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アルタイルの決意

「え? 今日は休むの?」

 晃は心配そうな声を出した。今にも死んでしまいそうなか細い声で、麻実は具合が悪いことを告げる。

「本当に具合が悪そうだな。大丈夫。今日はそんなに忙しくないはずだから。ゆっくり休んでおき。じゃ、明日な」

「麻美、休むのか?」

 猛も心配そうな顔をする。

「たぶん風邪だろ? 喉が弱いしさ、アイツ」

 晃が言うと猛も頷いた。

 いまや肩身の狭くなった喫煙者達が身を寄せ合う喫煙室は、まるで満員電車のように込み合っている。その中で二人は並んで煙草の煙を燻らせていた。始業前の一服を終わらせると、連れ立って自席に戻る。晃が席に着くと、上司の紗智子が来た。

「麻実は休みなんだって?」

「ええ。なんか、すごい具合悪そうでした」

「最近、頑張り過ぎていたからな。少し休めばいいんだよ」

 紗智子はそう言うと晃の肩をポンと叩いた。紗智子と入れ違いに、今度は朝子が晃に近付いてくる。同じ職場、同じチームで一緒に仕事をしているが、朝子と晃の接点はそれだけだ。仕事でもプライベートでも、ほとんど話したことがない。そのせいだろうか。少し緊張した面持ちで、朝子は晃に話し掛けた。

「あの…。今日は麻実さん、お休みなんですか?」

「ああ。そうだけど、何か?」

 相手に興味がない場合、晃の女性に対する態度は素っ気ない。

「あ…。いえ。別に…」

 晃の冷たい対応に後込みするように、朝子は黙った。そんな朝子の様子を見ていた猛が声を掛ける。

「仕事のこと?」

 智子の頬が少し桜色に染まる。

「いえ、違うんです。大丈夫です。はい、大丈夫なんで。し‥失礼します」

 お辞儀をしてから、逃げるようにその場を去る朝子の態度に猛は首を傾げた。

「なんだ? アレ」

 晃に話し掛ける。晃はニヤニヤと笑いながら肩をすぼめて見せた。

「まあ、気にするなよ」

 猛の肩を叩いて元気付ける。

 猛が話し掛けた時、朝子の頬が赤くなったのを晃は見逃さなかった。どうやら智子は猛に気があるらしい。ふと、晃は思いついた。猛には長い間彼女がいない。どうやら意中の女性はいるようだが、完全なる片思いのようだ。その相手が誰なのかは全く答えようとしないが、とにかく現時点で彼女がいないことは間違いがないらしい。ここは一肌脱いで、猛に恋人を作るチャンスを与えてやろうではないか。

 まるで学生に戻った気分だった。悪戯を考えてはワクワクしていたあの頃を思い出す。気持ちが若返っているせいか、仕事もなんだか楽しい。笑顔で業務をこなしていると、紗智子が声を掛けてきた。

「機嫌よさそうだな、晃」

「え? そうですか?」

「麻実が休みだからって、悪さしようとしてるんじゃないの?」

「まさか!」

 見透かされているような気がして、晃は焦った。紗智子は仕事に関しては厳しい人だが根は優しく、頼れる姉御だ。一瞬、猛のことを相談しようかと思ったが止めた。実際晃がやろうとしていることは大きなお世話を通り越して、やはり悪戯なのだ。馬鹿なことは止めろと一蹴されるのが落ちだ。

「まあ、あまりニヤついていると馬鹿っぽく見えるから、顔は引き締めておけよ」

 紗智子は言いながら去って行った。

 ちょうどその時、昼休みを告げるチャイムが鳴った。猛が食事に誘いに来る。その猛の背中を朝子が見つめていた。その朝子も他の誰かに誘われて食事に向かう。

 晃と猛は連れ立って会社近くの蕎麦屋に向かった。二人ともそろそろ財布の中身が乏しくなってくる時期である。寂しい昼食をとった後は、お決まりの喫茶店に入るのを止めて、缶珈琲を片手に公園にやってきた。噴水近くのベンチしか空いておらず、二人は並んで腰掛ける。

