第三話:誇りを胸に─その三
しばらく後、彼女は再びコルストヴァの上空を飛んでいた。風に乗るように軽やかに家の屋根を伝う。石や土で作られた家の屋上には一日の終わりをゆったりと過ごす人も見受けられるが、彼女には関係ない。蝋燭の炎に照らされて揺れる不可視のベールに触れないように走り抜ければ誰も彼女の存在に気が付くことはない。ジャックの家にはほどなくしてたどり着く。
幾日ぶりに見上げたその家は相変わらず狭い。しかしどことなく懐かしく感じもする。彼女は笑みをこぼし、扉を叩いた。しかし、なぜか戸には鍵がかかっておらず、叩いた分だけ僅かに開く。木がきしむ音がシーラをいざなうように室内に吸い込まれていく。隙間から見えるリビングのテーブルの上には蝋燭が一本灯されている。髪の中からナイフを抜き、一歩、二歩と中へ踏み入ることにした。
中に彼以外の人物がいることは明白だろう。当然のことながら後ろ手に扉を閉め、心臓の鼓動を抑えつつテーブルに近づく。そのおかげか、彼女の足取りは幾分か無警戒なものに見えただろう。案の定、背後で人の気配が動くのを感じた。迫り来る鋭い風切り音をはじき、距離を取る。
「チッ」
舌打ちと共に男が扉に手をかける。しかしシーラはすかさず取っ手めがけてナイフを投げつけ、相手の逃亡を阻止した。彼女はマントの下に手を隠し、彼を問い詰める。
「名を名乗りなさい」
フードで顔を隠した男は観念したようにナイフを脇に構え、突進してくる。相手が姿勢を低くしていたおかげで、彼女はその頭上を飛び越えることで回避と同時に彼の姿勢を崩すことに成功する。扉に突き刺さったナイフを回収し、再び風を切り裂く刃を弾く。短い気合と共に放たれる直線的な稲妻を難なくあしらう剣の舞。圧倒的な速さはアドバンテージだが、夜目に慣れた彼女にとっては相手の身体の動きと勘で打ち込まれる箇所が手に取るようにわかる。均衡は長くは続かず、決定的な瞬間は十合としないうちに訪れた。苦し紛れの刺突に対して弧を描く一閃。小気味いい金属の噛み合う音と共に男のナイフが宙に舞う。よく磨かれた刃は蝋燭の炎を受け止め、煌いている。彼は反射的に敵から視線を外し、自分の得物を目で追う。その隙を見逃す彼女ではなかった。
「未熟ね」
後ろに流れる右手の勢いをそのままに左半身を前へ出す。突き出された拳は身を屈めても頭一つ分高い男の顔面、鼻のすぐ下を捉えた。彼はうめき声と血を出しながら後ずさり、ひっくり返るように机に倒れこむ。木製の天板はきれいに割れ、椅子と金属の蝋燭立てがけたたましく破壊音を奏でる。シーラはすかさず男の胸の中心を踏みつけ、抵抗しようと上げた両手をそれぞれ複数回切りつける。悲鳴を上げる彼の喉にはっきりとわかるように刃を押し当て、尋問を始める。
「ここへは誰の命令で来たのかしら」
フードをはがされ、男は怯えをあらわにしている。彼女は頬を張り、再び質問を繰り返す。
「あなたは誰? 誰に雇われてここにいるの?」
「い、命だけは勘弁してください!」
「分かったからさっさと言いなさい」
言葉遣いこそ変わらずだが、眉間に皺が寄っているのを感じていた。男は彼女の鬼気迫る表情と首筋に押し当てた刃の冷たさに肝をつぶし、震える唇を開く。
「閃光の、メノフ。ヒポリタス……に雇われた」
「司祭のね?」
「どう、だったかな」
余裕が出てきたのか、それともなけなしの反抗心を奮い立たせたのか。彼の言葉にため息をつき、彼女はナイフの柄でこめかみを殴りつける。
「あなたの仕事はもう終わったの。それ以上依頼主に義理立てする必要はないんじゃないかしら」
「思い出したぜ、お前、ハスバウスのとこのガキだろ。世間知らずの嬢ちゃんが、当主になったって噂になってるぜ。ま、あのクソ坊主に依頼されてジジイをやったのも、俺なんだけどな」
この男は余程口が軽いらしい。苦し気な口調で聞いてもいないことまで話し始めた。父の死にあの司祭までが関わっていることを知り、彼女は躊躇なく首に当てていた刃を横に滑らせる。口から血を吐き出す男の顔面を右手で抑え、左手のナイフを逆手に持ち替えて首の横を何回も突き刺す。勢いよく血が噴き出し、相手が抵抗する間もなく首の横にも突き立てる。男は彼女を押し退けようと暴れるが、胸を圧迫され、手に力が入らない状態では満足な抵抗もできないようだ。目から光が失われるのにそれほど時間はかからなかった。
彼女は少し眩暈を感じながら立ち上がり、散乱したテーブルなどの家具、蝋燭を見つめていた。しかし、ようやくこの場所に来た理由を思い出し、周囲に視界を巡らせる。リビングに彼の姿はない。彼女の言る場所からは扉がふたつあるので、そのどちらかにいることになる。意を決して二つのうちのひとつを開くことにした。
そこは寝室らしく、数冊の本やペンが乱雑に置かれた机とベッドがあるのみだ。そのどちらにも彼の姿はなかった。
残るはひとつだ。その中に彼の遺体があることを覚悟しなければならない。リビングに戻った彼女は呼吸をひとつ挟み、扉を開けた。ドアのきしむ音に反応して何かが動いた。




