こうして「いやー、こっちこないでー」は敬礼として採用されたのです?
いずれの魔王陛下の御世のことであったか。
当時の七名に名を連ねた大公の侍従に、あるデーモンの若者がいた。
このデーモンの侍従。名は伝わってはいないがひどい小心者であったのだという。
ある時、同僚である侍従の恋人に見初められ、言い寄られている現場をその仕事仲間に見つかってしまった。
若者は同僚が復讐に来ると思い、連日怯え震えて仕事もろくに手につかぬと言う有様であった。
具体的には、些細な物音に跳ねて抱えた品を落として破壊。足をもつれさせて転がっては調度品に傷を付ける。などといった具合に。
そんな跳びはね転がる怯えぶりの果てに、帰り道では獣の立てた物音へ向けて三層七十式もの術式をぶっ放して人々の笑い草にまでなってしまった。
さらに、復讐を疑われた同僚の方にはまるでその気は無かったということも笑い話となることに拍車をかけた。
ただ同僚に怯えながらも出仕し続けたのは肝が据わっているとも見える。
が、ただ仕えている大公の不興を買うのがより恐ろしかっただけなのかもしれない。いや、むしろそうなのだろう。確実に。間違いなく。
この若いデーモン。一事が万事このような具合であったから、格下の魔族の中にまで軽んじる者がいた。
魔力そのものはたしかに爵位持ちにふさわしいそれ。ではあるが、同時に上位の者には届くほどではない。
さらに力の持ち主が臆病者では、力を尊ぶ魔族社会であってもさもありなん。いや、精神力と言う力が目に見えて弱々しい以上は、むしろ当然であると言える。
デーモンの若者はある日、自分の名が話の中に上がっているのを聞きつける。
「なあ聞いた? あのビビリの侍従殿がまたやらかしたんだと」
「ああ、聞いた聞いた。今度は飛んできた虫にビビって壁と庭の一部を潰したんだってな。もう情けなさすぎて笑うしかないって」
そう言ってくつくつと含み笑いを交わし合う、カメムシ顔とカエル頭のデヴィルたち。
本人に聞かれているとは思ってもいない状況での話。
それではいい内容でないだろうことは若者も予感していた。だが、無爵の格下にこうまであからさまに笑い種にされては堪らず眉をひそめる。
臆病なのはたしかだが、それでも格下にバカにされて黙っていられるかというのは別問題だ。
足音も荒く、いまだに笑い続けるデヴィルたちの前に出るデーモンの若者。
「お? うぉッ!?」
「あ、ぉあ……」
怒りのまま、魔力をたぎらせた若者の姿に、カメムシとカエルは元から青い顔をさらに青くして後ずさり。
「ずいぶん面白そうに笑っていたじゃないか? ぜひ俺にも聞かせてほしいものだね」
そう言う若者の顔は笑顔であった。
だがその目はまるで笑ってはおらず、魔力も術式として紡がれ始めている。
力を見せびらかしての威圧。
格下限定にしか脅しをかけられないのはいささか情けない話ではある。
「ひ、ひぃい……」
「お、お許しを……」
だが威圧行為のむせかえるほどの小物臭はともかく、実際に向けられた当人たちにとっては堪ったものではない。
怯え震えるデヴィルたち。
威圧感の出どころから逃げるように距離を取る二名。
その両腕は揃って若い侍従への盾とするように交差。引けた腰と相まって、まさに「いやッ! こないでーッ!?」と全身で叫ぶ姿勢であった。
「なにを許せと? 俺はただ面白そうな話を聞かせてくれと言っているだけじゃないか?」
怯える二名に対して、若者は術式をゆっくりと組みたてていく。
「どうしたんだい? 情けないビビりの俺のなにを怖がっているんだい?」
さらに後ずさりするカメムシとカエルをさらに追い詰めて、一陣として出来あがった術式の引き金を引こうと。
「……ほう、また性懲りもなくボクの城を壊すつもりなのかな?」
「ひっ!?」
しかしそこで不意に響いた声に、デーモンの侍従は息を飲んで振り返る。
「やっと修理の手配が終わったところなのに、また風穴を開けてくれるつもりだったんだね?」
「か、閣下……」