「こんな時間に公園のベンチに座ってると、なんだか情けなくなるよな」

 猛は溜息混じりに言った。

「まあ、言うなよ。金欠なのはお互い様だし。それに、今日はいい天気だから」

 晃は大きく伸びをした。その視界の端に朝子が映る。どうやら友達と一緒に日向ぼっこをしに来たらしい。何やら友達が朝子を囃している。それについて必死に弁解しているようだ。

 悪戯心が湧きあがる。

『猛がいるぜ。噴水のとこのベンチを見てみな』

 メールを送る。恐らく晃から朝子へ出した始めてのメールだ。すぐに着信に気がついたようで、朝子が携帯を開ける。そして驚いたように目を見開いて、二人のいるベンチへと視線を移した。

「麻実にお見舞いメール?」

 猛が訊く。

「ん? まあ、そんなトコ」

 答えた瞬間に着信があった。麻実からだ。

「大丈夫か、お前?」

《うん。まあ、何とか生きてる》

「で? 何かあったのか?」

《今日が提出期限の書類があったのを忘れてて…。デスクの二番目の引き出し、青いクリアファイルに挟んであるから、代わりに提出しておいて欲しいの》

「分った。任せろ。それより、帰りに寄ろうか? 飯はあんの?」

《大丈夫。ただの風邪だから。来て感染しちゃうと悪いし》

 そう言った直後、麻実は苦しそうに咳き込んだ。

「マジで大丈夫かよ?」

《大丈夫だいじょうぶ。煙草に咽ただけ》

「風邪の時くらい、煙草は止めとけって。ま、人のこと言えないんだけどよ」

《分ったわかった。じゃ、書類のほう、よろしく》

 電話を切ると、猛が少し青い顔をしながら見ていた。

「麻実から? 大丈夫だって?」

「ああ、大丈夫。ただの風邪だってよ。そんなに心配すんなって」

 晃は答えながら、胸の中に何かモヤモヤしたものを感じた。それの正体は分らない。

 何気なく公園の時計を見ると、昼休みがそろそろ終わろうとしていた。二人は再び連れ立て会社に戻る。朝子も友達と会社に向かって歩き出していた。エレベーターで一緒になる。エレベーターの中で、朝子がチラチラと猛を盗み見ていた。猛はその視線に全く気づかない。ただ階数を示す表示をジッと見ている。晃はそんな二人の様子を後ろから観察していた。

 朝子は特別美人ではない。しかし、良く見れば可愛い顔立ちをしている。少し童顔なのかも知れない。視線に気づいたのか、朝子が晃の方を向く。そして小さくお辞儀をした。メールのお礼のつもりらしい。それに返礼すると、猛が少し首を傾げた。

「誰に挨拶してる?」

「え? 朝子さんだけど」

「朝子さん?」

 猛に呼ばれて、朝子は思わず大きな声で返事をしてしまった。自分のすぐ後ろにいたことに気づいていなかった猛は、驚いて振り返る。

「あ! 居たんだ」

「は…はい。いました…」

 赤くなって俯く。

 そこから会話が始まるのかと思ったが、猛はそれ以上朝子に話し掛けることはなかった。朝子も猛に話し掛ける勇気がないらしく俯いたままだ。友達の一人が朝子を肘で突付いた。

 エレベーターの中を沈黙が包む。

 昼休み終了ギリギリに戻った晃は、頼まれていた書類を取りに麻実の席に行く。言われたとおり二段目の引き出し、青いクリアファイルを取り出すと、そのまま紗智子の所へ向かう。

「麻実に頼まれました。今日が提出期限の書類です」

 紗智子に渡すと、中身を軽くチェックする。そして怪訝そうな顔をした。

「違いますか?」

「いや。これだろう。だけど、ちょっと…な」

 どうやら出来があまり好ましくないらしい。

「このまま先様に渡すのはちょっと…」

「内容はそのままで大丈夫なんですか?」

 突然、猛が会話に入ってきた。

「ああ。内容はこれで十分なんだが、ビジュアル的に微妙というか…」

「俺、作り直してみましょうか?」

 紗智子はボンと手を叩いた。

「少しの手直しで大丈夫だと思うんだ。一応麻実に了解を取ってから、やってくれるか?」

「分りました」

 猛が書類を持ち、携帯を操作しながら席に戻る。麻実に電話をするらしい。

 またしても晃の心がモヤモヤした。猛と麻実はもともと仲が良い友達だった。麻実と付き合いだしたのは猛の紹介だ。このモヤモヤした気持ちの正体が嫉妬だとは、晃は思いたくなかった。

