雫
手のひらに、微かな冷たさが伝わった。
冷たい、と思った時にはもうそこには何もなかった。
顔を上げると、いくつもいくつも雫が落ちてきた。
手のひらが、濡れていく。
けれども、手が熱い。
意識が、感覚が研ぎ澄まされていく。
音が聞こえなくなるような、景色と離れていくような、不思議で、とても身近な感覚。
雨が、降る。
その音が耳から離れなくなる。
どうしたら、この感覚と感情を覚えておくことができるのかな。
考えるよりも、ただ。
この透明な音をしっかりと聞いておこうと思う。
いつまで、忘れずにいられるだろう?
いつまで、覚えていられるだろう?
雨の匂いも、肌にまとわりつく空気も、言葉にできないせり上がってくるような感情もすべて。
そのすべてを覚えていたいと思うのは欲張りかな。
それでも、ここにいて、忘れたくないと考えている自分を覚えておきたい。
いつかは、忘れる時が来るかもしれない。
忘れてしまうかもしれない。
それでも。
せめて今だけは。
「どうしたら、残しておけるかな?」
見たものすべて。
感じたことすべて。
君の隣にいた私を。
君の笑う顔を見て、それだけで笑顔になってしまう私を。
きっと、君は無理だとは言わない。
馬鹿げているだなんて、笑わない。
落ちてくる雫に歪む光景を見ている横顔は手で触れられるくらい傍にあるのに、何故だか遠い所にいるように感じられる。
「……濡れちゃったね」
ゆっくりと振り返った顔は、私を見てはじめて自分が雨に濡れたことに気づいたかのようだった。
互いに傘も差さずに、雨の降る空を見ていた。
「寿彦もね」
変な感じがする。
手を伸ばせば届く距離。
今なら、しっかりと触れることができるような気がする。
「帰ろうか」
差し出された大きな手。
「うん」
その手に、自分の手を重ねる。
そして、離れないように握った。
握り返してくるその手が、温かかった。
「晴ちゃん」
「何?」
私は呼ばれて寿彦の目を見る。
手から、この想いが伝わればいいと思った。
この、どきどきが。
「ビー玉なんてどうかな?」
その言葉は唐突で。
一瞬何のことを言っているのか判らない。
けれども。
気づいた時に、何かが胸中で広がるような、そんな感じがする。
遅れた分だけ、強く鮮やかに。
その印象は心から離れない。
それなのに、言葉では表せない。
だから、私は聞き返してしまう。
「ビー玉?」
「そう。できれば、ラムネの瓶に入っているものがいいな」
どうして、判るんだろう。
私が覚えておきたいことが、どんなものなのか。
色も形もないのに。
「全部、覚えていたいんだ」
「晴ちゃんは欲張りだね」
もしかしたら。
私が考えていることも伝わっているのかな。
そんな風に考えることは、ずるいか。
でも。
どうしても期待してしまう。
「うん。でも、忘れたくないから」
「写真ではだめなんだろう?」
私は頷く。
色あせてしまうものじゃだめだ。
「他には、おはじきとか……思いつくものすべてじゃ、だめかな」
照れ隠しのように笑うのが、嬉しかった。
「一緒に宝箱を作ろうよ」
「晴ちゃんと?」
「そう。詰め込めるだけ詰め込んで」
いつまでも、覚えていられるように。
大切なものだから詰め込むんじゃなくて。
詰め込みたいのは、思い。
だから、思い出を託そう。
「じゃあ、この雫も」
雨の中で濡れても、悲しくなかった。
冷たくなかった。
それが、不思議で仕方なかった。
「寿彦は、あと何入れる?」
「ビー玉だけだよ。この雫も、晴ちゃんと見に行った花火も、ちゃんとここに映っているから」
「ほんとに?」
「嘘なんて言わないよ」
「ほんとにほんと?」
「うん。大きくなったら、一緒に開けよう」
言葉が、詰まった。
何と言えばいいのか判らなかった。
ただ、嬉しくて。
それをどうすれば伝えられるのか、そればかり考えていた。
「大きくなったらって、いつ?」
心が、急いた。
ずっと、このままではいられない。
ふと、そんなことが頭を過ぎった。
「大人になったら」
笑顔で、言われた。
不安だった。
どうしようもないくらいに。
けれども。
笑った。
まだ詰め込んでもいないけれど、それでも、開ける時に笑っていられるように。
「明日は、晴れるかな?」
「きっと晴れるよ」
手を繋いで。
その繋がりを信じて。
私はこの雫の冷たさを覚えておこう。




