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恋に落ちるための二週間

作者: 藤崎珠里

 生ぬるい風が、スカートをぶわりと大きくめくる。だけどまあ、人もいないしいいか、と押さえはしない。

 空は、ただただ青かった。

 一歩足を踏み出す。熱がこもった手すりから体を乗り出す。下には、誰もいなかった。

 手すりを乗り越えて、一つ息を零す。


 ――ああ、やっぱり。


 そのまま、とん、とコンクリートを蹴って。

 私は屋上から、落ちた。


     * * *


 太陽の眩しさに、開けたばかりの目を閉じる。日に焼かれて白くなった視界のまま、ふああ、と大きくあくびをしながら体を起こし、固まった。

 視界に入るのはコンクリートの地面、手すり、空、近所の家々、校舎。……なんで私は、外にいるんだっけ。

 風の音が鳴る。しかしわかるのは『音』だけだった。今の季節ならその生ぬるさを感じるはずだというのに、日差しの暑ささえ感じない。だからといってちょうどいい気温なのかと問われれば、それも違う。気温がないはずはないのに、何も感じなかった。


「……よいしょっと」


 ひとまず立ち上がって、周りを見る。すでに一年と三ヶ月通った高校。の、屋上。

 おぼろげな記憶を辿る。昨日は六限まで授業を受けて、それから? 委員会があって……確か四時くらいに終わったのだ。

 それで、そうだ。急に確かめたくなって、だからここに来たのだ。

 最低限の状況把握は完了。ゆっくりと手すりに向かって歩いていき、昨日のように手すりから身を乗り出そうとして――


「――え?」


 私の体はそのまま、手すりをすり抜けた。

 ……うわ何これ気持ち悪い。浮いてるんだけど。

 顔をしかめながら後ずさる。一応歩くという行為はしているものの、足音が聞こえないし、コンクリートを踏みしめている感覚もない。そうっと足元を確認すると、どうも数ミリ浮いているらしかった。


 つまり、死んだのか。


 あっさりとそう結論付ける。木やら植え込みやら芝生やら、一応クッションになりそうなものがあるのを確認してから落ちたのだが、当たり所が悪かったのかもしれない。死ぬ可能性もあるだろうとは予想していたから、たいして驚きではなかった。今は、なぜ死んだはずの私がここにいるかのほうが気になる。

 とりあえず時間を確認しようと腕時計を見ると、不思議なことにちゃんと動いているようだった。あと三十分くらいで六限の授業が終わる。……寝坊すぎだな。そもそもなんで死んだのに寝てたんだろう。

 ボタンを押して日付を表示させると、七月五日。やっぱり屋上から落ちたのは昨日だ。

 ぼうっと五分ほど立ち尽くしてみたが、何か起こる気配はない。……うーん。このままここにいたって意味はない、よね。何をしたらいいのかわからないけど、教室に行ってみようかな。暇だし。どうせ授業もあとちょっとで終わるし。


 窓や壁、黒板なんかを突っ切って自分の教室へ向かう。私の姿は誰にも見えないらしく、授業中の他の教室を堂々と突っ切っていくのはなかなか面白かった。

 自分のクラスに辿り着き、みんなの様子に思わずちょっとたじろぐ。気のせいかもしれないが、他クラスに比べて空気が沈んでいるように感じた。


「あわっ」


 自分の席に座ろうとして、空気中で尻餅をつく。い、痛くはないけど恥ずい。誰にも見えてないのが救い……見えてない、よね?

 おそるおそる教室を見回そうとして、まず右隣の席に視線を向ける。――目が合った。

 てん、てん、てん、と沈黙が落ちる。


「……見えてる?」


 彼のぽかんとした顔が、答えだった。




 右隣の席の男の子は、片野(かたの)秀平(しゅうへい)君という。同じクラスになってから結構経っているが、全然話したことがないので、彼の人柄はいまいち把握できていなかった。眼鏡かけてるような気がするのにかけてない人、という第一印象のままだ。

 でもきっと、いい人なんだろうなぁ、と思う。授業が終わった後、「色々聞きたいんだけどいい?」とお願いしたら、ちょっとめんどくさそうにしながらも人気のない天文準備室に連れてきてくれた。確かここは、地学部か地学選択の三年生しか縁のない場所だ。訊いてみると、片野君は地学部らしい。

 結構暗くて狭い。物珍しさにきょろきょろし、階段で目を留める。……そっか。北校舎にも、当然屋上はあるのか。天文準備室なんだから、上には天文台があるのかな。ちょっと見てみたい。


「それで、聞きたいことって何?」


 そう尋ねてくる彼に視線を向ける。確かに色々聞きたいと言ったのは私だが、何、と訊かれると具体的には出てこなかった。

 きっと、片野君に訊いたところでわかることは少ないだろうしなぁ。


「うーん……じゃあ、まず一つ。片野君は霊感とかあるの?」

「ない」

「私以外の幽霊は見たことないってこと?」

「……まあ、うん」


 ちょっと曖昧な返事だったのが気になるが、首を傾げてもそれ以上言葉を続けてはくれなかった。

 それから、先生が何か私の話をしていたかと訊けば、一時間目がつぶれて集会があったとのこと。「屋上から飛び降りた生徒がいる」という話をされたらしい。


「飛び降りたんじゃないんだけどなぁ」


 ぽつりと漏らせば、片野君は不思議そうな顔をする。


「飛び降りたんじゃなくて、()()()の」


 ますます意味がわからなそうな彼に苦笑いする。

 他人から見ればただの飛び降り自殺だ。だけど私にとってはそうではない、というだけ。飛び降りようとして飛び降りたわけじゃなく、少し確認したいことがあったのだ。自分から落ちにいったのは事実だから、そんなことを言っても理解されないだろうけど。


「まあ、そんなことはどうでもいいんだ。あとはなんだろ……私の葬式いつやるとか、先生言ってた?」

「……葬式?」

「うん。え、なんにも言ってなかったの? じゃあ身内だけでやるのかなぁ」


 もしかしたら、私の『自殺』がこの学校の誰かのせいだと思っているのかもしれない。自殺でもないし、誰かのせいということでもないのに。死んでしまった今、それを誰かに伝えることはできな――いやできるじゃん。目の前にいるじゃん。

