ご
前回のあらすじ
彼女と僕で鍋を食べた
鯨が飛んでいた。
頭上をふと見ると、大きな青空から迸る水滴と共に大きな鯨が僕の眼前に迫る。
何をするわけでもない。僕に敵意を表しているわけでもない。
鯨は、だたそこにいた。
ひたすらに口をパクパクと動かす彼を見ていると、何もかも何でもいいような気がした。
僕は鯨に背を向けてただひたすらに、歩んできた道を走る。
先に進んでるつもりなのにずっと引き返してる。
道には水溜まりがたくさんある。
僕は水の跳ね返りも気にせず、地面を踏んで走る。
僕の過去には何もない。
ただ水溜まりが無数にあるだけ。
家族だっていやしない。思い出して恥ずかしくなることも、悲しくなることだってない。
ただ、孤独があるだけだ。
鯨は僕を追う。
僕はそれに気づいて恐怖する。
追いつかれたら何をされるのかわからないから。
大声を出そうと口を開けているのに声は出ていない。
どれだけ叫ぼうと苦労しても、音はこの世界になかった。
周りは白と透明に支配されていた。
色彩の自由は僕にないのだ。
朱が欲しいと思った。色がほしいと思った。
鯨は自身の体の色を透明にして、僕に見つからないように追ってくる。
こわい。何をされるかわからない。
殺されるかもしれない。
大切な何かを、奪われるかもしれない。
大切な、なにかって、なに?
僕の頭の中をひっくり返して丁寧に探しても、僕に大切なものなんかなかった。
父親も、母親も、兄弟も家族も。
すべて僕には気持ち悪いものに見えて。
僕の気持ちを知ろうともしないのっぺらぼうが、僕の先に立っている。
僕は鯨に食べられようと、覚悟した。
進む先に待ち構えているのっぺらぼうたちと一緒にいるくらいなら、食べられて命を落とした方がましだ。
僕は歩みを止めた。
ぱしゃっ、と水溜まりの水が大きくはねた。
僕はゆっくりと目を閉じて、鯨は一口で僕を飲み込んだ。
僕の体は、水浸しで気持ちが悪い。
ゆっくりと、目を開けた。
目の前には何もない。
さっきいた世界と似ていて、透明と水色で構成されている。
振り返ってみた。
彼女が、いた。
彼女が子供を抱いて、笑っていた。
だから。
だから僕は大急ぎで彼女の方へ走り出した。
彼女が抱いている子供が誰の子供かわからない。彼女の子供でもないのかもしれない。
でも、なんでもよかった。
ただこんな色のない世界で唯一、彼女と得体のしれない子供だけは色がついて、表情があって、なんだか温かそうだった。
彼女の腕におさまっている子供が、赤子が、
…あ、
「うえぇぇぇぇぇぇん」
泣く。
はっと目を覚ましたら、横で彼女が泣いていた。
僕は身を起こして、彼女の肩をゆっくり掴んだ。
「どうしたの?」
僕は俯いている彼女の表情を見ようと、必死に彼女の顔を覗き込んだ。
彼女はしゃくりあげながら、両手で自分の涙をぬぐっていた。
「けーちゃんうなされてて、叫びはじめるし、怖かった…」
とぎれとぎれに、言葉を紡ぐ彼女。
「僕がうなされてるから怖かったの?」
こくこくっと素早く何度も頷く彼女。
「起こそうと、思ってゆすっても、ぜんぜん、起きなくて」
「怖かった?」
訊くと何度も頷く彼女。
思わず彼女を抱きしめそうになったが、僕の体は寝汗でびしょびしょになっているのに気が付い断念した。
かわりに彼女の頭をゆっくり撫でた。
「けーちゃん、このまま、しんじゃうのかなって」
悪夢を一度見ただけで死ねるのなら、人間の人口はこんなに増えてないと思う、と口にしかけてやめた。
彼女がそう思ったのなら、そうなのだろう。
「死なないよ」
僕は簡単にそう言った。
「人は死ぬもん」
彼女は涙のたまった鋭い眼光をこちらによこしてきた。
そう、人は死ぬ。
自分でも、その死がいつくるのかなんてわからない。
でも
「とにかく今日は死なない」
そうとだけ伝えた。
「ほんと?」
彼女は僕に問うた。
未来のことなんかわからないんだけど。
でも、今は眼前にいる彼女の不安を消し去るのが僕の仕事だと思った。
「絶対死ぬもんか」
できるだけ力強くそういうと、彼女は突然笑い出した。
「じゃあ、今日死ななかったらご褒美にワンいちチョコね」
いちチョコとは、自宅近くのスーパーで売っているサイコロ状の税込み10円ほどで買えるチョコを、いいことがある度に彼女は10円を握りしめて買いに行くことをいう。
1ついいことがあればいちチョコ、二ついいことがあればにチョコ。
いい行いをしたと報告すればじゅうチョコもらえる。
「365日生きれれば、365チョコもらえる?」
「そんなにお金ないから板チョコいっこね」
彼女は暗闇でもわかるほどに、まぶしい笑顔を湛えてそう言った。
なるほど。
僕が一年頑張って生きると板チョコ一枚もらえるらしい。