そう言って微笑むのは緑の少年。
エメラルドグリーンの髪をさらりと流した、小柄で幼げな容貌のデーモン。
彼こそはこの侍従らが仕える、当時の七名の席を埋める大公であった。
自身の仕える主の登場に、今度は侍従の方が「いやー! こないでー!」のポーズをとることになった。
「くふ……なに? そのポーズ?」
あんまりに怯えおののく若い侍従の間抜けな姿に、幼い大公は赤い目を細める。
愉快げな笑みを形作った血のような彩り。それに侍従は腕を交差させた姿勢のままブルブルと震える。
「あ……うぁ……」
「ほら、答えてよ。涙と鼻水を垂れ流しにしてないでさ」
本来は整っている顔面を様々な汁でびしょぬれにした侍従を、中性的な美貌が追い詰める。
「どうしたんだい? 震えてばかりいないでちゃんと説明しなきゃだめじゃないか」
「あひぃ、ひぃぁあ」
いつまでも怯えてばかりいる配下へほんのりと怒気を滲ませて踏み込む。
それに侍従は身を強張らせて、顔を濡らす液体の量を増す。
「……あ、ばば……お、おそれの……あ、あまりに、つぃい……」
侍従はたどたどしく、涙や鼻で濁った言葉でどうにか主に応える。
「へえ……ボクへの畏れと敬意が、自然と出たのがその姿勢だって?」
途切れ途切れに、詰まりながらの言葉ではあるが、大公は配下の言葉の要点をくみ取って見せる。
解釈が正しいのかを確認する主に、侍従はひどく崩れた顔を激しく縦に振る。
「くふふ、ふあはははははははははッ!!」
あくまで敬意の形であるとの必死な主張。それに小柄な大公はおなかを抱えて大笑いする。
「ふふ、くくっ……いや、面白いよ。それでまさかそんなポーズになるなんてね……く、くくく」
いまだに収まりきらない笑いを漏らしながら、大公は目元をぬぐう。
その上機嫌な様子に、怯えていた侍従はその強張っていた顔と体をわずかにほぐす。
主の気分を上向きに変えたことで、厳罰は免れたか。
そうした期待に侍従はその口を強張った笑みの形に持ち上げる。
「この場で八つ裂きにしてやろうかと思ってたけど、笑わせてもらった褒美にそれは無しにしてあげよう」
そして小さな大公の口から出た期待通りの許しの言葉。それに若い侍従は大きく息を吐く。
「あ、ありがとうござい……」
「だから氷漬けで許してあげよう。そのポーズのまま凍りつくがいい」
「なぁあ!?」
礼の言葉を遮っての判決。
それに驚きのけ反る侍従へむけて、大公は瞬く間に百式一陣を発動。
青白いレーザーで交差した腕もろともに侍従の心臓を貫通。全身を冷凍する。
瞬時に魔族一人を凍結せしめた早業。
周囲に残った冷気を軽く手で払って、大公は自身の作り上げた氷像へ目をやる。
「うん。なかなかの出来栄えじゃないか」
腕を交差させた姿勢のまま仰け反り、驚きと恐怖に強張った瞬間の表情を見事に捕らえた像の出来に、大公は満足げにうなづく。
「今後の儀礼では配下にこの姿勢を取らせるようにしよう。いい手本の像も手に入ったしね」
そして大公は足取りも軽く、処刑の現場から立ち去るのであった。
※ ※ ※
「……なんだこれは?」
ある日、城の図書館で偶然に見つけた本。そのあんまりな内容にジャーイルは開いたページに胡乱気な目を落とす。
突っ込みどころとしてはまず、ぼやけた部分と明瞭な箇所がちぐはぐに過ぎる。
容姿を描写するなら合わせて名前も挙げればいい。にもかかわらずこの話では人物の名が一切出てこないのだ。
歴代の大公の誰かともなれば名前くらいは伝わっているのが自然だと言うのに。
おそらくは逸話や古い噂を元にした作り話の類なのだろう。
「いやん、来ないでー」敬礼誕生由来の仮説の一つ。その程度に受け取るか、完全な与太話と流すのが正解だろう。
本の内容をそう評したジャーイルは本を元あった棚に収める。
そして踵を返して歩き出せば、不意に背後を足音が横切る。
間隔の短く軽い足音。
ジャーイルはその音に振り向く。が、すでに足音の主は影も形もない。
そしてあの胡乱な内容の本も。