第二話:影を追い、エルドに揺られ─その八
ジャックはイエローグラス地方に農地と小作農を持つサルトエンヌ家の出であった。そこの三男坊として生まれた彼は長男が家督を継ぐまでは何不自由なく暮らせていたが、十歳のとき家を出た。農地を持つ貴族とはいえ、所領は周辺の貴族と比べると小さく、領地経営は長男と次男がいれば事足りた。三男に残された道はコルストヴァで士官や騎士になるくらいしかない、そう父親から言い渡された。しかし彼は騎士として戦場を駆け巡ったり、軍の指揮官として兵を率いるのはごめんだった。村の長老の家で読みふけったとある冒険家が書き取らせたという手記に影響を受け、この世界を隅々まで見たいという夢があったからだ。しかし父もふたりの兄も意を決して切り出した彼の話に理解を示すことはなかった。それどころか父は冒険を生活の足しにならないくだらないことだと決めつけ、彼を鞭打ち、長老を罰した。兄もそれは貴族に連なる者がやる仕事ではないと言いはなち、冷たい眼で少年を見つめるだけだった。彼らによってときめきを培った家は燃やされ、書庫にあった本は全て灰となってしまった。しかし、本から得た知識は彼の頭に保管されて残った。家を包む炎が消えないうちに少年は夜闇に紛れて領地を去った。イエローグラス地方からコルストヴァへ食料を運ぶ行商人やエルドと共にプレーンズの草原を渡ったあの夜のことを今でも忘れない。すべての軛から放たれた彼に休む考えはひと時もなかった。都市を本拠地に探索者として雑用をしつつ資金を稼ぎ、ある程度貯まれば旅をする。北の苦水の谷では火を噴く山々や変わった色の火山湖を堪能し、イエローグラスの更に東では古代に崩れ去った都市遺跡を目の当たりにし遥か昔の時代に想いを馳せる。時間は矢のごとしと言ったのは誰だったか。
家出から十年。旅の経験を活かしコルストヴァに住む研究者のフィールドワークに案内人、用心棒として雇われるようになった。その時点で夢は現実となりつつあった。あとひとつ、彼独自の発見が体験できれば立派な冒険者と言えるだろう。もうその頃には親兄弟から言われた言葉などすっかり忘れて冒険稼業に夢中になっていた。そんな時にハバロフスク、そしてヴァルギリウスに出会った。彼らは南方遺跡を目指して調査を続けているらしい。彼の少年時代から眠っていた心は強く刺激される。手記の中にはコルストヴァより南の詳細がなく、神話の時代に起きた異形の化け物との戦いによって危険な地域になったという記述に留まっていた。その頃、南方遺跡は徐々に探索が進められており、はるか昔に市民の一団が新たな都市を建設するために向かって行ったという噂もあった。幼き頃に文字の中にうっすらと見えた冒険者の背中がはっきりと目の前にいる。彼に尻込みをする理由はなく、そこから数年をかけて行われる幾度もの遠征が幕を開けた。遺跡は比較的すぐに見つかった。というのもハバロフスクの集めていた文献や植民者たちの証言は多く、周囲の地形などを推測するのに大いに役立ったからだ。しかし遺跡に入ってからが問題だった。都市は荒れ果て、いたるところに異形の怪物、サムクチルがはびこっていた。伝承では戦いに勝ったことになっていたが、正確には一時的に追い払ったと言った方が正しいのだろう。幸いなことに都市には対抗手段も残されていた。遺物と呼ばれる装身具だ。ジャックが身に着けている物は使用者の精神世界を拡充し、強化してくれる。
「これがそうだ」
彼は胸元から銀色の雫形のペンダントを取り出す。
「俺のアーツは元々、感覚を限界まで研ぎ澄ます程度だった。あらゆる五感が研ぎ澄まされ、勘もよくなる。しかしこのペンダントに触れることで昼のように強大な獣の力を引き出し、得ることができるようになった。これがなかったら俺は既に死んでいただろうし、お前の親父さんも決して無事ではすまなかっただろうな」