「じゃ、少し手直しを入れるけど。ごめんな」

 猛はそう言うと電話を切る。そして早速仕事に取り掛かった。

 その様子を紗智子の隣で立ったまま眺めている晃に、紗智子は声を掛ける。

「ボケッとしてるな。自分の仕事があるだろう」

 晃は慌てて自分の席に戻った。しかし、実は晃も自分の仕事は一段落着いており、それほど忙しくはなかった。もし麻実の書類の出来が今ひとつなのであれば、晃が直しても良かったのだ。しかし、猛の方が先にそれを提案し、猛の仕事になってしまった。仕方なく次の仕事の準備に取り掛かる。

 しかし、どうしても乗り気にならない。一方猛は楽しそうにPCと向き合っている。そんな猛を、複雑そうな顔で眺めている人物がもう一人いた。朝子だ。

「朝子さん。ちょっといい?」

 晃は朝子に声を掛けた。

「今後のプロジェクトのことなんだけど…」

 言い訳のような言葉を吐きながら、朝子を連れ出す。

 猛の視界から消える辺りで、晃は言った。

「間違ってたらごめん。朝子さんって、猛のこと好きでしょ?」

 唐突な晃の言葉に朝子は赤面する。

「だって、猛のことをずっと見てるでしょ?」

「あの…。それは…。あの…」

 何か言い訳をしようと、一生懸命頭を働かせているようだが、言葉が出てこないようだ。

「俺、協力してやろうか?」

「え?」

 朝子は驚いて晃を見た。

「俺と猛は親友じゃん。きっかけ位は作って上げられると思うよ」

「でも…」

 朝子は俯いた。

「でも、猛さん、好きな人いるし…」

「かも知れないけど、絶望的じゃん」

 実際は猛の想い人が誰なのかは知らないのだが、朝子を励ますためにもそう言った。しかし、朝子は晃が猛の想い人を知っていると勘違いしたようだった。少し驚いたような顔をする。

「だから…ですか?」

「へ?」

「だから、協力してくれるんですよね」

 朝子は何か納得したように頷く。

「お願いしても、いいですか?」

「おお。任せろ。作戦会議ってことで、今夜飲みに行こうぜ」

 晃がそう言った瞬間、席にいたはずの猛が角から顔を出した。

「晃、ちょっといいか?」

「うん? 今行く。じゃ、後で」

 晃が言うと、朝子は軽く頷いた。

 猛が探していたのは麻実の書類に使った資料だった。修正をしている段階で、データの一部が間違っていることに気がついたらしい。その資料は晃が麻実に渡したものだった。その大元の資料が見たかったのだ。晃が用意した資料が間違っていたのではなく、麻実がデータを打ち込むときに数字を間違えて入力したことが原因だったようだ。そしてそれはかなり致命的なミスだったようだ。書類の全部を書き直すとなると、それなりに時間が掛かると猛がボヤく。

「お前も手伝ってくれるだろ? 麻実の失敗なんだし」

「え? いや、今夜はちょっと用事が…」

「麻実の所に行くのか? 心配だもんな」

「うん? まあ、な」

 本当は朝子と作戦会議なのだが、それを猛に悟られてはならない。晃は誤魔化すように笑った。

 終業時刻になり、晃は先に会社を出た。猛が残業しているのは知っているが、その方が都合もいい。一応、猛には謝りのメールを入れ、晃は朝子と合流する。

 あまり人に見られたくないこともあり、いつもは利用しない洋風居酒屋へ行く。ここを利用する同僚はいないはずだ。

 男女二人連れだからだろうか。店員は店の奥の、あまり人目に着かない場所に二人を案内する。そこで朝子から意外なことを聞いた。

 実は朝子と猛は高校が同じだったらしい。そして朝子は高校の頃から猛を好きだったというのだ。高校の先輩だった猛は、学校ではそれほど目立った存在ではなかったそうだ。しかし、たまたま同じ文化祭委員になり、その時の猛を見てから、ずっと好きだったという。朝子は高校を卒業してから地方の大学へ進学したこともあり、それ以外に二人の接点はなかったそうだ。それでも朝子の気持ちは変わらなかったという。

