになってしまうが、劣勢になった時の退路は確保できる。
「もう逃げ腰かしら。まだ全然あなたの攻めが感じ取れませんわ」
レイアが追いつくなり、不服そうに漏らす。
「なら立てなくなるまでお見舞いして差し上げます」
今度はシーラが踏み込む。鳩尾、右わき腹を狙って突きを打ち込み、それを掴もうとすると今度は手首を返して首筋や手を打ち据える。中に剣が入っているため見た目よりも重たい打撃を手やわき腹にうけ、レイアは……笑っている。
「ああ、肉が叩かれ血管がきれる感覚! 関節に響く疼痛も肋骨を走る劇痛も脳を震わせますわね! やはりこの仕事は止められません」
「自傷行為が好きなのに今の今までよく生きてこられましたね」
「勘違いなさっているようだけどこれは自慰行為とは違くてよ。痛みをやりとりする行為は相手が居てこそ成り立つものだし、私は相手に敬意をもって同等のものをお返ししますわ」
「そう。でもその返礼はご遠慮しておこうかしら」
レイアの態度はまだ余裕があり、隙もある。今のうちに倒しておきたい。シーラは頭の中で算段をつけつつ打撃を浴びせていく。目の前の女は早めに対処した方がいい。動物的な勘がそう警告を鳴らす。しかし決め手に欠けるのも事実だ。痛みに異常なほど耐性があるのか、どれほど杖で打ち据えても戦闘意欲が衰えない。むしろ疲労のおかげで精彩を欠いているのはシーラの方だった。杖での牽制を潜り抜けて放たれるボディブローやショートアッパーを辛うじて腕や肩でブロックするが、金具がマントと下のシャツを突き抜け骨を砕かんばかりの激痛を伝える。それでもまだ勝機はあった。相手の虚を突き、仕込み杖の刃で喉を斬る。そのためには相手を一歩、二歩後退させる必要がある。
シーラはレイアの攻撃が途切れたタイミングで腹部を蹴りつける。身体が伸びきっていたタイミングでの打撃はさしもの痛覚マニアも堪えたようで、腹部を抑えてたたらを踏む。すかさず袖の裏に隠してあったナイフを投げつけ、踏み込む。レイアはシーラの思惑通り、後ろに後退しつつ攻撃を回避する動きになっていく。当然、逆手持ちの要領で振り下ろされた杖を紙一重で躱す。結果として彼女の顔は無防備に晒され、それを捉えるべくレイアは後退から前進へ転じる。内部の板バネにより射出された白刃が顔をのぞかせた時にはもう既に斬撃の範囲に入ってしまっていた。そして居合の軌道が下から半円を描く……ことはなかった。
刃を手袋の下にある骨にまで食い込ませ、完全に止めてしまっている。手袋は裂け、肉を割いてなおも彼女は痛みを追い求めていたらしい。もはや通常の攻撃で彼女の闘志を挫くことはできないのだろう。シーラは剣を引き抜こうとしたが、しっかりと掴まれびくともしない。逆にレイアに振り回され、隣の家の屋根に放り投げられてしまう。
「ワタクシ、言いましたわよね。相手には同等のものを返してあげると。あなたのターンもそろそろ終わりのようですし、今度は私の番ですわ。骨身に沁みるほどの痛み、じっくりとその身体に教えて差し上げますわ」
剣はわざわざ目の前で投げ捨てられ、彼女が近づいてくる。言うことをきかなくなりつつある身体を起こし、駆け寄る。
「だからいらないって言ってるでしょ!」
左の袖からナイフを取り出し、首筋めがけて振り下ろす。しかしその腕は片手で易々と受け止められ、左の拳が鳩尾に打ち込まれる。肺から空気が押し出され、足が踏ん張りを失い勝手に後ろ歩きを始めようとする。三歩下がったところでようやく止まった。力が抜けた左手からナイフがすり抜け、乾いた音を立てて落ちる。袖から見える手首は真っ赤に染まっている。
「あなた何かしたのね。私の血流を操作している、あたりとか」
彼女の問いかけに相手は少し驚いた様子を見せる。
「あら、意外にも冷静なのね。この仕事をやってるだけあってそこら辺の兵士よりもタフだわ。そうね、冥土の土産にでもお話ししましょうかしら」
シーラはなんとか立ち上がるが、息が荒い。その様子をじっくりと観察しながらレイアは微笑む。
「私はこの仕事を始めてもう何十年にもなるわ。そもそもこの都市が出来上がる前は東の山の更に向こうで暮らしてましたの。でも刺激を求めるお年頃ですもの。人が集まる場所に誘われるのは必然のことよね。それにここにいれば一生食べ物に困らないわ」
「まさか、あなたは人を食しているとでも?」
彼女は首を振った。何が可笑しいのか、口許を手で押さえている。
「あらやだ、そんな野蛮なことしないわよ。ただ身体中の……間違えた、ちょっとだけ血をもらうだけよ。もちろん、それを知った貴方には死んでもらうけど」