「そういえばお父さんとおなじように世話が焼けるとか言ってたね」
「ああ、そうだ。遺物がコルストヴァに流通し始めた時、遺跡を訪れる探索者や冒険者は急増した。人の荷物を強奪し、せっかく探し出した遺物を掠め取る連中はそういう場所に現れる。ヴァリィはそういうヤツを見分けるのが上手かった。そしてそういう連中と戦うときは本当に頼りになった。しかし怪物相手だとからっきしでね。いま思い出しても笑いがこみ上げてきちまう」
ジャックは本当に可笑しそうに思い出し笑いをする。いいコンビだったのだろう。
「私も父さんの言ってることわかる気がするわ。人間相手だと弱点はわかるんだけど、あの化物にはどう対処していいのかわからなかった。あの時も落ち着いて行動を観察しようとしたのだけど、間合いを図り損ねて反応も遅れてしまったの」
「ヴァリィもまさにそう言ってた。人と違って付け焼刃の訓練とか知識でどうにかなる相手じゃない、ってな」
彼の話を通じて彼の父親としての存在を久しぶりに近く感じた。ハスバウスとしての仕事の最中だけでなく、鍛錬や彼から教えを受けているときもそんなことを考える暇がなかった。そのことを今更ながら痛感する。
「彼はいつも子育てについて悩んでいた。子供に自分の仕事を継がせていいのか、子供の将来を決めるようなことをしていいのか。そしてシーラ、君の出自についていつ切り出そうかということも」
思いがけず自分の名前が出てきたことに戸惑いを覚える。出自という予想だにしなかった単語を受け止めきれず、話の続きを聞くことが恐ろしい。
「私の、ですか」
自分でもわかるほど身体がこわばる。
「ああ、そうだ。その反応からすると親父さんは最期まで言わなかったようだな」
「いったいなにを……」
「わかった。俺が彼の意思を継ごう。大丈夫か?」
彼は窺うようにシーラの瞳を覗き込む。彼女は少しの間視線を伏せていたが、意を決したように顔を上げ、頷く。彼は思い切って口を開く。
「嬢ちゃんは、拾い子だそうだ」
「わ、私が?」
彼は一言もそんなことを言わなかった。コルストヴァの西側、外壁と兵舎区域のちょうど中間。何不自由ない家で私は産まれたと思っていた。ましてやその環境を疑うこともなかった。
「そうだ。彼は以前とある一家を殺害する依頼を受けてね。罪悪感を抱えながらも全員を始末したそうだ。それを聞いた奥さんは深く悲しみ、それがあまりにショックだったのか。しばらくして亡くなってしまったらしい。当時病気で伏せていた彼女の薬が必要で依頼を受けたらしいのだが、逆に死なせてしまったと後悔していた」
「そういえば家に母はいなかった。私を産んだ時に亡くなったと聞いてたけど、そんなことが……」
「君を拾ったのは近くの教会の入口だそうだ。彼女の葬儀後、酒浸りになっていた彼は夜な夜な貧民街の酒場にいた。そんな帰り道、通りかかった教会で布にくるまれた赤子が打ち捨てられていた。赤い塗料で目を貫くように線が引かれていたのでマハザール信徒の子供だとわかった。教会では孤児を引き取っていたはずだが、異端の子供は見て見ぬふりをされることが多かったからな。名前はどこにも書かれておらず、おそらく両親が文字が書けなかったのだろう。どうしても目が離せなかった彼はその子を育てることにした。奥さんを亡くすきっかけとなった暗殺。手にかけた者のなかに赤ん坊がいたからだと彼は言ってた」
「それが私、なんだね」