「だから、同じ職場で働いているなんて、勝手に運命を感じちゃったんです、私」

 猛の話をする朝子は、会社とは雰囲気が違っていた。本当に恋する乙女といった感じだ。

 それにしても一途だ。柄にもないが、思わず感心してしまった。

「自分からアプローチとかはしなかったの?」

「出来ませんよ! そんなこと…」

 朝子は首を振った。

「だって、猛さんって、目立つ存在ではなかったけど、大抵彼女がいましたから」

「へぇ…。それなのに、今はずっとフリーなのか…」

 またしても心がモヤモヤする。

 猛と知り合った当初は、確かに彼女がいた。それからも人の入れ替わりはあっても、ほぼ絶えず彼女がいたはずだ。それがフリーを貫き出したのは、晃と麻実が付き合い始めてからだった。

「まさか…ね」

 思い当たった原因を、晃は頭の中からかき消した。思い当たったのは、麻実のことだった。麻実が関わると、猛は友達以上の反応を示す。親友だからと二人は言うが、男女の仲なんてそんなに簡単に割り切れるものだろうか。麻実はなんとも思っていなくても、猛が一方的に好意を寄せている可能性は否定できない。しかし、それを猛に直接聞くことも出来ない。

「俺、マジで応援するからさ。朝子さん、頑張りなよ」

 そう晃が言った時、携帯に着信があった。麻実からだった。

《やっぱり、薬を買ってきて欲しいんだけど…》

 麻実が辛そうに言った。どうやら昼間より悪化しているようだ。

「分った。すぐ行くよ」

《あれ? 今、何処にいるの?》

 居酒屋のBGMが携帯を通して麻実の耳に届いていた。

《もしかして、飲んでる?》

「うん? まあ、そんなトコだけど、いいよ。今から行くから。銘柄の指定はある?」

《飲んでるなら良いよ。大丈夫だから》

 麻実は電話を切ろうとした。

「いや、大丈夫だって。今から行くよ。っていうか、心配だから行きたいんだよ。で、銘柄の指定は?」

 晃は慌てた。こうやって朝子と作戦会議をしている間に、猛が麻実の家に行くのではないかと不安になった。

《来てくれるなら、コンタックにして。一日2回で効くヤツ》

「おう。分った。買ってく。他には? 飲み物とか食べ物とか」

《スポーツドリンクを買ってきてくれたら嬉しいかな》

「分った。すぐ行くよ」

 晃が携帯を切ると、朝子が心配そうな顔で見ていた。

「麻実さんの具合、そんなに悪いですか?」

「病気だから、ちょっと気弱になってるのかも。悪いけど、俺、もう行くわ。あ、でも、猛のことは任せてよ。悪いようにはしないからさ」

「会計は、私払っておきますから。早く行ってあげてください」

 晃は朝子の言葉に甘えることにした。薬局に寄ってから麻実の家に急ぐ。その途中で猛から着信があった。

《今終わったよ。で、麻実の様子は?》

「なんか、昼間より具合が悪いみたい。これから行くところなんだけど」

 言ってからしまったと思った。猛には麻実のお見舞いに行くから残業出来ないと言ったはずだ。

《今から? 今まで何をしてたんだよ》

「ちょっと野暮用があって…」

《まあ、いいや。お大事にって伝えておいて》

 もっと詮索されるかと思ったが、それはなかった。少し救われたような気がする。

 詮索されなかったこともそうだが、なにより猛がまだ会社にいたことにホッとした。やはり猛が麻実の家に行くなんて、馬鹿な妄想でしかなかったのだ。

 この時間から麻実の家に見舞いに行くとなると、必然的に泊まりになる。猛ほどではないにしても、麻実も晃も家賃が安い郊外に住んでいるからだ。一旦自宅に戻って、車で向かおうかとも思ったが、時間の無駄になる。それよりは早く麻実に薬を届けたかった。

 ドアには鍵が掛かっていた。既に合鍵を交換している仲である。自分で鍵を開けて中に入ると、麻実は眠っていた。そっと額に手を当ててみる。熱は下がったのか、それほど高くはないようだ。