 でも、片野君と私は特に関わりがなかった。彼に伝えて、それを家族が聞いたとしてもたぶん信じないだろう。

 片野君は少し黙った後、「そうなんじゃない?」と返してくれた。適当な相槌という感じはせず、ちゃんと考えてくれた上での返事だった。ふむ、好印象。


「あとは、と。そうだ、さわれるか確かめたいから手出してくれる?」


 物はすり抜けたが、人間に対してはどうなのかまだわかっていない。たぶんさわれないだろうけど、私のことが見える彼ならもしかしたら、ということもある。

 素直に出してくれた手を握ろうとして。……案の定すり抜けたことにがっくりする。


「やっぱだめかぁ。ごめんね、ありがとう」


 彼にさわれなかったということはおそらく、私はもう、何にもさわれないんだろう。本当に死んでしまったんだと、今更はっきり意識する。

 友だちとも家族とも、もう話せない。私の姿は、彼らには見えない。声が届かない。――確認しようとか思うんじゃなかったなぁ。

 自分の手を見つめていると、じわりじわりと視界が滲んでいく。死んでも涙は出るらしい。


「……泣くくらいなら、なんで飛び降りたの」


 彼はしばらく困っていたようだったが、慰めではなくそんな問いを口にした。


「……落ちたんだってば」

「手すりあるし、落ちようと思わなきゃ落ちれないだろ」

「でも落ちたの!」


 言い張る私に、片野君は「そうなんだ?」と引いてくれた。そうなんですぅ、と言って、手の甲で涙を拭く。自分の体にはさわれるのか、とそこで気づいたが、気づいたところで別にいいことなんてない。

 ううう、涙止まんない。そうなんだよなぁ、喜怒哀楽は人並みなんだ。


「うわああん死にたくなかったぁ!」

「あー、うん、ご愁傷様」

「煽ってるように聞こえるうう!」

「え、ごめん」


「ご愁傷様w」「ごめんw」に聞こえるから、今の私の精神は大分やられているらしい。

 死にたくなかった。友だちともっと遊びたかったし、読みたい本とか漫画とか、したいゲームとか、行きたい場所とか、色々、色々。

 馬鹿なことしちゃったな、と今更後悔したって、もう遅い。

 私は死んでしまった。どうして今ここにいるのかわからないけど、たぶんしばらくしたら成仏みたいな感じで消えてしまうんだろう。そうなったら、私は完全に死ぬことになるのだ。

 ああ、やだなぁ。死にたくないなぁ。なんにもできなくなるなんて、つまらなさすぎる。死ぬってことは、つまらないと感じることさえできなくなるってことだけど。


 涙が止まって、なんとか呼吸を落ち着かせてから、じいっと片野君を見つめた。


「未練ありすぎる……死にたくない……。片野君の体乗っ取れたりしないかな」

「やめて」

「しないから逃げないで!」


 引き攣った顔ですすすっと離れていく片野君を慌てて引き止める。私のことが見えるのは片野君しかいないのだから、彼に逃げられたら寂しい。必死な私に、片野君は仕方なさそうに留まってくれた。


「でももう、俺にできることないと思うんだけど。村山さん、他に訊きたいことなさそうだし」

「話し相手はほしいんですー! だって今私と話せるの、片野君だけだよ!?」

「探せばどっかにまだいるんじゃないかな、そういう人」

「探して時間を浪費するよりも、確実に話せる片野君と話してたい」

「……俺と村山さん趣味合わなそうだし」

「話してみなきゃわかんないじゃん!」


 ね、ね!? としつこく頼み込むと、彼は小さくため息をついた。


「じゃあ、放課後だけね」

「うわーい、ありがとう片野君!」

「……なんかすごい元気だね」


 嫌味かとも思ったが、純粋に出た言葉みたいだった。死んでるのに明るいね、みたいな意味合いだろう。

 

「元気なわけじゃないよ。やりたかったこといっぱいあるし。……うぅぅうういっぱい」


 またドバッと涙が出てきた。

 やだやだ死にたくない! もう死んでるから手遅れだけど! なんで死んじゃったんだろうぅ……。


「ティッシュで鼻かめない……。幽霊めっちゃ不便んん」

「いや、余計なこと言ってごめんなんだけど、元気だねっていうのはそういうのを言ってる。……もうその状態だと、死ぬこと自体は怖くないの?」


 呆れたように訊いてくる片野君に。

 ぴたりと泣き止んで、彼の顔を見る。



「――怖いよ、すっごく」


     * * *


 結論として、私と片野君の趣味はかなり合った。



「あれ、それって購買の?」

「……うん。練乳いちごサンド」

「と見せかけてのマヨネーズいちごサンドでしょ! うわあ、私以外に買ってる人いたんだ」



「今日ゲームしてもいい?」

「うん? いいよー。……ってそれ! 私もやってる!」

「え、村山さんこういうゲームやるんだ」

「やるやる。そっか、今日イベント最終日だっけ。がんばれー、って……んんっ!? ランキング四桁!? 課金してんの!?」

「いや、無課金。色々溜め込んでたから、それ使ってる」



「あ、今気づいた。そのスマホケースってもしかして去年の冬アニメのか」

「村山さんアニメも観るんだね……」

「割と観るよ! うわー、おしゃれ。アニメ観てる人じゃないと普通のスマホケースに見えるもんなぁ。買えばよかった」



 などなど。今まで全然関わっていなかったことを後悔するくらい、片野君と一緒にいるのは居心地がいい。


 私は『地縛霊』というやつなのか、なんとなく学校から離れる気にはなれなかった。屋上で寝て、適当な時間に起きたら教室で授業を受けて、昼休みは学校を歩き回り、六限が終わったら地学準備室へ向かう。そんな生活が、すでに二週間ほど続いていた。

 どういうわけか私が消える気配はない。予兆もなく急に消えるのかなぁ、と考えては憂鬱になる今日この頃だ。


「そこ、2かけるの忘れてるよ」


 数学が苦手だという彼に、とんとん、と指で示す。もちろんワークにも机にもさわることはできないのだが。

 片野君はちょっと呻いた後、小さくお礼を言ってまたシャーペンを動かす。いつも話し相手になってもらっているのだから、これくらいは助けになりたい。幸いにも私の得意教科は数学だ。というか、こう見えて勉強は好きだし得意なのだ。

 空気椅子状態で横から眺めている私に、片野君はすまなさそうに謝った。


「ごめんね、全然相手できなくて」

「いいよいいよ。塾の課題なんでしょ?」


 今までは私といるときに勉強をしていることはなかったのだけど、昨夜寝落ちしてしまったせいで課題が終わらなかったらしい。悲愴な顔つきの彼に「わからないところあれば教えよっか?」と申し出たのが三十分前のことだ。