「そうだ。彼はそんなことで自分の罪が赦されないと言っていたが、俺は元からそんなものはないと思ってる。仕事で見知らぬ家族を手にかけたことは自分の大切な人を救うためにやったことだ。奥さんが死んぢまったのも運が悪かっただけ。拾い子ではなく大事な子供として自分の経験や技術を教え、ひとりで生きていく力を授けた。それでも最後まで自分の進んだ道を歩ませていいのか悩んでいた。そんな父親としての彼を俺は知っているし、尊敬している」
「でも父は私に今の、アサシンとしての生き方しか教えてくれなかった。今更他の道を探せなんて無責任じゃない」
「そうだな。彼はそのことについて後悔していたよ。彼女が興味を示す先をもっと慎重に見極めるべきだった、と。エルを連れて帰ったのも嬢ちゃんが限界を感じた時に備えてのことだった」
彼女は愕然とした。自分は父の目から見てそんなにも頼りない後継者だったのか。うつむく彼女の肩を彼が軽く叩く。
「そんな落ち込むことじゃない。嬢ちゃんはまだ若いんだ。彼なりに今の仕事以上にやりたいことが見つかったときのサポートを考えていた、というだけの話さ」
彼女が聞きたいのはそんなことではない。彼女がハスバウスの家名を背負うことにたいして、彼がどう思っていたのか。本当に自分のことを認めてくれていたのか。ただその一点のみだった。
「私に家名を引き継ぐ資格なんてなかったのかしら」
「それは違う」
きっぱりとした口調で否定される。驚き、顔を上げると彼の真っ直ぐな視線に貫かれる。
「彼は嬢ちゃんのことを認めていた。本当に優秀な教え子だ、とね。鍛錬を積んで自らアーツを昇華させたんだ。俺もそれを聞いたとき本当に驚いた。普通の人は誰かに教えてもらってようやく習得できることなんだ。それを話しているときの彼はこれ以上ないほど嬉しそうだったよ」
「師匠が、私のアーツを?」
あの時の彼の表情は冷たく固まったものだった。それは彼女への興味を失ったことに由来するものとばかり思っていた。しかし違ったのだ。驚きと、そして一抹の申し訳なさ。素直にほめることができなかったのは今までの話を聞いて少しわかる気がした。
「アーツはその人の強い意志の表れ。嬢ちゃんの親父さんへの憧れが精神世界を形作り、目覚めさせたんだな」
「本当に? 父さんがそんなことを?」
蝋燭の仄かな灯りに照らされた彼の顔の輪郭が滲む。頬を温かいものが滑るのを止めることはできなかった。彼はそんなシーラの様子を黙って見守る。
「ごめんなさい、こんなはずじゃなかったのに」
しばらくの沈黙の後、彼女は頬を手の甲で拭う。顔にはいつもの眩しいまでの凛々しさが戻っていた。
「ありがとう、話が聞けて良かった」
「そうか、それはよかった。俺も肩の荷が下りた気がするよ」
「帰ったらエルと一緒に父のお墓参りに行かない?」
「それはいいな。しかしエルの奴、俺のこと覚えてるかな? あいつ親父さんにべったりだったから」
ふたりはエルとハバロフスクのことでひとしきり話をした。彼は老科学者の死について嘆きはしたが、ハスラほどではなかった。あくまでもかつての仕事仲間として過去を懐かしむようにいくつか話をしたに留まった。
「そうだ、嬢ちゃん。これは真剣に捉えなくていいんだが」
蝋燭が完全に消え、暖炉で弱弱しく燃える薪の弾ける音が室内を支配したとき。彼は自分の客間へと戻る足を止め、彼女へ思い出したように声をかける。
「もしアンタが今の仕事を辞めたいと思ったときは俺と一緒に探索者をしてみないか。猛獣への対処は教えてやれるからさ」
彼は照れ隠しに笑う。シーラは頷いてみせた。
「うん。エルの面倒をどう見るか決まったら考えてみる」
「そっか。気が向いたらでいいからな」
彼はひらひらと手を振って部屋を出ていく。彼女はベッドに再び身を横たえ、目を閉じる。いつもより早く意識がまどろみ始め、久々に睡眠の心地よさを思い出した。