眼前で彼女の姿が掻き消える。周囲を見渡すが、どこにもいない。
『あなたの血、面白いわね。他人の視界がわかるのって本当に暗殺者向きだと思うわ』
「まさか、私のアーツを……貴様ァ!」
父の背中を追いかけてたどり着いた精神世界。他人の視界をベールとして可視化する、努力の末に手に入れたもの。
『あら、そんなに大事なものだったのね。ごめんねぇ、時間が経てば使えなくなるから。ま、その頃にはあなたの姿形もなくなってるでしょうけど』
後ろから髪の毛を掴まれ、引き倒される。後頭部をしたたかに打ち、星が飛ぶ。なんとなくせまった風圧に押されるがまま横に転がり、身体を立て直す。しかし、気配を読み突き出した拳は虚しく空を切り、お返しにこめかみに殴打をくらう。脳が揺れ、地面に倒れそうになるが肩を掴まれ、腹に膝蹴りが突き刺さる。思わず膝をつき、えずく。幸いにも前回の食事から時間が経っていたおかげで胃液が少量地面に落ちただけだった。
しかし休憩は長くはなかった。背後から首を絞められ、喉が空気を求めて痙攣する。徐々に意識が遠くなったころに手が離れ、背中が押される。膝に力が入らず、顔から地面に落ちる。
「ワタクシも疲れたのでそろそろ終わらせましょう。どうせなら眠っている間に逝きたいわよね。それにしても」
頭上で誰かがクスリと笑う。顔を上げるとレイアが姿を現す。目を細め、うっとりとした表情で見下ろしている。満足したらしい。
「あなたハスバウスの家名の方でしょ? 前にあなたの家の殿方と手合わせしようとしたけど逃げられたの。だから今回はリベンジも同時に果たせてよかったわ」
なるほど、父は彼女が強敵であると察して回避したのだろう。私はやはり未熟者だった。唇をかみ、力を振り絞って膝を立てる。ふと胸元に何かが当たるのを感じた。鎖がお互いに干渉し、微かな音を立てる。ジャックの顔が思い浮かぶ。遺跡で死にかけた時に私を守った彼の後姿。
一か八か。
呼吸を整え、精神を集中する。
「さあ、人生最後の景色を目に焼きつけなさい」
レイアの身体を包むベールが見える。家全体を包み込めるほど巨大だ。道理で初見では見えなかったわけだ。振り下ろされる拳を前に目を閉じる。ペンダントを握りしめ、アーツを発動する。
どこからか風が吹きすさび、額から何かが割れる音がする。頭が割れるような激痛が走り、何かが額を流れる。手でとってみたそれは赤い。視界の端に映る銀色の髪も真っ赤に染まっている。自分を中心に吹く風は暴力的なほどに辺りを揺らすが、地面の砂埃は微動だにしない。しかし確かに変化はあった。
「どこに行ったのかしら」
目の前で拳を振り下ろした彼女の姿。どういうわけか、止めを刺そうとした相手の存在を見失ってしまったようだ。
「にげたのね。惜しいことをしたわ。私としたことが遊びすぎたかしら。次はきっちりと仕留めないとですわね」
興を削がれたとでも言うように踵を返す彼女。シーラは断続的に訪れる痛みとぼんやりとし始めた頭を振り、立ち上がる。
「待ちなさいよ。この性癖両極端女」
彼女が驚きの表情で振り返る。
「あは。ひょっとして他の手を隠していたのかしら。ずいぶんと舐めくさった真似をしますのね。あーあ、決めましたわ。その顔を変形するまで殴って心臓を生きたまま取り出しますわ。そのためにはまず手足をつぶさないとですわね」
笑顔で表情を固めたままレイアがひとっ飛びで獲物に迫る。まともに動けない標的を掴むのは容易なはず、だった。しかし腕を伸ばした彼女の前でシーラは闇に溶け込む。奪ったアーツで周囲を探るが、彼女の視界や聴覚を感知できない。正確には砂嵐のようなものが周囲に吹き荒れ、現実世界での五感しか役に立たないのだ。
「どこへ行きましたの?」
辺りには羽飾りのついた帽子も、その下から覗く銀色の髪も、艶やかな褐色の肌の少女もいない。
一方、シーラはというと適当に放り投げられた剣を手に彼女の後ろに立っていた。吹き荒れる風がベールをはためかせ、おかげで無防備な背中を晒している。息を吸い込み、力を抜く。エルやヴァルギリウス、ジャックの顔を思い浮かべると不思議とボロボロの身体から震えが抜けていく。両手でしっかりと握り、上段に構える。そして、踏み込みと同時に背中を斬る。
「は?」
間の抜けた声と共に鮮血が散る。上段からの一閃によって背骨を一部破損したレイアは浅い呼吸を繰り返し、膝を折る。シーラは剣を振るい、こびりついた血糊を払う。横に立ち、再び剣を振り上げる。懺悔するようにわずかに晒した彼女の首筋めがけ、振り下ろす。今度はごとりと重たい音を立て、漆黒の髪が地面に広がった。




