式院の血族 ~大巫女の神刀使い~
その男が薄汚れた手を地面についた時。
俺は「どうしてもやらなくては」と思った。
意に染まぬものであっても、それが最善だと知っていたからだ。
ただその思いだけで、俺は手にした刃を男目掛けて振り下ろした――。
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苔むした13階段は、いつもの静けさで俺を出迎えていた。
登りきって門をくぐったところで、今更ながら雨が止んでいることに気付く。
大輪のあじさいが咲き乱れる石畳の小径に、重い気分で足を進めた。
(遅かった方だと言える……)
鎌倉にある本家からの呼び出しが、どんな内容か予想はついている。
ここに来るのは一週間ぶりだが、出来ればもうしばらく関わり合いになりたくないと思っていた。
(もっと早く、呼び出されていても不思議ではなかった)
ハイヤーのエンジン音が停止すると、庭の小径にはわずかに水の流れる音と、鹿威しの心地よい音が響くだけになった。
玄関先に立ち止まると、掛け置かれた重厚な一枚板の表札が、否が応でも目につく。
『式院大祓総本家』
これを目にする度、苦く重い気持ちが胸に広がる。
俺の一族は、この世にその血を落とした瞬間から、忌々しくも厄介なものに縛られ生きてきた。
この、ご大層な一門の名とともに。
はるか昔、この国がまだ呪いに支配され成り立っていた頃。
唯一の巫女を護る存在として、国の中枢にその根を下ろした一族。
特殊な能力を宿す者が生まれる、希少な血の家系。
俺もその中の一人であることを、誇りに思ったことはない。
先日、現代における俺の主であり、一族の最高位でもある大巫女を護衛中、失態を犯した。
敵襲を受け、一時の間ではあるものの巫女の身柄を敵に捕られ、俺もろとも呪詛を喰らうことになったのだ。
休日の八景島で起きた騒動を、一族がどれだけ尽力してもみ消したかは、俺の知るところではない。だが、強力な汚泥の呪詛にかけられ、巫女の霊力が弱まっていることは、本家のお偉方に知られてはいけない、はずだった。
(抜け目のない情報網が、仇となったか……)
ひとつ息を吐いて玄関をくぐり、腕時計に目を落とす。十八時一分前。
木造りの母屋から離れへと足を向け、渡り廊下をキシキシと歩く。
廊下の先、雪見障子の前に一人の青年が立っていた。
年よりも大人びた横顔に、彼の生を写すかのような背筋の伸びた、綺麗な立ち姿。
「遠呼」
呼びかけに青年は首を回すと、鋭い眼光の中にどこか哀れむような色を宿して俺を見た。
「来たか……時間通りだな」
「ああ、誠に不本意ながら急ぎ馳せ参じた次第だ」
「同情はしない。自身で切り抜けろ……お偉方が奥でお待ちだ」
すらりと音を立てて開かれた障子をくぐる。
畳敷きの広い前室の、更に奥に歩を進めた。天井付近の欄間からは人工の灯りが漏れ出している。
俺は両開きの大きな木戸の前に正座した。
「高月彼方、参りました」
「入れ」
名乗ればすぐにそう、木戸の向こう側から応答があった。
繊細な彫り細工の施された取っ手に指を添え、静かに横に押し開ける。
座したまま部屋に進み入ると、20畳ほどの和室に設けられた会議卓の末座についた。正面にいる白髪の総代が、射貫くような視線を向けてくる。
座卓を取り囲むご老体達からも容赦ない威圧が浴びせられた。それでも、視線を床に落とすことは許されない。
「定刻通りよの……して、此度の火急の呼び出し、用件はすでに承知か?」
重々しく、総代が口を開く。
この場にて弾劾されるべき内容は、既に分かっているだろうという確認だ。
だが俺の否定が茶番であっても、それを認める訳にはいかない。
「……覚えのないことであれば、ご説明をいただきたく」
大巫女の霊力に翳りが出るなど、高貴な血の一族にあってはならぬこと。お偉方はそれを罪と考えている。
その原因を作ったのが誰か、痛いほどに自覚はある。しかし問題が解決する前にそれを問われるのは……動きを制限されてしまうのは、今の俺にとって得策ではない。