 片野君が助けを求めるような目で見てくるたびに、どれどれ、とワークを覗いて。教えているうちに、あっという間に最終下校時刻になってしまった。


「ありがとう、助かった。今度なんか飲み物でも奢るよ」


 リュックを背負いながら微笑んだ彼に、思わずきょとんとしてしまった。そしてぷっと吹き出す。


「あはは、私もう、飲んだり食べたりできないからね? 奢ってもらえるならコンポタがいいけど。寒くても暑くても、コンポタ最高だよね!」


 あ、とうろたえる片野君は、どうやら忘れていたらしい。まあ、そうだよね。私はちょっと体が浮いてるだけでぱっと見何も人間と変わらないし、放課後こうしてお喋りするだけだと忘れるのも無理はないだろう。

 だけど私は、死んでいるのだ。

 うつむいてしまった片野君に、気にしないでって言っても無理だろうなぁ、と苦笑いを零す。この二週間弱で、彼の性格は結構わかってきていた。今はとりあえず、話題を変えるべきだろう。


「そうだ、そろそろ片野って呼んでいい? 呼んでほしいあだ名あったらそっち呼ぶけど」

「え、いや、あだ名はないけど……」

「じゃあ片野ね。私のことも好きに呼んで」


 好きに呼んで、と言ったところで、私のあだ名は下の名前の怜子から取った『レイ』くらいだ。たぶん片野君……いや、片野には難易度が高い。予想通りというか、彼は「じゃあ、村山で」と戸惑ったように答えた。嫌がってる感じはしないので、密かにほっとする。一応、呼び捨てにしてもいいくらいには仲良くなったつもりだったから。

 片野はまだ気まずそうにしていたが、そのまま「それじゃまた明日」と出ていった。見送って、のんびり屋上に向かう。

 明後日から夏休みになる。それまでにもし私が消えなかったとしたら、休みが明けるまですごい暇だ。土日は基本寝てるから、たぶん寝ようと思えばずっと寝ていられるんだろうけど、それじゃつまらない。

 どうしようかなぁ。

 屋上に出て、コンクリートの上に横になる。そして目をつぶってしまえば、あっけなく眠りに落ちてしまうのだった。


     * * *


 夏休みどうしよう、という心配は杞憂に終わった。というのも、その翌日、とてつもない眠気に襲われたからだった。

 ふわりと少しだけ意識が浮上したものの、なかなか起きることができず、ほんっとうに頑張って目を開ければ、大きな入道雲が漂っていた。それだけ確認して、また目を閉じる。いや、瞼が勝手に閉じてしまった。

 ……おかしい、ねむすぎる。ねむ……ねむい……ね……む………………。


「――村山さん!」


 声。


「ねえ、大丈夫!?」


 走ってくるあし、おと。

 ………………また寝てた。

 うっすらと目を開けると、声から想像したとおり、そこには片野の姿があった。大丈夫だよ、と伝えたくても、眠すぎてむり。

 けれど何度も「ねえ!」と声をかけてくれるので、なんとか一言返す。


「ねむい……」

「……なにそれ」


 途端に気が抜けたように、片野は深く息を吐く。心配かけちゃったな、と思うと、少しだけ眠気がマシになってきた。

 唸りながら一度大きく瞬きをし、のっそりと体を起こす。うん、大分マシ。頭はふわふわしてるけど。

 すぐ近くにいた片野を、ぼうっと見つめる。心配そうな顔。


「なんで、いるの?」

「いつもみたいに待ってても来ないから、もしかしたら屋上にいるんじゃないかなって思って」


 それでわざわざ来てくれたのか。私が屋上で寝起きしていることは、片野に話していた。

 何度も目を瞬いて、手でこする。眠い超ねむい、冷水浴びたい。ふらつきながら立ち上がる。


「……あの、さ、村山さん」


 口ごもる彼を薄目で見る。彼がそっと指差した方に視線を落として、「はっ!?」と素っ頓狂な声が出る。眠気は吹っ飛ばなかったが、それでも眠いなんて言っていられなくなった。

 ――私の足先が、透けている。


「え、えええ、えーーーー!?」

「ほんとに幽霊みたい……」

「だね……。眠いのこのせいかなぁ」


 足を動かす。動いている感覚はあるけれど、足首から下が透け透け。あ、しかも爪先完全に消えてる、うっわ。

 ついに私にも成仏的な時間がやってきたらしい。よくわからないけど今日中には消えちゃうのかな私。ああもう、前兆があればまだ心の準備ができたのに。

 内心の焦りもお構いなしに、ふわぁぁぁ、と長いあくびが漏れる。昨日片野と別れてからずっと寝ていたんだから、やっぱりこの眠気は異常だ。しばしばする目を何度も瞬く。瞬いた瞬間に寝落ちしかけるから危ない。

 容赦なく照りつける太陽に、片野が額の汗をハンカチで拭う。私は暑さを感じないが、片野にはきつい気温だろう。


「ごめん、暑いよね……大丈夫?」

「うん。っていうか、今は俺より村山さんのほうが大丈夫じゃないでしょ」

「そうだね、やばそうだねぇ」


 村山って呼んでくれるんじゃなかったっけ、とか言っていい空気ではない。言い方は少しそっけない感じもするが、片野は随分心配してくれているようだった。さっき駆け寄ってきてくれたときの声、めちゃくちゃ焦ってたし。

 なんてことを考えているうちにも、眠気が戻ってくる。


「……ごめ、ねむい……」

「今寝たらまずいんじゃない?」

「だよね……」

「あ、いや、まずくないのかな……どうなんだろ」


 片野の言葉の意味を考える余裕もないくらい眠くて、これじゃ駄目だとぺちんと頬を両手で軽く叩く。ああそっか、自分でやると痛いのか。そう気づいて、頬をつねって少しでも眠気を逃がす。

 とはいえ、もうどうしようもないなぁ、と思ってしまう。何をしたらいいのかまったくわからない。来るべきときが来た、ということなんだろう。


「したいこと、いっぱいあったんだけどなぁ……」


 ぽつりと漏れたつぶやきに、片野は少し目を見開いた。


「それだけ?」

「ん? それだけって?」


 片野は戸惑ったように、言葉を探すように、口を開け閉めした。

 そして数瞬の後「もっと、」と話し始める。


「何かあると思った。消えたら……もしかしたらだけど、本当に死んじゃうかもしれないのに」

「いや、今もう死んでるじゃん? ほんとにも何もないよ」

「そうかもしれないけど、そうじゃなくて、なんか納得できない」


 顔をしかめる片野。何が言いたいんだろう。納得できないって、私が死ぬのがってことだろうか。死なないでって言われてる? そりゃあ、私だってできることなら死にたくないけど。

