第三話:誇りを胸に─その四
木戸から差し込む僅かな光に照らされ、誰かが部屋の隅に座り込んでいる。キッチンと思しきその場所にはひっくり返った鍋などが散乱し、夕食の支度時に襲来を受けたのだとわかる。彼女は彼に駆け寄り、息があることを確認して安堵する。しかし、壁に背をもたれかけ、足を力なく放り出した彼の周りには尋常でない広さの水たまりができている。
「なんだ、嬢ちゃんか。アイツが止めをさしにきたのかと思ったぜ」
先ほどの男に刺されたのだろう。腹部が濡れている。
「ジャック、動かないで。手当てするから」
彼は彼女の手を握り、首を振る。傍に置いた蝋燭の光に照らされ、瞳が収縮を繰り返している。
「俺はもうだめだ。血を流しすぎた」
足の裏を浸す湿っぽい感覚は彼の血液だ。それでも彼女は自分のマントの裾を破り、腹の穿孔に押し付け、止血を試みる。
「聞いてくれ」
「いやよ」
「頼むから」
「うるさい!」
喋りづらそうな彼を無視して応急処置をする。しかし押し当てた布がすぐに湿り気を帯び、出血は止まらない。彼はため息をつき、緩慢な動きで首から何かを取り外す。
「これを受け取ってくれ」
差し出されたのは彼が身に着けていたペンダント。かつて自分の窮地を救ったものだ。しかし今はそんなものを見たくなんてない。
「これ以上話したり動いたりしないで。あなたはまだ生きるべきなの。そうじゃないと私、どうしたら」
目の前の男にヴァルギリウスの顔が重なる。あの時は言葉を託された。なら、今彼の託そうとしているものを受け取ることはできない。
「あいつに刺されてから血が止まらなくてね。嬢ちゃんが悪いんじゃない。それに」
血まみれの手が頬を撫でる。
「あいつの仕事がいい加減なおかげでまた嬢ちゃんに会えた。これじゃあ親父さんにずるいって怒られちまうな。ハハハ」
短く笑い、腹部の激痛を思い出したのか顔を顰める。ひどくせき込み、血を吐き出している。
「ジャック!」
「大丈夫だ。親父さんと二人でメイラーク高原にいるからよ。酒でも飲んで気長に待ってるぜ。もちろん学者先生も忘れちゃいないぜ」
呼吸が浅くなる。それでも彼は最期の力を振り絞って彼女の肩を抱き寄せる。
「大丈夫、大丈夫だ。嬢ちゃんは独りなんかじゃない」
大きな手が背中を優しく叩き、ささやく。そして、次の瞬間には力なく滑り、地面に落ちていった。血だまりの表面を重たいものが叩き、甲高い音を立ててペンダントが地面を跳ね、少しだけ滑る。リビングから漏れた僅かなオレンジ色の光に照らされた瞳は開きっぱなしで虚空に投げ出されている。肩に手を回し、彼の胸を濡らしても返ってくるのはもはや冷たい感触だけ。
床に転がるペンダントを掴む。首に鎖を回し、キッチンを出る。外に出ようとした時、視界の端で何かが揺れた。壁に羽根つきの帽子と杖がかけられている。一瞬だけ逡巡したが、それらを手に取り被る。
玄関の扉の先では近隣の住人が自警団を呼んだようだ。かなり騒がしい。キッチンに戻り、彼の遺体をまたいで窓から外に出る。星空の乾いた冷気を吸い込み、東の兵舎に近い自宅へと足を向ける。しかしその足の向きを反対に変えた。夜はまだ長い。一度エルの様子を見に行くことにしよう。
ハスラはまだ起きていた。見慣れない帽子を被り、血を拭った跡がみえる彼女の様子に驚いたようだが、相変わらずぶっきらぼうに迎え入れてくれた。
「長い間預けてしまってすみません。エルはもう寝てますか?」
彼が淹れてくれたお茶を一口すする。彼はその様子を見ながら首を縦に振った。
「子供はもうとっくに寝る時間だ。それにエルのことなら任せておけ。少なくともアンタよりは長い付き合いだからな。しかし俺は仕事で忙しくて昼の間はかまってやれない。アンタの手が空いたら相手してやってくれると助かる」
「はい、そのつもりです。今日の片が付いたらしばらく暇ができると思いますので」
「なんだか物々しい言い方だな。詳しいことはわからねえが気を付けてけよ」
彼に断ってエルの寝室に入る。ベッドで毛布にくるまり、安らかな寝息を立てていた。その顔をもっと間近で見たい気持ちをぐっとこらえる。近づけば目が覚めてしまうだろう。唇を固く引き、そっと部屋を出る。
久々の我が家にたどり着く。王家や貴族の衛兵詰め所や市民兵舎が近くにあるおかげで周辺の治安は比較的いい。しかし長期間家を開けることもザラにあるので目につくところに物はおいていない。そのおかげで生活感のない殺風景な景色が広がっている。帽子と杖を玄関の扉をかけ、血まみれのサラシやマント、ズボンを脱ぐ。お湯を沸かし、身体を丁寧に拭く。首にかかったペンダントを握り、少しの間手が止まってしまう。残ったぬるま湯に灰を混ぜ、服を洗う。髪も梳かし、後ろで縛る。清潔な肌着と手首までの服に袖を通し、細身のパンツを履く。靴は革で補強された膝まで覆うしっかりしたものを選ぶ。袖にはナイフを二本忍ばせ、紺色のマントを纏う。玄関の扉に手をかけるが、思い出したようにジャックの帽子と杖を手に取る。
「全てを終わらせてくるよ。父さん、ジャック」
今から行うことは誰かから受けた依頼だろうか。それともハスバウスとしての使命だろうか。彼女はそっと帽子のつばを下げた。
全くそうではない。これから行うことは私怨だ。それでも今からやろうとしていることを誰にも止めてほしくない。家族を殺されて黙っているほどお人よしではないのだ。