 麻実が目を覚ました。晃を見て少し驚いた後、微笑んだ。

「ありがとう…晃」

 胸がキュンとする。不謹慎だとは分っているが、つい愛しさがこみ上げてくる。額にキスをする。その途端、麻実の顔が真っ赤に染まった。

「ば…や…。何すんの」

 怒ったように手を振り上げる。その攻撃から避けて、晃は台所に向かった。綺麗に片付いている。

「お前、飯食ってないだろ」

 晃は言った。料理をした形跡も洗い物した形跡もないのだ。麻実は起き上がって頭を掻いた。

「なんか、面倒で…」

「それじゃ、治るモンも治らないだろうが。今から飯作ってやるから、ちゃんと食べろ。それから薬だ」

 背広を脱いで腕まくりをする。一人暮らしが長い晃は、ある程度の料理が出来る。残り物で簡単にリゾットを作った。

「ごめん、晃。仕事で疲れてるのに…」

「そんなことは気にするな。それより、猛も紗智子姐も朝子さんも、みんな心配してたぞ。早く治せよ」

 麻実の動きが一瞬止まった。晃からは聞き慣れない名前が出てきたからだ。

「…晃と朝子って、仲良かったっけ?」

「え? な…なんだよ、急に」

 先ほどまで一緒だったからか、自然と朝子の名前を言っていたらしい。実際に朝子も心配していたのだから、特に問題はないはずなのだが、急に麻実がその名前に反応したので驚いた。何かもっと質問されるかと思ったのだが、麻実はそれ以上訊いて来なかった。同じチームで仕事をしている仲間なのだから、たまたま名前が出たと解釈してくれたのだろう。

 食事が終わり、二人は並んでテレビを見ていた。並んでといっても、麻実がベッドの中だ。晃は自分が寝る布団を敷いており、段違いで並んでいる格好だ。

「ねえ、お風呂に入ってきたら?」

 麻実が言う。

「そうだな」

 面白い番組をやっていなかったこともあり、晃はそれに同意して立ち上がった。

「悪いけど、風呂、借りるわ」

 そう言って風呂場に向かう。シャワーを使う音が聞こえ出した時、晃の携帯が鳴った。いつもならそんなことはしないのだが、この日に限って麻実はその着信履歴を見てしまった。それは朝子からのメールだった。

 悪い予感が走る。晃の口から朝子の名前を聞いたばかりである。朝子は大人しく、あまり男性社員と交流はない。麻実ともあまり親しくはないのに、何故その名前が会話の中に出てきたり、今こうして晃の携帯にメールを送ってくるのか。

 まさかとは思うが、朝子が晃に誘いをかけるなら今日は絶好のチャンスだ。麻実が会社を休んでいるのだから。中身を見たい衝動に駆られる。しかし、それは出来なかった。晃を信じたいのなら、そんなことは出来ない。