 うーん、としばらく考え、思い当たる。


「反応があっさりしすぎてるってこと?」

「……そう、かな」


 彼はさっき、『それだけ?』と言った。もっと何かしら焦ったり、怖がったり、そういう反応があるものだと思ったんだろう。死というものは、ほとんどすべての人間にとって怖いものだから。

 ――私にとっては、違うのだけど。


「あー、っとさ。一個、嘘ついてたんだ」


 薄く微笑む。

 嘘とさえ呼べないのかもしれない。普通の人なら()()()()()()()だと判断して口にしたのだ。


「私、死ぬの怖くないんだよねぇ」


 未練はいっぱいある。死にたくないな、嫌だなぁ、とは思う。

 だけど、怖くないのだ。恐怖を感じない。


『怖いよ、すっごく』


 あのときそう答えたのは、嘘ではない。だって、普通だったらそうなんだから。私は怖くないけど、普通の人だったら、怖いんだから。

 片野は困惑げに眉をひそめている。


「死ぬのだけじゃなくて、今までなんにも怖いって思ったことないんだよね」


 昔から、恐怖を感じたことがなかった。それが最初からだったのかはわからないが、少なくとも物心ついてからは。

 けれど本や漫画、アニメなんかが大好きだったから、そういうものを観て、人がどういうときに怖いと感じるかはわかった。きっとこんな感じなんだろう、というぼんやりとしたイメージもある。それでも私は、恐怖を感じられない。


「私には怖いって感覚がないの。そうだなぁ、かっこよさげな言い方すれば、『恐怖心が欠落してる』って感じ? たぶん他の人ならこういうとき怖いって思うんだろうなー、とは思うけど、それだけなんだ」


 怖いから、というよりは、嫌だから避ける。ここでは怖がるふりをしておくべきだ、と思ったら怖がっておく。

 それが私の、今までの生き方だった。……今回屋上から落ちたのはその、あれだ、魔が差したのだ。痛いのも苦しいのも嫌だから、普段ならあんなこと絶対しなかった。


 片野の相槌はなかった。いきなりこんなことを打ち明けられたって反応に困るだろう。謝ろうとして、また大きなあくびが出てしまった。……一応、真面目な話をしているつもりだから頑張って眠気に抵抗してたんだけど。

 このまま寝たら、私は消えてしまうんだろうか。こんな段階になっても怖いと感じないんだから、やっぱり確認なんてしなきゃよかったなぁ。昔からわかってたことだったのに、わざわざ確認するとか何やってんだろ、私。


「片野、探しにきてくれてありがとね。最期に誰かと話せてよかったよ。……あーあ、でもほんっと……やりたいこと、いっぱいあったんだけどなぁ」


 追っていた大好きな小説、漫画、アニメ。小さい頃観たアニメの影響でアルプスを見てみたかったし、そうじゃなくてもとりあえずヨーロッパには行っておきたかった。来年は修学旅行で沖縄に行く予定だった。

 それから、まだ友だちと話したいことがたくさんある。もし奇跡でも起こって生きて戻れるなら、幽霊になっていた時間のことも話したい。片野のことも。友だちは私と趣味が合うから、片野とだって仲良くなれるだろう。なんだか、それを想像するとちょっと面白くないけど。


 大学に行ってみたかったし、お酒を飲んでみたかったし、社会人として働いてみたかったし、いつか家庭を持って、自分の子どもを育ててみたかった。

 赤ちゃんができたとわかったら旦那さんと名前を考えて、服とかおもちゃとか準備して。子育てはきっと投げ出したくなるくらい大変だけど、それでも心から愛して、大切に育てて。


 そういう未来が全部、私にはもうないんだ。

 じわりと胸が苦しくなった。怖いとは思わないのに、悲しいとは思う。嫌だ、死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない。


 家庭を持つ未来なんて想像してしまったけど、それ以前に初恋もまだだ。

 高校に入れば自然と少女漫画のような展開が待っていると思っていた時期もあったが、とんだ勘違いだった。好きな人どころか気になる人すらできなかった。

  ……死ぬ前に、初恋ぐらいは経験してみたかったなぁ。


「――じゃあなんで飛び降りたんだよ!」

「うへっ!?」


 しんみりと未練を心の中で挙げている最中に、急に片野が声を荒げたものだから、思いきりびくっとしてしまった。い、いきなりどうしたんだ。

 びっくりして固まる私に、彼は「ごめん」とぼそりと謝る。


「う、ううん、私こそなんかごめん?」

「……村山さんは別に悪くないし、謝んないで」

「いやいや、言われて当然のことだからねぇ。飛び降りたわけではないけど、自分から落ちたのは確かだし」


 ちょっと気まずいけど、片野には理由も言っておいたほうがいいだろうか。

 口元に指を当て、片野からほんの少し視線を斜め下にずらす。


「あー、っとね。私図書委員なんだけどさ、今度の図書だよりのおすすめ本のテーマが『ホラー』でね? ……怖いなんて一回も思ったことないなぁ、って改めて思っちゃったんだよね。

 で、他の図書委員の子が案として出してた本の中に、学校の屋上から飛び降りた女の子の話があったんだ。それ聞いて、そういえば今まで死にそうになったことないし、死ぬ直前なら流石に怖いって思えるんじゃないかなぁって。はは、そんなしょーもない理由で死んじゃうなんて、あほすぎだよね」


 好奇心というわけじゃない。ただ単に、他の子が羨ましかっただけだ。普通っていいな。そう、思っただけなのだ。

 手すりを乗り越えて、手を離せば十数メートル下に落ちる、という段階になっても、私は何も感じなかった。……ああ、違う。恐怖を感じなくて、そんな自分に落胆はした。

 そしてやっぱり。こうして死んでもなお、結局私は恐怖を感じることができなかった。


「……村山さん……村山って、やっぱり」


 やっと片野は私を呼び捨てにすることを思い出したらしい。けれど口を止めた彼は、そのまま何も言わなかった。

 やっぱり、何だろう。変とか? 自覚はあるし、他の友だちに言われたってショックは受けつつ仕方ないと思うけど……片野に言われるのは、なんかすごく嫌だな。


「暑いでしょ。いつものとこ行こっか」


 足がなくても移動はできる。天文準備室に向かい始めた私に、片野は無言でついてきた。

 節電のために一つおきにつけられた蛍光灯の下を進んでいき、階段を上がりかけたところで英語科の先生とすれ違った。先生は片野とだけ挨拶を交わし、私には視線さえ向けない。――私が、幽霊だから。

