ドリームハウス
私は『ドリーム・ハウス』という施設で働いている。
ここは末期ガン患者、老衰が避けられない人々、脳死となっている人々が入居するいわゆる“終の棲家”だ。
75歳以上になれば誰もがここの入居を申請することが出来る。それ以下でも、一定以上のお金を出し、精神的・肉体的に“死が近い”と判断される理由があれば入居が可能だ。
死が近い、という表現は正しくないかもしれない。実際には、ここにいる人々はもうすでに死んでいるといってもいいのだ。もう社会復帰することもなく、他人と会話をすることも出来ないのだから。
先ほどドリーム・ハウスを家と言ったが、家と言うよりはむしろ工場のような寒々とした印象の建物だ。私が従事する仕事もまた、工場での作業を彷彿とさせる。
『ドリーム・ハウス』……その寒々しいネーミングは、少しもこの施設の冷たい雰囲気を緩和させることに役立っていない。タチの悪い冗談のようだ。
…しかし私は、ここをおおむね良い場所だと思っている。入居者にとってではなく、私にとって、だ。私はこの場所を心から好きになれる、非常に稀有な人間だった。
私は始業のタイムカードを押した後、控え室の椅子に座って宙を見つめている後輩が目に入った。寄せられた眉から、滲み出るような苦悩が伺える。
「おはよう」
私が挨拶をすると、後輩はしかめ面を溶かして、年相応の幼い笑顔を見せた。
「おはようございます。先輩、今日もお早いですね」
はきはきした喋り方が好感を与えるこの後輩は、今年入社したばかりの新入社員だ。入社してそろそろ三か月になるが、この『ドリーム・ハウス』での勤務の中で、彼女は少し変わった。
彼女は最近、ため息をつくことが多い。話し掛ければ愛想笑いを見せるが、その裏に常に影が付きまとう。入社前にここで死が近づく人々の役に立ちたいんですと言っていた、若者らしい純粋さは身を潜めてしまったようだ。…無理もないと思う。
「どうだい、仕事は。慣れたか」
煙草に火を点けた後、意図的に軽い口調で尋ねる。後輩は、慌てて灰皿を手渡してくれる。細かいことによく気が付く、心優しい子だ。
「はい!なんとか…先輩も、みなさんも、…良くして下さっていますし」
仕事について聞いたのに、後輩が仕事内容には触れなかったことに私は気が付いた。
「業務の方では、何か悩みはないか」
触れられたくないであろう部分を、わざと詳しく聞いてみると、後輩の顔がみるみるうちに曇っていく。何かを言いたげに唇が軽く開いた後、作り笑顔が取って変わった。
「いいえ…ありません」
私は後輩がどんな気持ちでいるか、よく理解できた。ここで働く誰もがぶつかる壁だ。
「君、悩んでいるんだろ?『ドリーム・ハウス』の理想と現実が違いすぎて…」
後輩は顔を上げた。影のある表情の中にも誠実さが浮かんでいる。この子は、まだ割り切れていないのだ。
「実は、少し。私、『ドリーム・ハウス』で働けることを光栄に思っているんです。人の役に立てる仕事に就けて良かったって思っています。ただ……どうしても時々、自分のやっていることが正しいのか疑問に思えちゃって…」
一度口にすると、後輩の言葉は止まらない。何度も一人で悩んできたことだったんだろう。私は葛藤している後輩が愛おしかった。
「そういう風に感じるのは自然なことだ。私も、同じ悩みを持っていた時期があった」
「えっ、先輩もですか?」
後輩は意外そうな顔をして私を見つめる。
私は心の中で笑った。真っ赤な嘘だ。私は彼女のようにに悩んだことは一度もない。
「続きは歩きながら話そうか」
私は制服にネームプレートを付けて、手をアルコールで消毒した。マスク越しに話す。
「どうせ、この職場では“他の人”に声を聞かれることはないしね」
ここの入居者は、人ではないからな。
私は後輩に聞こえないようにそう呟いた。
私たちは、『ドリーム・ハウス』の心臓部に入った。ここに、入居者の住居がある。ここで彼らは美しい夢を見ているのだ。
私は重い鉄の扉を開けた。錆びついていて、開閉する度に悲鳴のような音を出す。
この部屋に入って、まず気が付くのが糞尿の匂いだ。それもただの糞尿ではない。その匂いを覆い隠そうとする為に、様々な薬品を振りまいている。悪いことに、花のような匂いの加工つきだ。
良い匂いと悪い匂いが混じると、悪い匂いだけよりも更に趣味の悪い匂いが出来上がる。これは経験をしたことがある人ならきっと分かるはずだ。私は二度と、花の匂いを純粋な気持ちでは嗅げまい――必ず糞尿の匂いをセットで思い出す。
ここで何十年と働いていても、一番はじめにここに入る時は毎回思わず息を止めてしまう。
「まず、『ドリーム・ハウス』って名前の場所とは思えないこの匂いだね」
「ほんと、毎日気が滅入っちゃいますよね……ア、すみません」
こんな風に、先輩相手にも本音がぽろりと出てしまうのはこの子の若さゆえだ。私が得ることの叶わなかった、爽やかでまぶしい…若さだ。