「時間の無駄故、詳細な説明は省かせてもらおう。今日呼び出したのは他でもない。三柱の一本、すなわち其方の居所について、明け渡しを願う声が多くなった件だ」
「明け渡し……とは?」
伝えられた呼び出しの内容に、俺はいぶかしげな視線を向けた。
俺を含め、大巫女には護りを固める3人の従者がいる。
太古から定められた魂の契約により、大巫女の生まれ落ちる時代に合わせて、一族の中から現れる3人。
本家にも霊力を持った式威使いと呼ばれる能力者が生まれるが、そんな一介の式威使いとも一線を画す、秀でた能力を持つ特定の三つ柱。
三柱と呼ばれる俺たちの代わりになるヤツなど、他にはいない。
俺たちにしか、その役は務まらない。
だが、大巫女を既に政治の道具としてしか見られなくなっている濁った目には、そんな当たり前のことすら分からなくなっているのだろう。
「此度の不祥事に、ただ目を瞑ろうなどと思う痴れ者はおらぬ。一歩誤れば巫女様が身罷られていたやもしれぬ事態は明白。式威使いであれば、其方の他にも何人かは戦える者がいる。優れたものが三柱になるは道理」
総代の物言いに、矛盾を感じながらも俺は最善の回答を探した。
「三柱は、本来そのような理屈で定められておりません。この魂そのものが巫女様に直接お仕えする従者の証。代わりなど……」
「時代は移ろい、変わる。弱いものは淘汰される。お前の立ち位置を欲するものは大勢いる。代わりなどいくらでも、どうとでもなる。こちらで決定した後、巫女様に交代を申し出れば良かろう」
「……徒労に終わるかと」
「口を慎め!!」
白髪の総代ではなく、左横から叱咤が飛んだ。
目線だけで確認すれば、大柄な初老の男が黄色く濁った目で俺を睨んでいた。
「巫女様の御力を我が物のように扱い、愚行の限りを尽くしている使いなど、三柱には相応しくないと言っているのだ!」
(元凶は、これか)
目の前の大口を開けた男を、冷めた目で見返す。
森居派……口の悪い友が言っていた。傍流の下賤が、この2年ほどで急速に権力を持ち始めていると。
政治の世界だけでなく、一族の中でも権力を欲しいがままにしたいということなのだろうが。
厄介なことだ。
式院大祓が存在する本来の意味など、この男、いやこの場にいる全ての人間には既に関係ないことなのだろう。
金と高い地位を欲する亡者共の、巣窟と成り果てた、穢れた血の一族。
「まあまあ森居殿、そういきり立っても仕方ない。然るべき処罰が下ればそれで良しとせねば」
「そうですよ。そもそも今回の不祥事は、あそこの株のほとんどを私のところが持っていたからもみ消せたようなものじゃないですか。誰が腹を痛めたのかを勘違いされては困ります」
「済んだ金の話は置いておきなさいよ、みっともない。今は巫女様を敵方に捕られ、使いとして護衛の役割を十分に果たしていない、三柱殿の話でしょう」
「そうだな。我が加賀浪家の式威使いの方が優秀だと、前々から思っていた」
俺の思考を肯定するかのような、陪審員の声がそこかしこから上がる。
ここにいる誰もが、巫女の存在する意味を正しく理解していない。
ただ、占だけで国の未来を導くだけの、都合の良い神の化身などでは決してないというのに。
「巫女様の御力が翳られたとは、真実か?」
皆の声を遮って、低く、総代が俺に尋ねた。
「翳り、という言葉には語弊があるかと」
「では誤りなく申せ」
「いずれ時が解決することを、この場で荒立てていただきたくないとだけ」
「その回答はこちらの予想を肯定しているものとみなすぞ……まあ、良い」
総代が俺の背後に視線を移すと、開いた木戸の向こうから一人の男が現れた。
俺の記憶に間違いがなければ、森居の子飼いである式威使いだったはずだ。
名を、確か……
「門脇貴史、参りました」
「ご苦労、早速だが時間が惜しい。二人とも庭へ出てもらおう」
巫女への不敬と、三柱としての力量不足。