 悶々とした気分だ。

 そんな麻実とは裏腹に、汗を流してさっぱりした晃が風呂場から出てきた。

「メール来てるみたいだよ」

 さり気なく麻実が言う。

「猛かな? ここに来ることは知ってるし」

 そう言いながらメールをチェックする晃の様子を、麻実は横目で観察する。送信者を見た晃が困ったような顔をした。そして麻実から携帯の文面が見えないように読んでいる。

「誰から?」

 何も知らない風を装って言う。仕事のことだったら、何も隠さずに答えるはずだ。

 しかし、晃は誤魔化すように言った。

「やっぱ猛だった」

 麻実が疑っているなど思ってもいない晃は、正直に朝子からのメールであることが言えなかった。それを言ったがために、変な勘ぐりをされてしまうような気がしたのだ。

 何となく気まずい空気が二人を包んでいた。

「もう…寝ようか…」

 麻実が溜息混じりに言う。晃はそれに無言で頷き、部屋の明かりを消した。

 次の朝になっても、麻実の具合は改善されていなかった。それでも仕事に行こうとする麻実を晃が止める。

「今無理したら、絶対長引くぞ。今日も休んでおけよ。紗智子姐には言っとくから」

「だけど…」

 麻実は俯いた。

「大丈夫だって。昨日の書類だって、猛がちゃんとフォローしてくれてるし。アレが一段落着いたら、しばらくは暇なんだろ?」

「そうだけど…」

 麻実が出社したい本当の理由に気付いていない晃は、結局麻実の出社を許さなかった。晃が出て行った玄関を眺めて、麻実は小さな溜息を吐いた。

 麻実の家の方が会社に近いため、晃はいつもよりも早く会社に到着した。ブースには人影も疎らだ。その中に朝子がいた。軽く手を上げて挨拶をする。

「昨日はごめんな」

 晃が言うと朝子は首を振った。

「具合が悪い彼女のためですから。あ、金額はメールした通りですけど、給料日後でも構いませんよ」

 朝子はクスクスと笑いながら言う。現在金欠だということがバレている。晃は苦笑いした。

「じゃ、お言葉に甘えさせて貰います。利子は協力ってことで許して」

「それで結構です」

 少し偉そうに言って、二人は顔を見合わせる。そして同時に吹き出した。

「あれ? 今日は早いな」

 紗智子が出社してきた。そういう沙智子もいつもより早い。

「麻実ん家に泊まったんです。心配だったし。それで今日も休ませてやってください。なんか、昨日より悪くなってるみたいで…」

「え? 麻実さん、昨日より悪いんですか?」

 朝子が不安そうな顔をした。

「まあ、それでも入院が必要とか、そんなんじゃないから。すいません、俺の勝手で休ませちゃったんですけど…」

「いいさ。今日は金曜日だし。週末中に治す様に言っておけよ」

 沙智子は言った。その直後から、出社ラッシュが始まった。次々に同僚がやってくる。その中に猛の姿もあった。

「おはよう」

 挨拶をすると猛が晃に近づいてきた。

「麻実は?」

「今日も休ませた。なんだか、あんまり具合が良くなっていないみたいだったから」

 晃が言うと猛も心配そうな顔をした。もしかしたら、晃よりも麻実のことを心配しているかもしれない。

「大丈夫。今日休んで、それでも変わらないようだったら、明日病院に連れて行くから」

 少しムッとしながら晃は言い、自分の席に着いた。

 昨日とはうって変わって、晃の機嫌は悪かった。不機嫌な顔で午前の仕事をこなすと、猛が誘いにくる前に自席を立った。一緒に昼食を食べる気分にはなれない。

どうしてそう思うのかを、一人で考えたかったのだ。

いつもは行かない、すこし寂れた喫茶店に入る。まるでレトルトのようなパスタを珈琲で流し込むと、煙草に火を点けた。麻実にメールをする。病状を確認するためだ。いつもなら、メールを送ってすぐに返事が来なくても気にならないのに、今日に限って無性に腹が立ってくる。

十分後、やっと麻実から返信があった。今は熱も下がって、咳も止まっているという。その文面の中に猛の名前を見つけて、晃の気分は最悪になった。

更に煙草に火を点ける。その時、喫茶店に朝子が来た。珍しく一人だ。晃の姿を見つけると、少し驚いたような顔をした。

「一緒にいいですか?」

 朝子が言う。

「俺、煙草吸うけど?」

「大丈夫です。友達も吸うし。気にしません」

 朝子は微笑んだ。

 一瞬、ドキッとした。可愛いかも知れない。そう思った。

「朝子さんって、本当に猛が好きなの?」

 今更な質問をぶつけてみる。猛の名前が出ただけで、朝子は耳まで赤くなった。

「ふーん…」

 その様子を見て、晃の気分が少し軽くなる。

「俺、断然応援しちゃうから。絶対、猛と付き合えるようにしてみせるから、大船に乗った気でいてよ」

「はい! よろしくお願いします」

 朝子は頭を下げる。

 その時、マスターが朝子の注文を取りに来た。朝子はアイスココアを頼む。

「食後のデザート代わり」

 そう言って舌を出した。

 二人で笑う。その時、窓の外に猛の姿があった。思わず目を疑う。晃が麻実以外の女性と二人で、自分を避けるように密会しているように見えたからだ。外にいるので会話まで聞こえてこないが、何やら親密そうに話し込んでいる。見てはいけないものを見てしまった気分になり、猛はその場を足早に離れた。

 その日の帰り、猛は晃を待ち伏せした。一緒に帰ろうと約束するほど子供ではないが、どうしても昼間のことが気になった仕方がない。少しでも晃の真意を探りたいと思った。昼休みとは違って、晃は猛を避けるような素振りは見せない。それが余計に怪しいと感じる。昼休みに猛を避けたのは、朝子と密会するためだったのではないか。