「いくらこの人たちが見ているのが最高の夢だからって、人間の身体から排泄物が出なくなるわけじゃないからな」
匂いの次は、様々な音量・音階のうめき声に気が付くはずだ。うっとりしたため息のようなうめき声。低く笑うようなうめき声。全員が全く異なるお経を異なるペースで唱えているかのような不協和音。
「それと、このお経だな」
「お経って、先輩」
後輩は思わず噴き出した。私を先輩と呼ぶ響きが、まるで十代の少女のような言い方だ。もし私が普通に学校に行っていたら、後輩からこんな風に呼ばれたりしたのだろうかなどと考える。
「あ、チーフ。おはようございます……」
先に仕事に入っていた同僚が、通路を歩く私たちに挨拶してくる。
「おはよう」
挨拶を返しながら、その顔をちらりと伺うと、彼の目はもう疲れ切っていた。この職場に慣れ、全てを諦めてしまっている。
それは、そうだろう。普通の人間にとって、ドリーム・ハウスで働くのが楽しいはずがない。
そんな風に思いながら通路を歩いていくと、いよいよ入館者とご対面になる。いや、実際は目も見えないし、対面という感じでもないのだが…。
「うーうー、あー、ぁー……なぁー……」
うめき声をあげている人々は、カプセルのような形をした特殊な機械の中に入っている。尿管に管を通し、おむつを履き、頭には目元と脳を完全に覆う機械が装着されている。彼らはリクライニングチェアにようになったカプセルの中に座り、それぞれに異なる体験をしている。
「このおじいちゃん、どんな夢を見ているんでしょう」
後輩が一人の老人を指さした。老人は口をすぼめるようにして何度もチュッと音を出している。
「“そっち”方面に決まっているさ」
彼のように、性的な映像を見る入居者は多い。
「おかーさん、たのしーねえ……」
そのすぐ横の老婆の口からはそんな言葉が出る。子供の頃に母と遊んだ記憶か何かだろうか。
無数に、一列に、まるで工場の商品のように並べられる“死を待つ人々”の頭についた機械。
これは装着した者の脳を直接スキャンして、記憶の中で最も幸福度の高かったエピソードを自動抽出し、繰り返し追体験させる装置だ。その再現率はほぼ100パーセントに近いもので、これを付けたものは誰でもその時に戻ったような気分になれる。それが、この『ドリーム・ハウス』の提供する“夢”だ。
……実はこの技術が生まれた時、同時に記憶にない夢を新たに作り出す試みもなされた。しかし残念ながら、全く新しい夢を見る場合、自分の記憶をベースにしている夢ほどのリアリティーは産みだせなかったのだという。
そこで、『虚構の夢』の方の技術はあくまで映画やゲームのような娯楽の延長として普及することになった。この装置をつけて、例えば「見知らぬ素敵な女性とデートする」「大富豪になって豪遊する」とか色々な体験が出来るわけだ。こちらは私のような一般人でも簡単に享受できる娯楽だ。
これに対し『ドリームハウス』で提供されるような記憶をベースにした夢――『記憶の夢』は、依存性が高すぎるため、一般人の使用は許可されていない。一度つけると夢を現実だと思い込み、なかなかこの装置から離れられなくなってしまうのだという……『記憶の夢』は『虚構の夢』に比べて体感10倍ぐらいのリアリティーがあるそうだ。そういえば近々、死刑の代わりにその者にとって忌まわしい“記憶の夢”を見せ続けるのを刑罰にする案も考えられているらしい。
『ドリーム・ハウス』に関しては、家族の勧めで入居する者もいる。自らこの道を選ぶ者もいる。一つだけ言えるのは、『記憶の夢』を見る人間たちは全員死に向かっており、未来はもうないということだ……。
「私、頭では分かっているんです」
後輩が言う。
「この人たちが、今、本当に幸せだって。もはや未来に希望が無くなった人々にとって、過去の記憶で生きる方が、どんなにか幸せだって。……この“夢”技術が出来た時のこと、覚えています?」
「革新的な技術として大騒ぎになったよな。当人の脳に残っている記憶を再現させるなんて」
「はい。この機械が出来たのは、私が10才の時でした。ニュースで見て、世の中にこんなすごい技術が出来たんだって、子供ながらに興奮して、憧れて……今ここで働けるのも、本当に嬉しいんです。でも……」
後輩は俯いた。
「……この人たちがこうやって夢の中で生きることが、正しいのかどうなのか分からなくなっちゃって」
私は後輩がそう言うだろうと分かっていた。私はこれまで、何人も同じように悩む従業員を見てきたのだ。
「だって…こんなの、寂しいじゃないですか。過去の夢だけ見て生きていくなんて……」
私は肯定も否定もしなかった。
「過去の方が輝いて見えるのは当たり前だけど、未来にも良いことがあるって信じられるのが人間だと思うんです。でもこの人たちは…まるで……」
“生きながら死んでいるみたい”…きっと、このようなことを言いたいのだろう。私はつとめて静かな声で、事実を告げる。