手負いの俺を追い詰め、制裁を与えるのには、十分な錦の御旗だ。
俺の意思とはなんら無関係に、断罪の場は本家の庭園へと移された。
いや、正確には庭園の一角にある、即席の闘技場といったところか。
緑の草地であるここは、庭というより、鬱蒼とした広場といった方が良い。山を背にした無駄に広いその空間の中心に、俺は門脇と名乗る男と向かい合い立った。
男の手には鈍色の刀。
本家所蔵の霊刀であることは、滲み出る霊力からも一目瞭然だった。
「直接話すのは初めてだったか、三柱殿」
その声には、嘲るような響きが含まれていた。
身長は俺とさして変わらない。やせ形の、細く冷たい目をした男。
肩まで伸ばした黒髪と、流行の体の線に沿うような細身のブラックスキニーが、その神経質そうな風貌を際立たせていた。
こいつが、俺を葬るために用意された今回の始末人か。
「俺には、高月という名がある」
「高月家ね……なんら後ろ盾を持たないから、こういうことになるんだ。いくら巫女様のお気に入りでも、つぶされる時はつぶされる……そうだろう?」
弱肉強食というやつさ、と愉快そうに薄い唇が動いた。
「俺はお前みたいな神刀は持たないが……」
すらりと鞘から抜かれ構えた刃には、足下から這い寄るような冷気を感じた。
「裏一本柄、『慶鳥』……これが俺の刀だ」
普通の刀と違い、魑魅魍魎を斬ることの出来る霊刀。
もちろん、能力のある人間が使えば、刃の一つもこぼさずに生きている人間を斬り刻むことも可能だ。
「三柱、高月彼方。式威使い、門脇貴史。決闘の上、勝者を三柱の一本と定める」
総代が場外から俺たちに向かって、声を投げる。
勝者が三柱。そこに肝心の巫女の意思は存在しない。
一族の総意であれば、ここではそれが揺るぎようのない決定事項なのだ……
「勝負はどちらかが負けを認めるまで。もしくは、死ぬまで続けるものとする」
(悪趣味な……)
こいつらにしてみれば、俺とこの男との死闘など、ただの愉快なショーに過ぎないのだろう。
しかし俺が、このショーに参加しなくてはいけないことも確かだった。何かにつけて鼻につく俺に制裁を与えるつもりなのだろうが、こちらとしても手ぬるい結果で終わらす訳にはいかない。
どんな理由であれ、俺が三柱でなくなるなどあり得ない。
今後、この亡者共が俺の代わりになれるなどと、勘違いを起こさないよう、深く胸に刻みつける必要があるのだ。
この命は、一族の為でなく、ただ主の為だけにあるのだということを。
「神刀は、使わないのか?」
刀を構えたまま、門脇が問うた。
三柱のうち、唯一無敵と言われる神刀を扱えるのは俺だけだ。
だが霊力そのものを封じ込めようとする、この汚泥の呪詛が俺の体を蝕んでいる限り、神刀を使うことは出来ない。
そう、分かっているのだ。この男も、老獪なお歴々にも……
「使わない……いや、使えないのだろうな。武器のない相手に気は引けるが、これも勝負だ。悪く思うな」
制裁を与えるには、今はあまりにも好期だ。
俺の霊力は通常の半分以下。霊刀相手に素手では、なぶり殺しの未来は容易に想像出来る。
だがどれほどに不利でも、やすやすと命をくれてやる気は無い。
少し離れた縄張りの柵の中から、遠呼が片手を挙げて合図を送った。
「御札を使って結界を張った。周囲への影響はない……存分に始められよ」
毅然とした声で告げる彼の、式威使いとしての役割は『護り』。
おそらく、三柱以外では鉄壁の防御を誇る彼の能力をもって、本当の意味での決闘場が、場に出来上がる。
「では、参る」
門脇が、動いた。
ゆらりと一歩踏み込んできたところで、周囲に広げていた感覚に鋭利な殺気が触れた。
相手は生身の人間。
いくら俺が鈍っているとはいえ、攻撃の軌道を読むのはさほど難しいことではない。そう思った。
正直なところ、この時の俺は自身の霊力がどれだけ低下しているかを見誤っていたのだ。
なんとかなると。攻撃を避けて、あわよくば霊刀を奪い、有利に立とうと考えていた。
(右……!)