 一瞬立ち止まってしまったが、すぐに移動を再開する。片野は何も言わない。

 こんなふうに気まずい沈黙は初めてだった。片野と一緒にいるときは、たとえお互い無言でもなんとなく心地よかったのに。


 気づけば、眠気はなくなってきていた。もう大丈夫なのかな、と足元に目をやって、あー、と小さくため息をつく。

 消えている部分が、さっきよりも多くなっていた。膝頭の下くらいから透け始め、膝下十センチくらいからは完全に消えている。後ろを歩いている片野ももちろん気づいているだろう。……ほんとに私、これで完全に死んじゃうのかなぁ。


 天文準備室のドアをすり抜け、続いて入ってきた片野に、ぱちんと両手を合わせる。


「できたらでいいんだけどさ、私が消えたら翔子に謝っておいてくれない?」


 翔子、というのは一番仲が良かった友だちだ。謝らなきゃいけない相手はたくさんいるが、片野の負担を考えると一人にしぼったほうがいい。まず家族に謝るべきだけど、それは片野には難しいだろうし。

 片野は顔をしかめつつも、「消えたらっていうか、死んだらね」としぶしぶうなずいてくれた。……消えるのも死ぬのも同じじゃない? 彼の中では何か違うんだろうか。

 現在、私はほぼ膝まで消えていた。眠気が消えたのは、体が消えるスピードが上がったからかな。どういう理屈かわからないが、どうせわからないことだらけなのだから考えたって無駄だ。


「あ、と、は。片野に頼めることってなんかあったかなぁ。それか、言いたいこと……言っておきたいこと……」


 もうあまり時間はない。むむむ、と考え込む私に、片野が一歩近づいた。


「明後日からのイベント、村山の推しユニットの箱イベだよ」

「んっ、そうなの!? このタイミングで!?」

「えっと、あと今期のアニメ豊作だし」

「知ってるよそれも未練の一つだよ!」


 好きだったアニメの二期を見れるはずだったのだ。発表されたときからずーっと楽しみにしていたから、見れずに死ぬなんて不幸すぎる。


「あと、夏休みコンサート行くって言ってたよね」

「ううう」


 大好きなゲームのオーケストラコンサート。チケットもう取ってる。翔子と行くはずだった! めっちゃ行きたい!!


「えーっと……あ、夏コミ、行かなくていいの?」

「行けるもんなら行きたいわ私も!」


 なんなの、なんでさっきからこっちの未練を煽ってくるんだ! 物理攻撃が効くなら今すっごい蹴ってやりたいぃ! ……あ、でもどうせ今足ないからできないか。

 とりあえず代わりに、イラッとしてるアピールとして両腕をぶんぶん振っておく。


「あとは……」

「もういいから! ほら私もうふとももまで消えかけてるし!」


 そう訴えれば、ようやく彼は口をつぐんだ。

 この空気のまま死ぬのは嫌だ。なんかもっとこう、最期の瞬間はシリアスであるべきだ。死にたくないと泣き喚く……のは、無理だしなぁ。あれってたぶん、恐怖からくる行動なのだ。幽霊になった初日には混乱もあって泣いてしまったが、今はもう、せいぜい静かに泣くことしかできない。

 とはいえ一人で死ぬのではなく、すぐ近くに片野がいる状況。泣いて終わらせるのも嫌だった。

 だからこそ何か言いたいことがないか探していたのだが、片野のせいで未練にばっかり意識が行ってしまう。

 あーあー、死にたくない!


「片野は私になんか言いたいことない?」


 時間を無駄にしたくなくて、ひとまず訊いてみる。片野が考えてくれてる間にこっちも考えれば、ちょっとは時間の短縮になる。時間がないことに変わりはないけど。

 片野もやっぱりすぐには思いつかないようで、難しい顔で考え込んだ。

 すでに私の体は、おへその下の辺りまで消えていた。なくなっちゃったけど下半身さわれるのかな、と手をのばしかけて、その指先まで消えかかっていることに気づく。うわ、もうここまでかぁ……。


「あー、どうしよう……なんか言おうと思ったんだけどなぁ」


 あらかじめ考えておくべきだった。最期、最期なんだよな。それっぽいことを言えばいいのかな。いやそれっ『ぽい』とか適当なのは駄目か。


「えーっと、うん。片野ともっと仲良くなっとけばよかったな」


 こんなに気が合うとは思わなかった、と言えば同意を返してくれた。それが嬉しくて、にへっと笑いながら続ける。


「二週間じゃ、まだ全然お互いのことわかんないよねー。私も、怖いって感覚がないとか今日初めて言ったしね。まあ誰にも言ったことなかったし、片野に話したのはこの状況だったからかな? そもそもこうならなかったらたぶん、片野と卒業までまともに喋んなかっただろうしなぁ」


 だからって、死んでよかったとは思わないけど。


「でも、楽しかった。ありがとね、一緒にいてくれて」

「……」

「……片野と話せなくなるの、やだなぁ」


 じんわり目が熱くなってくる。言いたいことは言ったし、そろそろ泣いてもいいだろうか。手のひらは半分ほど消えていて、ぼろりと溢れた涙を拭う気にはなれなかった。

 寂しい。死にたくない。

 だんだん消えていく私を、片野はどんな気持ちで見ているんだろう。きっと気味が悪いはずだ。怖いはずだ。

 それでも、ここにいてくれる。目をそらさずに、見送ってくれる。


「ほんと、ありがとう」


 片野がいてくれてよかった。一人だったら寂しくてどうにかなってたかもしれないし、もしかしたらあのままずっと寝ていて、気づかないうちに死んでいたかもしれない。


「……俺も、ありがと。って言うのはなんか違うかもだけど……でも、村山と話すの楽しかったし、好きだった。あ、もちろん変な意味じゃなく」

「あはは、わかってるわかってる」


 だってまだ、二週間しかまともに話していないのだ。友だちにはなれたとは思うけど、そんなすぐ好きには――好き、には、あれ、うん……?