「たとえ今、機械を外しても、この人たちは元の生活には戻れない。私たちはもう、死体を相手に仕事をしているようなものなのさ」
「でも、この人たちは、まだ生きているじゃないですか…」
後輩は涙声でそう言う。この子の真っ直ぐさには、毎回胸を打たれる。
彼女の心を軽くしてやりたかった。だから私は、いつものように嘘をつくことに決めた。
「私もね、入社したての時に、同じことに悩んだんだ」
「本当ですか?」
私を見上げる後輩の目の縁に涙が溜まっている。
「…私は入社する前、役立たずな奴だった。学生時代は取り柄もなくて、ぱっとしなくて」
これは本当だ。というより、実際には、もっと悪い。
私がまともな学生だった時期はほとんどない。私は学校生活で落ちこぼれ、長い間引きこもりになっていた。どれほどテクノロジーが進もうが、学校という制度はなくならないし、私のような落ちこぼれもいなくならない。
若い頃を全て家で過ごした私には、いわゆる青春の記憶が無かった。そういう悲しみを、『完璧な青春を体験する』という“虚構の夢”で埋めようとしたこともあったが、リアルさに欠けていてすぐ飽きてしまった。皮肉なことだと思う。死にかけの人間には夢を与えても、今を生き延びる人間に救いを与えてはくれないのだから。
そうして私は劣等感を抱えたまま大人になり、いやいやながら『ドリーム・ハウス』に就職した。……
「ここで働き始めた時は拷問かと思った。こんな半分死んだような人の世話で一生を終えるのか、“ドリーム”なんて名ばかりじゃないかってね」
これも嘘じゃない。
「でもある日、あるおばあちゃんのおむつを替えている時に、彼女が夢うつつのまま『ありがとう』って言ったんだ。とても穏やかな声で、手を合わせて。私に言ったとは思っていない、きっと夢の中で言ったのだろう」
これも、実際にあったことだ。
「……でも私は、それを聞いた時無性に嬉しかったんだ」
……さあ、ここから先は真っ赤な嘘だ。様々な従業員に何度も繰り返し語ってきた台詞なので、よどみなく言葉が口から出てくる。
「役立たずだった私が、こんな風に“ありがとう”で言われるのは、幸せなことだって気付いた。私はそれから、この仕事が好きになった。バカみたいなきっかけだろう。でも、こんな単純なきっかけで、私はこの職を好きになることが出来たんだよ」
私が嘘を雄弁に語るのを、真剣に見つめる後輩の視線が気持ちいい。
……実際にはその逆だった。私は、たとえ見た目には死人のようでも、良い夢を毎日見られる入居者たちが妬んでいた。
それに仕事については、好きになったというより、元々向いていたという方が近い。精神を病む従業員が多いこの職場の中で、淡々と働く私は自然と出世していった。そしていつの間にかチーフになり、後輩を指導する立場になった。
……ここに来る従業員は“人の”役にたちたいというような優しい人が多いのだ。私ははじめから入居者たちを生きた人間とは思っていなかったから、この後輩のような葛藤に苦しむこともなく淡々と仕事が出来たのだと思う。
「その後、君のような後輩を何人も指導してきた。辞めていく者も多いが、ゆっくり時間をかけて、あるいは私のようにちょっとしたきっかけで、この仕事を好きになってくれる時がある。そういう時、私はすごく嬉しいんだ。君もきっと、いつかこの仕事を好きになれるよ」
「はい…、そう信じて頑張ります。ありがとうございます」
後輩は力強く頷いた。彼女は今、私を尊敬の念と共に見ているに違いない。
こうして下の者から頼りにされるのは心地いい。学校生活で躓き落ちこぼれた私でも、この生きた死人だらけの職場では居場所を作ることが出来た。私には、ここが一番の居場所なのだ。……
「…先輩、自分がこのカプセルのお世話になるかもって考えたことありますか?」
ふと、後輩が思い出したかのように聞いた。
「私はまだそんな年じゃないよ」
「それは分かってますけど」
「君はどうなんだ?入るとしたら、どんな夢を見ると思う」
「私だったら、きっと中学の時、バレー部のレギュラーになれたことを夢に見るんだろうなあ。あの時は幸せだったなあ」
無邪気にそう語る後輩に、少し胸の傷がうずく。今に満足しているといっても、彼女の経験したような青春は私には取り戻せない。
「…先輩だったらどうですか?」
「そうだな。私だったら…」
私は少し考えるふりをした。答えは考えずとももう決まっているのだ。
「ひょっとしたら……」
「今この時かもしれないな」
先ほどからずっと呻き続けていた老人が、急にはっきりした口調で言った。
「うわっ…」
無機質な機械で頭を覆った老人のおむつを替えていた若い男は、驚いて一瞬のけ反る。彼は勤務中の『ドリーム・ハウス』の従業員だった。
老人は再びむにゃむにゃと意味を為さない言葉を続ける。その口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
終