斜め下段から振り上げられる刀身を目で追った。頭の反応速度よりも、体が動く方が速い。
後ろに倒れ込みながら地面を蹴り、跳ぶ。目標を失った刃は、先で反転して俺を追ってきた。
空を斬る音が喉を裂こうと、高速で襲いかかる。
(疾い……?!)
否。俺の反応速度が極端に遅いのだ……!
紙一重で上半身をひねって交わす。下ろしたてのシャツの襟が裂けて、頬に火傷に似た痛みが走った。
攻撃に特化した俺の霊力は、防御に回すことが出来ない。
呪いを背負い鈍ったこの体で、護りを与えてくれる人がいなければなおのこと、ひどく無防備な状態と言える。
だが、今さら他人の能力や戦い方ををうらやむ気もなければ、悲観的になる気もない。
攻撃の手を緩めることなく、尖らせた殺気が俺目掛けて連続で突き出される。それらを交わし、薙ぎ払われた斬撃に反射的に身を反らせると、片手をついた勢いのまま一回転し、距離を取って着地した。
勢いを殺せず滑った両足が静止したところに、間髪入れず門脇が突っ込んでくる。
斜め上から閃いた冷気の刃を横に交わしたところで、ふいに死角から左の脇腹に衝撃がきた。
「っ……!」
容赦のない蹴りを食らった箇所が、内部でみしり、と鈍い音を立てる。
重力に引き寄せられるように、背中から草の上に倒れ込んだ。痛みを堪えて跳ね起きようとした瞬間、強い電圧を喰らったかのようなしびれが、肩口を中心に全身を駆け抜けた。
「……痛っ、あ……!!」
「おやおや、天下の三柱殿が、少しばかり鈍すぎるのじゃないか?」
俺の左肩を貫いた霊刀が、そのまま地面に突き立てられていた。
灼けるような痛みが、体をバラバラにしそうな勢いで全身を駆け巡る。歯を食いしばったところで、叫びたくなるような激痛はごまかせない。
仰向けに転がったまま身動きの取れない俺を見下ろして、門脇は笑った。
刀を握る手は緩めないままにその片足を上げる。踏み込まれたのは、硬い靴のかかと。腹の上にかけられた体重に、胃の中のものを吐き戻しそうになる。
「ぐ、はっ……!」
「ここで降参するか? ……だが、俺が聞こえないフリをしたらどうだ?」
そこで、門脇は声のトーンを落として、俺にだけ聞こえるように小声で囁いた。
「……そうしろと、言われている」
残酷な形に歪んだ笑みを見れば、なんの躊躇もなくそれを実行することが理解出来た。
想像よりも動けなくなっている自分を振り返り、冷たい電流が走る体に歯がみする。
「安心しろ、明日から三柱の名は、俺が継ぐ」
門脇は薄ら笑いを浮かべながら、愚かにもそう宣言した。
こいつの使命は、俺の命を捕ること。
それと引き替えに何を約束されているのかは知ったことではないし、興味も無い。
今の俺に分かるのは、何と引き替えにしてもこの状況を切り抜けなければいけないということだけだ。
すぐ側から沸き立つ鉄の臭いと、伝う生温かさとは裏腹に、冷えた思考が俺の中に満ちていく。
(いつ尽きてしまっても、おかしくない命だ……昔から)
俺は今生でも、俺のやり方で、この一族に抗おうと、ささやかな抵抗を続けてきた。
あまりにも永い時代が流れる間に、狂って、歪んでしまったこの血族に。
今になってその流れを正そうとは思わない。
(ならば、断ち切るまで)
俺は霞みかけた視界に、すぅとひとつ息を吸った。
泥の枷を、一時的に外す術はある。
五感の全てを増幅させる勢いで、安全装置を越えて。
霊力を開放しさえ、すれば。
「……?」
視界の中、門脇がゆっくりと目を見開いたのが分かった。
オーバーロード。
内にある全ての霊力を暴走させ、無理矢理外に押し出す行為。
普通の人間にも感じ取れるレベルの異常さをもって、俺の中から膨大な霊力が噴出する。
「……?! 何を……!」
門脇が一歩下がるのと同時に、ずるりと肩口から刃が引き抜かれるのが分かった。