 しかし、その言葉をストレートにぶつけることは出来ない。

 晃が麻実の家に寄ると言うので、猛もそれに便乗した。一瞬、晃が嫌そうな顔をしたのに気がついたが、見て見ぬ振りをする。麻実が心配なのだ。

「猛?」

 麻実は少し驚いたような顔をした。晃が戻ってくることは予想していたが、猛まで来るとは思っていなかったからだ。

 麻実が最初に呼んだのが猛だったことに、晃は不満を覚える。

「そうか。心配してきてくれたんだ。でも大丈夫。晃が無理に休ませてくれたお陰で、もうすっかり元気よ」

 猛に笑いかける。そして晃にも笑いかける。

 結局、猛は夕飯を一緒に食べたところで二人と別れた。それ以降は恋人同士の時間だ。猛に入る隙はない。

 猛が帰った後、麻実は無言だった。夕べから麻実の様子が少しおかしいことに、晃は初めて気がついた。それは自分が思い立った悪戯に端を発しているとは思いもつかない。

「ねぇ…」

 麻実が晃を呼ぶ。それに答えて麻実を見た。晃の顔をじっと見つめた後、麻実は曖昧な笑顔を見せる。

「何でもない」

 本当は朝子のことを訊きたかった。夕べの朝子からのメールはなんだったのか。しかし、それを訊くことは出来ない。晃の携帯を盗み見てしまったことを白状するようなものだ。メールの中身が浮気の証拠だったのなら、勿論晃を責めるだろう。しかし、中身までは知らない。単純に仕事のことかも知れない。変に疑って嫉妬深い女と思われるのも嫌だった。

「体調がいいなら、チョコパフェでも食いにいくか?」

 晃は笑った。麻実の曖昧な笑顔の理由が不安であることに、晃は気付いた。しかしその不安材料を読み違えている。自分の浮気疑惑だとは思っていない。単純に病気で弱気になっていると思い込んでいた。

麻実も笑った。晃がパフェを食べに行こうと言うときは、麻実を元気付けたいときだ。ちゃんと自分のことを考えてくれていると思うと、晃を信じようと思える。

「そうだね。パフェ食べたいかも」

二人は連れ立って近くのファミレスへ向かった。窓際の席に案内される。隣の席には女性ばかりのグループが座っていた。その中に知った顔があった。朝子だ。

 二人の顔を見て、朝子は驚いたように目を見開いた。それは単純に思わぬところで知り合いにあったという驚きであったが、麻実の目にはそうは映らない。

「麻実さん、大丈夫なんですか?」

 心配して声をかける朝子に、麻実は無理に笑顔を見せる。

「大丈夫よ。心配してくれてありがとう」

 朝子の連れが二人のことを気にしているのが分る。朝子は慌てて二人を紹介した。

「今、一緒に働いている麻実さんと晃さん。二人は会社でも公認のラブラブカップルなのよ」

「ラブラブは余計だって」

 晃が照れたように言う。

 それからしばらくして、朝子達は帰って行った。どうやら朝子の友達がこの近くに住んでいるらしい。今日はパジャマパーティーなんだそうだ。

「朝子さんって、意外と可愛いよな」

 晃の何気ない一言が麻実に重く圧し掛かる。晃にしてみれば、猛への気持ちを知っているから出た言葉であるが、麻実にはそうは聞こえないのだ。

「ねぇ、晃」

 麻実は言った。

「今日は、帰って」

「なんで? 何か怒ってる?」

「そんなんじゃないけど。なんか、疲れちゃったみたい。一人になりたいの。だから今日は帰ってよ」

 麻実はそう言うと席を立った。振り返りもせずに店を出て行く麻実の後姿を見て、その影に猛の姿を見つける。晃は追いかけることが出来なくなってしまった。

 一人で駅へと向かう道を歩く。寂しかった。麻実とは派手に喧嘩もする。しかし、大抵はすぐに収まっていた。今日の麻実の様子は確かに変だ。その理由が猛にある。晃はそう思った。

 絶対に猛と朝子をくっつける。

 晃はそう心に誓った。


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