第一話:事の始まり─その一
渇水の月、上旬。神々の宝石箱を落としたように美しい夜空が広がっている。軍神に守られし都市、コルストヴァを取り囲む外壁の物見櫓からは足元の街並みはほとんど見えず、遠くの丘の上に立つ貴族屋敷や礼拝堂の灯りが辛うじて見える。
陽が沈み、人々も寝静まり、暗闇が支配する都市で城壁に設置された物見櫓の屋根に何者かが立っていた。呼吸に合わせて白い吐息を漂わせるその人影は目以外を毛羽立った布やマントで完全に覆い隠している。そんな正体不明の人物の背後には荒涼とした丘陵と遠くに見える雲を突き抜けんばかりの山脈が広がり、人々の生活とは隔絶された厳しい自然が広がると一目でわかる。実際、そこを見渡す北西部方面の見張りは大抵サボっている。ここから出入りする商人はほとんどおらず、貧民街(労働者街とも呼ばれている)の重要施設も小さな診療所がひとつあるきりだ。特色があるとすればアリュンシオン連峰に設置されている天文台と採石場、メイラーク高原に都市民の火葬場があるため、昼間から夕方にかけては科学者や労働者、遺体運搬人の出入りが多い。
乾燥した冷たい空気が背中に当たることを感じながら布で覆われた人物、シーラはようやく立ち上がる。任務は迅速に、かつ目撃者と余計な犠牲者をひとりも出さずに遂行されなければならない。サラシを巻き、裸足に布を巻いただけの粗末な装いは踏みしめた足下から音をかき消す。深呼吸をひとつ挟み、鷲のように屋根から飛び降りる。土で作った家々の天井を伝い、ブロックをひとつ、ふたつと跨ぐ。道行く人の袖を引く娼婦も、路地裏でその日の成果を数え上げるスリも頭上を高速で通り過ぎる彼女の存在には気が付かない。そして止まった屋根は櫓から街の中心へ数ブロック進んだとあるアパートの向かい。まだ灯りが漏れる窓から自身が見えないよう屈む。中からは誰かの気配を感じ取れる。そこにいたのは白髪が目立つ男だ。窓を背にした彼はろうそくの灯りを頼りに机に向かっている。新月の夜はいつもより暗いため、大抵の人は寝てしまう。しかし窓から見える男は余程の急用があるようだ。夜明け前までに済ませなければならないのだろう。さて、今回の暗殺対象は老齢の科学者だ。シーラは彼の様子を観察しながら頭の中でシミュレーションを行う。近づくことができれば容易く事を成し遂げることができるだろうが、あの無防備な窓には何かしらの細工を施していると考えた方がいいだろう。侵入経路はいくつも考えられるが、下の階の部屋から床を通って入る方法がよいだろう。事前調査でキッチンにつながっていることがわかっている。
彼女は早速行動に移る。路地裏に降り立ち先ほどのアパートの窓枠を伝って目的の階のすぐ下にたどり着く。窓に留められた粗末な布の端をめくり、住人が寝静まっていることを確認する。音をたてることなく窓枠を乗り越え、易々と室内に入り込むことができた。外から舞い上がった砂埃が窓のすぐそばに山積しており、足裏をくすぐる。ここの住人はひとり暮らしのうえ、だらしない性格のようだ。寝息は聞こえないが、少なくとも壁に聞き耳をたててはいないだろう。上の階と部屋のつくりはほとんど同じだ。彼女は早速キッチンに向かう。
小さな竈には燃え尽きた炭が疎らに残っており、そこまで頻繁に使用していないことが伺える。換気口は煤で汚れていないことだろう。彼女は暗闇を探り、上るためのとっかかりをつかもうとする。
しかし、ざらつく感触と細い金属同士がぶつかり合う音が響き渡る。どうやら害獣対策に金網を張っているらしい。息を殺し、その場で固まる。数十秒後に隣の部屋から扉を開ける音がする。どうやらここの住人は眠りが浅いようだ。幸いにもこのような状況の場数は踏んでいる。胸に手を当ててみても心臓はいたって平静に拍動している。彼女は大きく息を吸い込む。すぐ後にキッチンに入ってくる男の姿があった。彼は短い頼りなく揺れる蝋燭の光で辺りを照らす。もう片方の手には何か棒状のものを握っている。
「誰かいるのか?」
疲れた様子の声とともに灯りが闇をゆっくりと漂う。リビングの出入り口から水場、ごみ箱、調理器具の置き場所、薪を入れるかご、竈。そして彼女が立つ部屋の隅。彼は怖々と覗き込む。そして。
「気のせいか」
彼は蠟燭の灯りを消してキッチンから出ていった。彼女は息を緩やかに吐いて集中を解く。姿は完全に見られなかった。蝋燭をつけても薄暗いこの部屋の中で十分な視野はとれない。何より彼が寝起きだったことが幸いだった。金網を再度慎重に探り、少しずつずらして外す。このまま入ってもいいが、中は灯りがなくても狭いことがわかる。間違いなく引っかかって出血するだろうし、それが原因で足がつくかもしれない。周囲を探り目当てのものを見つけ、頭から被る。住人は夜中起きてしまったせいだと勝手に解釈するだろう。彼女はそのまま暗い穴の中に消えていった。金網を足の指先で掴み、元に戻すのも忘れない。