頬に熱い飛沫が飛んで、鉄の味が滲んだ。その痛みよりも、痛みを麻痺させる勢いであふれ出す霊力の暴走の方が、まだ強い。
「呪いで、霊力は使えないと……話が違う……!」
自分にはない質量の霊力を目の当たりにして、門脇が、怯えた表情で叫ぶ。
青い草の上から体を引きはがすように、俺は上半身を起こした。
「呪詛で抑えられているから、神刀は出せないと……だから自分にも殺れると、そう考えるのは短絡というものだろう……」
やりようはいくらでもある。
命を顧みなければ、いくらでも。
門脇は俺の表情を見下ろして、何かに気付いたように口端をあげた。
「ずい分と……辛そうだな、三柱殿。そうか、そうだよな……そんな無茶をして、本調子であるはずがないものな」
すっかり余裕をなくした目の前の男が、何かが崩れたような笑いを浮かべた次の瞬間。
頭上に、冷気をはらんだ刃が振り上げられるのが見えた。
「もう終わりにしろよッ! そんなになってまでその目……気持ち悪いったらないんだよッ!!」
殺気をはらんだ斬撃が振り下ろされるのと同時に、高い金属音が周囲にこだました。
二の腕に鳥肌を立てるような、冷気の衝突。
鮮烈な光とともに俺の掌中に現れた神刀を、門脇は信じられないものを見た表情で凝視していた。
「……あ、天津神の剣……?」
「ああ……これが、俺の刀だよ」
交錯する刃が触れた瞬間に、力の差は明白だった。
「うっ……うわああぁぁぁっ!!」
一度刀を引いた門脇が、蒼白の表情で叫んだ。神刀を前に感じた畏怖の念が、完全に冷静さを失わせる。
そこから振り下ろした捨て身の一撃は、神刀を手にした俺に届くことはない。
斬り結んだ火花が飛び散ると、稲妻めいた破裂音が響き渡った。
「こんな……こんなはずじゃ……」
刀身の半分を失った霊刀を震える手で握りしめると、門脇はゆっくりとひざを折って、地面に手をついた。
そこに折れた刃の破片が落ちてくる。草の上に転がると、虚しく光った。
(まだだ)
高熱を帯びた自分の手に、遠のきそうになる意識に、俺は訴えかけた。
(ここで、情けなど不要だ。どうしても、俺は……)
「彼方……! 待て……!」
(どうしてもやらなくては)
遠呼の叫ぶ声が聞こえた気がした。しかし、その静止を聞くわけにはいかない。
こめかみから一筋、流れた汗が血に混じって頬を伝うと、草の上に落ちた。
柄を握る手に力を込め、次の攻撃に転じる。
頭上に構えた薄光る神刀を、おれは眼前に跪く男目掛けて、振り下ろした。
「やめろ!!」
頭のどこかでその声に従いたいと思う自分が、わずかにでも攻撃の手を緩めたのかもしれない。
硬質な圧力に阻まれて、加速したはずの刀身は宙で停止した。
霊力同士の摩擦が、腕にしびれるような感覚を走らせる。同時に焦げ付くような臭いが立ち上った。
我に返った時には、門脇の前に滑り込んできた遠呼が、御札を手にして俺を睨み上げていた。
遠呼の結界が、俺の攻撃を防いでいた。
「待てと、言っている……!」
苦しげに、遠呼が眉をしかめる。
勝負はついた。
いつもの、魑魅魍魎とは訳が違う。
相手は、生身の人間だ。
そんなこと、分かっている。分かっていた、はずなのに……
「助けて……すみません……負けました……助けて……」
震える声で、面をあげないまま繰り返す門脇に、俺はそれ以上何かをする気もなくなって、刀を下ろした。
「ここで、こいつを殺してどうなる……?!」
「遠呼……」
「刀を……霊力を収めろ! お前も死ぬ気か……!」
遠呼が、俺よりもよほど切羽詰まったような目で見上げてきた。
「……すまない」
白い閃光を放つと、神刀『天津神の剣』はその姿を消した。
俺の周囲から吹き出ていた霊力が、煙のように薄れ消えていく。同時に、激しい徒労感が襲いかかってきた。
だらりと下げた左腕を、痛みを噛み殺して掴んだ。生温かく濡れたシャツの袖が、赤黒く染め上げられている。