 じい、と片野の顔を見つめる。

 ……なるほど。もしかしたらそういうことなのかもしれない。


「どうかした?」


 急に様子が変わった私に、心配そうに尋ねてくる。


「あー、いやあ……私片野のこと、結構そういう意味でも好きだったのかもなーって。今急に思いました」

「……は?」


 お、この顔は幽霊になった初日に見たやつだ。私のことが見えているのかと尋ねたときの、ぽかんとした顔。私だってびっくりなのだから、片野もそりゃあ驚くだろう。

 さっき「初恋ぐらいは経験してみたかった」なんて思ってしまったから、それに引きずられただけなのかもしれない。だとしてもいいのだ。どうせすぐに死ぬんだし、未練の一つが叶ったと思うだけはタダだから。

 じわじわと体が消えていく。時間は、ない。


「……言いづらいんだけど、私がこうやって話せてるうちに外出てくれない?」

「え……いや、え? 待って、さっきのも合わせてどういうこと」

「ううぇ、説明しなきゃやっぱ駄目か」


 思わずこの場に似つかわしくない声が出た。

 さっきのも合わせて、と言われても、どう説明すればいいのか。ほぼ言っちゃってるようなものだと思うんだけど。

 消えていく体をちらちらと確認しながら、「もしかしたらなんだけどね」と確定ではないことを念押ししておく。


「片野のこと、恋愛的意味でも好きだったのかもって思ったんだ。ぶっちゃけ私、今まで恋とかしたことないから、これがそうなのかわかんないんだけど。で、今のは……なんか悪いじゃん? 告白して消えてく幽霊って漫画とかではよく見るような気するけど、トラウマものじゃない?」


 そんなこと気にするくらいなら告白しなきゃよかったのに、と言われてしまいそうだけど、ついぽろっと出てしまったのだから仕方ない。死にそうなときだというのに、これだけまともに思考できてる時点で褒めてほしい。

 片野はまだ状況が飲み込めていないのか立ち尽くしている。心なしか瞬きが多くなっているような気がするし、こんな告白にも動揺はしてくれているのかもしれない。


 ……あれ、こくはく?

 そこでやっと、私自身も案外動揺していたらしいことに気づいた。

 そ、そうか、私は今、あっさり情緒もなくすっごくお粗末な告白をしてしまったのか。一応憧れの告白シチュエーションとかあったのに。それをこんな、てっきとうに……!

 う、ううう、いいや、もう死ぬんだ。これ以上後悔するのはやめておこう。


「と、とにかく、今までありがとう! 翔子によろしく、じゃあね!」


 無意味だとわかっていても、ぐいっと片野をドアのほうへ押そうとしてすり抜ける。それで我に返ったのか、片野は私の腕をつかもうとして、もちろんつかめずにそのままつんのめってドアにぶつかった。ごつっ、という音の後に、呻き声。


「……大丈夫?」

「……ちょっと痛い」


 全然我に返ってなかったな。

 ぶつけたところを押さえながら、片野は私に向き直る。


「村山は……最期に一人でも、いいの?」


 あれっ、やっぱり告白はスルーですか。

 内心の突っ込みを隠しつつ、ゆっくりうなずく。……本音を言えば、一人は寂しい。片野に傍にいてほしい。一人は嫌だ、やだ、絶対やだ。死にたくないって、最期のその瞬間まで泣き言を聞いていてほしい。

 けど。私のわがままで、片野が余計に悲しい思いをするのは違うと思うのだ。この二週間、彼がいてくれて本当に助かった。楽しかった。

 だから私は、最期は一人で逝くべきなんだと思う。


「……じゃあ、行くね」

「うん、ありがとう」


 出て行ってほしい、というのも、わがままなのかもしれない。

 片野はこちらに背を向け、ドアノブに手をかける。



「――まって」



 振り返った彼に、はっと口元を押さえる。……私、今、なんて。待ってって、言っちゃった?

 違う、ごめん、行っていいよ。

 そう言いたいのに、声が出なかった。寒いわけがないのに、勝手に体が震え始めた。ぞくりぞくりと、今まで感じたことのないものが体中を支配する。息が止まりそうで、必死に荒い呼吸を繰り返す。

 ――なに、これなに、なんで、なにこれなにこれ、嫌、なんで、やだ、やだやだ!


「村山!?」


 伸ばしてくれた手は、私をすり抜けていく。もう慣れていたはずなのに、意識しないようにしていたはずなのに、どうしてかとてつもない喪失感に襲われて、いっそすぐに消えてしまいたくなった。消失は胸の下まで迫っていて、残り少ない時間を訴えてくる。残酷だった。絶望しか残されていなかった。


「村山、大丈夫、ここにいるから」


 気を抜くとどこにも目の焦点が合わない。それでもなんとか、片野の顔を見た。私を安心させるためなのか、強張った笑顔を浮かべてくれていた。その顔は青ざめていて、とても安心なんてできるはずもないのに。視界が広がり、息もいくらかしやすくなる。彼は私の肩をぽんぽん、と優しく叩くふりをしてくれていた。――なんだかちょっと、暖かい。

 息を吸う。吐く。


 やっぱり私、片野のこと好きなんだろうなぁ、と、すとんと胸に落ちた。


「……まだ怖い?」


 私が落ち着いてきたのがわかったのか、彼は私の目を見てはっきりと訊いた。

 ……こわい? 私は、怖かった?

 体の震えはまだ止まらない。何も答えられない私に、片野は「大丈夫、ここにいる」と何度も言ってくれる。それでも涙が勝手に零れて、やっと出た声は醜く引き攣って、意味を持つ言葉を成さない。

 消える、消えていく、死んでしまう、このまま、こんな姿を彼にさらして。私の最期はこうだったと、彼の記憶に刻み付けられてしまう。それも嫌だと思うのに、死にたくないと思う気持ちのほうが強くて、みっともなく震えながら泣き続けるしかなかった。

 消える、消えたくない、死にたくない死にたくない。怖い。そっか、これが『怖い』だ。さいごのさいごに、やっとわかった。でも知らなきゃよかった。こんなの、知らないほうがよかった!

