花の声
吹き抜けの家から星空は見えない。雲が波打つように空を埋め尽くしている。その家にはもう天井がなく、床には昨日の雨だろうか、水たまりができている。腐食した床には穴がところどころ空いていて、暗がりの一室からだけ明かりが見えている。その明かりは箱からの明かりだった。
箱には画面があり、その画面には人が映し出されている。その人物は白髪の後退した前髪を後頭部へとなでつけており、しわの奥の目の黒々としている瞳がうっすらと光を帯びている。その箱のなかの人物の声が、吹きさらしの部屋に響いた。
「野花。まだここにいるのか」
その言葉は、箱によりかかっている少女へと向けられていた。少女は空を見上げている。ブラウスは泥まじりで、よれたスカートが箱のそばの水たまりで汚れることも気にせず座っている。
「うん。だって博士といたいから」
「何度も言うがそれではだめだ。ここもじきに壊れる」
「いいの。私は博士と別れるなんて嫌」
少女は箱をさすった。箱はかつて光沢を帯びた白色をしていたのだろう。しかし風雨にさらされ続けた結果、汚れて黒ずんでしまった。しかし少女、野花はそれでもさすっている。野花は箱を拭くことさえ知らないのだろう。野花は隣にいることしか知らないようだった。
「終わったんだ。何もかも終わってしまったんだ。けれども野花。あなたはまだ生きている。私は君にこんなところで死んでほしくないんだ。君が死ぬのを見るのはまっぴらごめんなんだ」
「でも、私は博士とこうやって話していたい。昔私が目覚めたとき、博士は言ったよね。思うように生きてくれって。私、最初何が言いたいのか分からなかった。でも私、博士に肩をそっと撫でられるのが好きだって気づいた。だから」
「そうか。私はそれほど真っ当ではないよ。誰かの期待を裏切られたと言いたげな顔に胸を締め付けられて、それに怯えているばっかりに、真っ当な振りをしていただけなんだ。それにもう私は君を癒やすことさえできない。このまま君が死んでいくのは見たくない」
「じゃあ、私に一人で息絶えろと言うの。そんなの嫌だ。だってせっかく博士が生き返ったのにまた一人になんてなりたくない。もう誰の声も聞けない時間なんて過ごしたくない」
野花はすがるように箱を抱きしめた。そして目をとじて頬を箱に当ててじっとしている。
「野花。私は言っただろう。旅に出なさいと」
「でも。博士を置いていけない」
「だめなんだ。私はもうまるで機械だ。もう自分が生きているという感覚さえなくなっている。私は体を失うまでその喜びを知らなかった。そうして時間を無為にした。だが体を失ってようやく分かってしまったんだ。その時にはもう永久に手に入れられなくなっていたけれども」
「違うよ。だって私、こんなに落ち着いている。博士はあたたかい。私、怖いの。博士が動かなくなって、博士を埋めたあとに、どんどん世界が広くなって、目の前にあるはずの物が遠くなって、それでも泣けない自分が憎らしかったの。でも博士は生き返った。もう幸せ」
博士は野花から目を背けた。野花は彼を見上げ続けている。
「野花。私がどうして君を遠ざけようとしているのか打ち明けなければならないようだ」
「どうしてなの」
「私はもうすぐ眠るんだ。長く深く意識を沈ませていくんだよ」
「じゃあもう一度私は一人になるの」
「そうだ。これはもう決まっているんだ」
「そんな」
野花の博士を見上げる瞳に哀願が色濃くにじんでいる。
「私、あんな寂しさ耐えられない。博士さえいればそれでいい。また本を読み聞かせてよ。途中で勝手に切り上げて、さぁこれからどうなるだろうねって私に聞いて。私、五十個でも、百個でも話の続きを言うから。分かった。私がこれからお話しするね。だからそれまでの間だけ、生きて」
「だめなんだ。私はかつて高名な科学者だった。しかしたった一つの過ちで他人から失望され、何も言わずに友人も仕事仲間も聴衆も何もかも去っていった。その寂しさを紛らわすために、野花、君と生きていただけなんだ。私は怯えていた。怯えていながら逃げられなかった。私は君を、対等に尊重し合える者として接することができない。そんな私に愛を渡さないでくれ」
「知っているよ。博士は誰とも会おうとしなかった。でも私は」
「君は私の創造物なんだ。私は一人の寂しさを紛らわすためにどんなに醜く汚らわしい自分でも受け入れてくれる存在を作ろうとしていた。君といるのは楽しい。しかしずっと問い続けている。私は孤独な理想の世界にすがっているだけではないかと。そんな声で私をなぐさめないでくれ。君はどこまでも私の声をしているのだから」
博士はうなだれている。夜風が吹きつけて、どこかを叩き、わずかに床や壁が揺れる。風以外の音はどこかに行ってしまったかのように静まり返っている。
「それでも私は、博士が好きだよ」
「あぁ。そうか。そうなのか。そう、だったのか。ありがとう。ならば野花。花を植えてくれないか。どれだけかかってもいい。この辺り一面に花を咲かせてほしい。そうしたらいつか眠りについた私が、そばに立つから」
「博士。私」
ありがとうと博士は言って、やがて箱の光が失われていった。博士、と野花が呼び続けても博士はもう映らない。部屋の明かりがなくなり、部屋の形さえも見えなくなった。野花は一人になった。
それから悲しみもつかの間に野花は花を植え始めた。あちらこちらを巡り、箱のそばへ持ってきては床に穴をあけて露出した土のなかへと埋め続けた。初めは勝手が分からず、まとめて一度に植えたりもしたが、やがてどうすれば花が咲きやすくなるのかを知り始めた。
彼女は花が咲くたびに、またそれ以外にも時間を見つけては箱に向かって声をかけた。博士は姿を現さなかった。しかし彼女は川から水を運ぶなど懸命に育て続けて、疲れては箱へと話しかけた。数え切れないほどの月日を経て、彼女はあちらこちらに傷や汚れをいっそう目立たせるようになった。
いつになったのだろうか。野花はなんとなく疲れを感じて、花をできるだけ踏まないように歩きながら、箱へと近づき、そしてもたれかかった。
風が吹く。花が揺れる。色とりどりの可憐な床が出来上がっている。太陽が花びらを照らし、青空には真っ白な雲が散りばめられている。そよぐ花を眺めながら野花は、もはやない博士の家と、広がる花園とを頭のなかで比べてみる。
きっとどこかで博士が立っている。そうして、さぁこれからどうなるだろうねと野花に語りかけている。そう思わずにはいられない時間がそこにはあった。
読んでいただき、ありがとうございました。また、どこかで。