少し……無茶をしすぎた。
「お前は、もっと利口だと思っていたぞ……」
遠呼の言葉に、俺は首を横に振った。
買いかぶりだ。
俺はこんな局面ですら利口に動けないし、うまく立ち回れない。
何が、唯一無二の神刀使いか……これでよく、三柱などと……
「勝負あったな」
総代が進み出てくると、なんの感情も乗らない声でそう告げた。
「当面の問題をどうする? 高月家の三柱よ」
大巫女の護りと、霊力の翳り。
決して無くしてはならない霊力の衰えを、どう取り戻すのかと。
「私以外の三柱が……仕掛けた呪術者を追っています。数日中には、全て元通りになるかと」
「元通り……か」
「それが真に、巫女様のお心に沿う世界かと」
総代は皺の寄った眉間にさらに皺を集めて、顔をしかめてみせた。
「……巫女様に対してのその忠誠、一門の名において、偽りなく真実のものと断言できるか?」
(一門の名において)
煩わしさに、笑いたくなる。
そうしてあの人を閉じ込めて、繁栄を願うだけの一族が。
「私に断言出来ることなど、ありません」
総代以上に、厳しい表情で俺は答えた。
どんなに昔から続いている慣習であっても、今この時において絶対的価値のあるものなどない。
何が真実かは、俺たちの価値観において決めるものだ。
「巫女様が私を不要と見なすのなら、いつでも隠遁いたします。しかし私が巫女様に忠誠を誓うのは、あくまで私の意思。大祓の名に誓うことなど……何もありません」
「……貴様」
「私は、これで失礼いたします」
一礼すると、憤怒の表情に変わった総代に背を向けた。何か言いたそうな遠呼の横を通り過ぎ、俺は元来た道を戻った。
重い体を引きずるように動かし、庭から直接、正面の門をくぐる。
ふと、湿度の高い梅雨の空を見上げた。
雨は、もう降らないのか。
俺は13階段を下ると、目の前に停車していたハイヤーの後部座席に体を滑り込ませた。
よく、ここまで保ってくれた、俺の足よ。
「桜木町まで、やってくれ……」
「かしこまりました」
静かに走り出したハイヤーのシートに、身を預ける。血は付くだろうが仕方ない。
もう指の一本も動かせそうにない右手に、視線を落とした。
少し震えの残る、覚悟の足りない手に。
(俺は、弱い……)
心が、まだどうしようもなく弱い。
その事実をただ思い知るだけの、帰り道。
(安堵など、馬鹿げている……)
死ぬ覚悟も、殺す覚悟もまだ足りない。
汚れぬ手のまま、あの人の元に帰ることが出来ると。
まだ、この手で触れることが出来ると、わずかにでも思うこと自体が。
車窓から見える西の太陽が、赤く、暗く落ちていく。
その色は、逢魔が刻が近いことを教えていた。
ギリ、と歯を食いしばったまま、俺は黒い革張りの背もたれに沈み込んだ。
ふがいない自分に、吐き気をもよおすほどの嫌悪を浮かべて。
揺れる振動に、目を閉じた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
ジャンルとしては、現代和風ローファンタジーになります。
アクション企画の参加作品として、書き下ろしました。
思ったより長くなってしまった上、終始暗かったですね……
世界観がちゃんと伝わったかどうかが、やや心配です。
これの本編はまたえらい長編作品で、実は没落の王女より古いです。というか、一部が没落の王女の元ネタになった作品です(どこら辺が元ネタかは、本編読者にしか分からない。笑)。
笑うところの少ない作品なので、書いていると疲れるヤツです。
きっとこれからも世に出ることはないでしょう。
★☆どなた様からでも感想大募集中です。一言でも長文でも大歓迎!☆★
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