 消える。


「村山」


 名前を呼んでくれる片野の目に、私はどんなふうに映っているんだろう。

 消える。


「か……った、の」


 彼の名前を、喉の奥から搾り出す。聞こえなかったらそれでいいと思った。しかし片野は、どうしたの、と反応してくれた。

 消える、消える。

 何か、消える前に、何か、なに、か。


「かたの……っ」


 消える、消えていく。


「かたの!」


 ああだめだ、名前しか出てこない。でもここで好きだなんて言ったら、それこそトラウマになる。だから、これでよかったんだろう。


 結局私は、最期まで泣き続け、片野の名前を呼び。

 片野はそんな私の傍に、私が消えるその瞬間までいてくれたのだった。




 

     * * *





「片野!」


 放課後、いつもの天文準備室。すごい勢いでドアを開けた私を、片野はバツが悪そうな顔で迎えた。その表情に確信を持ってずかずかと近づけば、両手のひらを私に向けて後ずさる。


「おっまえ、お前……! 知ってたんでしょ!」

「いや、知ってたっていうか、本当にそうかはわかんなかったから! 変に期待させちゃっても悪いなって!」

「だからってさあ! 言ってよ!?」

「ごめん……」



 あの後、私は病院のベッドの上で目覚めた。何が起きたかわからなかった。看護師さんに意識を確認されて、お医者さんが来て、家族が来て。――元々軽い外傷はあるものの命に別条はなかったのだと聞いて、ますます意味がわからなかった。

 いや、だって二週間ずっと意識不明だったなら重体じゃない? 危ない状態だよね?

 そう思ったのだが、実際はただ眠っている状態だったようで。目覚めない原因がわからなくて、お医者さんも頭を抱えていたらしい。

 つまり、片野と一緒に過ごしていた私は『生き霊』みたいな存在だったということだ。


 で、私の状態は先生がクラスのみんなに話していたため、片野も当然知っていたはずなのだ。……今思えば片野、一回も私が死んだとか言ってなかったし! なんか変に曖昧な言い方するなぁ、とは時々思ってたんだよ。

 変に期待させたら悪い、って気持ちももちろんわかるけど、そこは言ってほしかったな!?


 教室じゃ問いただせないからとここまで早足で来て、おまけに大声も出したものだから息が苦しい。リハビリやカウンセリングを経て、九月も半ばの今日から通学を再開したばかりで、まだ本調子じゃないのだ。元からなかった体力がやばいことになった。

 息を整えながら、片野の隣に座る。……ここの椅子に普通に座れるって変な感じ。ずっと空気椅子だったもんなぁ。

 そこで少し頭が冷えた。早く本題に入らないと、無駄に体力を使ってしまうだけだ。とはいえ納得がいかないのも事実であり、せめてもと唇を尖らせて不機嫌を主張しておく。最期の別れを済ませてしまったものだから気恥ずかしいのだ。


「今日は前言撤回しにきたの」


 わざとらしく咳払いをして片野に向き直れば、彼も姿勢を正してくれた。


「……スルーされたし、今更言うのもなぁって感じなんだけど、一応、一応ね? なんていうの、なんかこの現象名前ありそうだよね。ほら、片野しか話し相手いなかったからさ? 二週間もずっと同じ人としか喋らなかったら、そりゃあちょっとは好意持つと思わない? あれだよ、誘拐された子が誘拐犯好きになっちゃう的な。違うな。違うけど、その、つまりね?」

「つまり?」

「告白とか時期尚早だったんで撤回させてください」


 早口で言うと、片野はぷっと吹き出した。くそ、笑われるだろうとは思ったけどムカつくな。

 実の所、私が片野のことを好きになってしまったのは間違いないし、前言撤回する必要はそれほどない。

 しかし、しかしである。女子である身としては、あんな告白は記憶から抹消したいのだ。そもそもあのときの私は存在そのものがホラーだったし、片野にめちゃくちゃ申し訳ない。私が目を覚ましたと聞いて、さぞかし困ったことだろう。


「でも友だちとしては大好きだから、そこは言っておく」

「え、うん、ありがとう? 俺も友だちとしてはすごい好き」


 ……遠回しに告白は断られたのか、これ。撤回したのだからもう何も言えないけど、スルーはやっぱり悔しい。

 むすっとした私に何を思ったか、片野はまた笑ってわざわざもう一度言い直した。


「友だちとしても、すごい好き」


 大事なことだから二回言いましたってやつ? 追い討ちかけなくてもいいのに、とまで考えて、さっきと今とでは少し違ったことに気づく。

 友だちとして()。友だちとして()

 ぶわわわっと体が熱くなる。


「か、片野くーん? それはどういうことですか?」

「村山のこと、恋愛的意味でも好きだったのかもってこと」

「……ねえ、もしかしなくても私の真似?」

「真似です」

「なんだよバカー! 片野なんて一ヶ月幽体離脱しちゃえばいいんだー!!」

「いやなにそれ」


 私にもわからないから訊かないでほしい。

 変な流れにしてしまったのは単純に申し訳なかったので、仕切り直すことにする。


「……前言撤回を撤回したほうがいい感じ?」

「んー、しなくていい感じ」

「マジか」

「だって俺も『かも』としか言えないし」

「もう私は『かも』じゃないんだよね」


 その返しは予想していなかったようで、片野はきょとんと黙り込んだ。さあ何秒で理解するか、と数え始めようとしたら、みるみるうちに彼の顔が赤くなっていった。

 仕返し成功、と思ったものの。……結局自分も恥ずかしい思いをするのだから、仕返しも何もなかった。


「いや、やっぱ早いよね、こういうの! 私たちたぶん、急に仲良くなりすぎたんだよ! はい、一旦今のやりとりはなかったってことで!!」

「え、なかったことにするの?」

「どっちだよ! 撤回を撤回しなくていいって言ったじゃん!」

「でもそっちが『かも』じゃないなら撤回していい気もしてきた」


 何が何なんだか。

 あー、その、ともごもごと口を動かす。さっきはさらっと言ってしまったが、改めて言うのは恥ずかしい。っていうか勇気が出ない。なんか片野がやけににこにこして待っているのがムカつくし、かわいいなちくしょう。

 ひとまず先に、言いたかったことを言っておく。


「最後のとき、傍にいてくれてありがとう。目の前で人が消えてくのって怖かったでしょ。ごめんね」

「……大丈夫、って言いたいけど、きつかった。今日こうやって話すまではほんとに生きてるのか不安だったし」


 生きててくれてありがとう、と彼は嬉しそうに、心底安心したように微笑んだ。

 ……ここでそんな顔でお礼とか何。ちょっとときめいちゃうんですけど。私の自業自得だったんだし、むしろ怒られるくらいがちょうどいいのに。

 やっぱり私結構、いやかなりこいつのこと好きみたいだなぁ、と改めて思う。となれば、流れ的にも告白に再挑戦するべき、なんだろう。


「どういたしましてって言うのも変だけど、どういたしまして? それで、ええっと、えー……その、す、すっ、す……す……」


 言葉が喉に詰まってなかなか出てこない。真面目に告白しようと思ったらこんなにムズイのか。しばらく「す、す、す……」と頑張ってみたが、一向に言えなかった。


「……やっぱまだ早い気がするからやめとく!」


 はーい、とのん気な返事をした片野は、私が言えないことを薄々予想していたのかもしれない。けどここまで言ったからには何か反応くれてもいいんじゃないですかね!? あ、いや、もうもらってたか……。私のこと好き『かも』とは言われたんだった。かもってなんだよ。私もかもって言ったけどさぁ。

 とにかく今日は久々に学校に来て疲れたし、これ以上粘らずに帰ることにした。


「私もう帰るけど、片野は?」


 確か今日、片野は塾が休みの日だったはず。

 私がバッグを持ち直すと、片野は机に置かれた時計にちらっと目をやった。現在時刻は四時過ぎ。普段帰る時間よりかなり早い。今まで一度も『一緒に帰る』ということができなかったし、できれば一緒に帰りたいんだけど……どうだろうか。

 片野は少し考えた後、「俺も帰ろうかな」と言ってくれた。わーい、やった! 私も片野も電車通学だから駅までは一緒に帰れる。電車は反対方向だけど。

 二人して昇降口に向かう。外に出ると、何かを思い出したように少し待っているように言われた。

 ふー、と息を吐き出して、汗を拭く。むわりとした空気が肌に張り付くようで不快だが、それを感じられることさえ嬉しかった。


「はい、これ」


 すぐに戻ってきた片野の手にはコンポタの缶。……なんで?

 首を傾げるとちょっと不安そうな顔をされた。


「奢られるならコンポタがいいって言ってたから……違うのがよかった?」


 ぽかん、としてしまった。

 思い返せば、確かにそんなことを言った覚えはある。覚えはある、けど。

 ……律儀に奢ってくれるとか、そもそも覚えててくれるとか。はあああ、私にどうしろっていうんだ。嬉しい。絶対今変な顔してる。気づかれませんように!


「……ありがと。好きだよ」


 わざとコンポタに視線を固定すれば、ならよかったと笑ってくれる。どうやらこっちの思惑どおりに誤解してくれたらしい。鈍感な奴で助かった。

 プルタブに指をかける。表情を繕ってからごくりと飲めば、ほどよいしょっぱさの熱いスープが喉を下っていく。コーンの粒も噛んで飲み込むと、一口で大分満足だった。夏のコンポタは汗をだらだらかいてしまうのが難点だけど。


「おいしー。何かを食べれるって素晴らしい……。あとやっぱりコンポタ最高!」

「なんか幸せそうだね」

「そりゃそうだよ! 死の淵からの生還、ってやつだよ!? 怖かったもん……。生きてるって最高……なんかもう全部最高……」


 実際は死の淵からは遠い場所にいたわけだけど、気分的にはそうだったのだ。

 どちらともなく歩き出す。もったいなくてちびちびとコンポタを飲んでいると、やけに見られていることに気づいた。……欲しいんだろうか。自分用にも何か買えばよかったのに。これが女友達だったら「飲む?」と訊くところだが、さすがに好きな人との間接キスはハードルが高い。


「あげないよ?」

「いらないよ。ただ生きてるなー、いるんだな、って思って見てた」

「……嬉しそうだね」

「うん」

「ほぉ」


 素直に言われると照れくさくて、変な相槌を打ってしまった。

 色々話そうと思っていたのに、なんとなく無言でコンポタを飲み進めてしまう。今日の沈黙は心地いい沈黙だった。缶一杯なんてすぐに飲み終わって、途中にあった自販機のゴミ箱に投げ込む。残ったコーンは潔く諦めた。


「……ねー片野、私が休んでた分のノート貸してくれない?」

「いいけど……女子に借りたほうが綺麗なんじゃない?」

「片野のノートがいいんですー」


 相当な量があるし、借りたからにはお礼をしなくてはならないだろう。そしたら一緒にいられる時間もちょっとは増えるというわけだ。

 約束を取り付けたところで、夏コミはどうだったの、とか、今度一緒に映画見にいかない? とか、そういう話をしていたら、あっという間に駅に着いてしまった。


「じゃあまたね。コンポタごちそうさまー」

「うん、また明日」


 手を振って別れ、エスカレーターを上がる。ちょうど来ていた電車に急いで乗れば、ドアから向かいのホームにいる片野が見えた。じいっと見るとこっちに気づいてくれたので、また小さく手を振る。振り返してくれた片野に、にへっと笑みがもれた。

 電車が発車する。

 ふう、とドアに寄りかかる。あー、疲れた。眠ったらまた消えてしまうんじゃないかと思うと怖くて、なかなか眠れなかったんだけど……今日は寝れそうだなぁ。

 雲ひとつない空に視線を向ける。確か、私が落ちたときの空もこんなだった。

 ……生きててほんとよかったなぁ。もうあんな馬鹿な真似はしたくない。家族にも翔子にも、「なんか気づいたら落ちてた」って説明したらめちゃくちゃ怒られたし……。


 とりあえずは、長い間話せていなかった分、翔子と色んな話がしたい。具体的には恋バナを。今まで私はそういう話題は聞く専門だったから、翔子も面白がって聞いてくれるだろう。あわよくば、これからどうしたらいいかアドバイスしてほしいなぁ。

 ……あれっ、そういえば私、何気にデートの約束しちゃってないか!? 映画誘ったよな!? え、どうしよ何着てこう! デートっぽい服なんにも持ってない! それこそ翔子に頼るか!?


 まだ日程さえ決まっていないというのに緊張してきてしまった。向こうにデートというつもりがあるかは知らないが、どきどきしながらその日を待つのは私の自由だろう。

 気づけば緩んでいた頬を、慌てて引き締める。電車の中でこんな顔していられない。

 けれどすぐににやけてしまったので、仕方なく口元に拳を当ててごまかす。


 最寄り駅まであと三駅。家は駅から歩いて五分だから、家までは合計十五分ちょいってところ。それまでにはこの顔、どうにかしなきゃなぁ。

 にやけたまま、私はそっと幸福のため息をかみ殺した。





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