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ザギ 〜囚われの猫〜

作者: Ruiya

「私、何のためにここにいるんだろう…」

ザギは天窓を見上げつつ、そう呟いた…

ザギ 第1章 〜囚われの猫〜


静寂漂うこの空間。そこには1人いたものの沈黙のまま俯いている限りである。薄暗い。そしてある一定の空間内に閉じ込められるようにして、ただただ座っていた。今が一番落ち着ける時かもしれない。そう感じていた。体を見ればどこも傷だらけ。服も粗末なものしか与えられていない。ところどころ破けているものの、もちろんの事新しいものなど配給はない。

〜明日…来なきゃいいのに〜

そう考える自分がいた。明日になればまた始まる。

〜いっその事…逃げちゃおうかな〜

そう考える自分もいた。が、それはできない。と、諦める自分もいることは確かだった。


明日になれば…明日にならなければ…この時間が止まってくれたら…


そんなことを考えつつ、彼女は眠りの中に落ちていった。




「…起きろ。」

凄みのあるしずかな声に、彼女は目を覚ました。

「何?」

「何、じゃねえ。起きろって言ってんだ。」

「まだ早いよ。」

時間を見ればまだ朝の5つ半を少し越した時刻である。いつもなら、だいたい起こされるのは7つちょうどの刻だ。

「今日は特別だ。こい。」

「にゃ…」

彼女は伸びをすると起き上がった。



連れて行かれたのは、施設の最下層に位置する、場所。そこは普段なら、入ることが許されぬ聖域である。が、不定期にそこに入れる日がやってくる。そしてそれが今日なのだ。彼女は諦めていた。いや、正確に言えば何度も諦めようとしていた。が、何故か毎回助かっていた。ここは神殿と呼ばれる場所である。そして神殿では毎回この施設の女性1人が、イケニエとなるのだ。そして、大概の女性はそこで生を終える。が、彼女は違った。イケニエになったものは一昼夜を聖域の真ん中にある、桶の中で過ごす。桶は縦長で棺桶に近い形となる。その中でただ1日、じっとしているだけである。大概は1日後に開けると、そこには誰もいない。が、彼女だけは違う。もうすでに彼女はこの桶に入って13回目になるが、まだ一度も落とされたことがない。



今日はその桶に入る日だ。桶に入る日はやけに早く起こされる。そして、最下層の聖域に行き、聖域の横にあるお湯の溜まったところで体を清める。そして、特有の衣装を身につけて、桶の中に入るのだ。桶の中は人1人入るほどの大きさしかない。そのため、桶に入ってからはそこでただじっとしていることしかできないのだ。



〜何のために…こんなことするのかしら?〜

彼女は心の中でそう感じていた。最初の方はビクビク怯えていたのは確かである。しかし、慣れてしまえばどうってことない。4回目を過ぎた頃からは、逆にラッキーだとさえ思い初めていた。何故なら、その一昼夜は何もせずにただ寝ているだけで良いのだから。しかも、その前には体も洗える。薄汚い服を着せられるのは昔から慣れているが、どうも体毛が汚れるのは好かない。それは女性であれば誰でもそうである。



体を清めるために、湯張へと向かう。そこは一応衝立で遮られているものの、怪しい行動をしないようにと、上から監視カメラが覗いている。これだと衝立の意味はあるのかと、問いたいところではあるのだが、問うたところで無意味であることも認識はしていた。体を清め、独特な衣装を身につける。独特だが、かったるいというほど重かったり、豪勢なものでもない。白い浴衣に近い服をただ着せられるだけだった。

桶に入ると、突き出た耳と尻尾が若干痛い。が、これは何回もの経験の中で、もう慣れたことである。



「神の裁きを…ザギ。」

そう言って蓋を閉められる。

〜ザギって呼ばないでよ…あんたなんかに呼ばれる筋合いなんか…〜

そう思うとふいに目から涙がこぼれる。

ザギは、ザギという名前は父と母が考えに考え抜いた末につけてくれた名前である。そんな名前を施設の奴らなんかに呼ばれたくない。




桶の蓋は完全に閉められた。奴らが聖域から出て行く足音がする。しばらくすると聖域に鍵が書けられた音がした。ここには私以外、誰もいない。それが今では嬉しかった。先ほど流した涙はもう枯れていた。彼女は目を閉じた。




「おい、起きろ。」

また同じ声に起こされた。起きてみると目の前には奴の顔。

「何?」

「お前、毎回それだな。」

「他に言うことがあるかい?

「まあ、確かにそうだが。」

「で、何?」

「起きろっての。終わったぞ。」

「今回は少し早いね。」

「いや、全く同じさ。お前が早く感じたんじゃないか?」

「どうだか。」

彼女は起き上がると、衝立で着替える。

「明日も休ませてくれるんだろう?」

「ああ。そういうことになっている。しかしこれで14回目だな。」

「悪かったねえ。私も私なりに行こうか、としているんだけど。」

「まだその段階じゃねえって言ってるのかもな。」

「うるさいねえ。」

彼女は着替え終わると、さっさと歩き出した。

「おい、送らなくていいのか?」

「もう慣れたさ。後片付けは頼むよ。」

奴に一切の後始末は任せて、彼女は聖域から出て行った。



「ふう。」

部屋に着いた彼女は、冷蔵庫から冷たい水の入った瓶を出すとグラスに注ぎ、それを飲む。乾いていた体が一気に潤っていく。彼女の部屋には天窓があり、そこから月を見渡すことができる。月は、静かに彼女を照らしてくれていた。



…何で私はこんなところにいる?

…私はこんなところにいていいの?

…発端は何だったの?

…私はここから抜け出せないの?

…何で?

…何で?



…何で?



翌朝。天窓が優しく叩かれた微妙な音に彼女は目覚めた。郵便が来たのだ。奴らには内緒の郵便。天窓をそっと開けると、そこには一羽の鷲が手紙を加えて待っていた。

「ご苦労様。」

「お安い御用さ。じゃあ、またな。」

「うん。ありがとう。」

簡単な会話だが、彼女にとっては大切なコミュニケーションであり、唯一心を開いて話すことのできる相手でもある。彼を見送り、天窓を閉めると手紙の送り主を確認する。

「…誰?」

見覚えのない名前だった。住所も聞いたことがない。

「ヴァグロス地方5群3陸2町…こんな地方あったかしら…?」

と不思議に思いつつ、手紙を開けてみる。

すると中には二枚の写真と一枚の小さなメモ用紙状の紙が入っていた。

「なにかしら。」

写真を覗き込むように見る。その写真の一枚は、幼い子供たちが遊んでいる風景が映し出されていた。そして、もう一枚は遠足の写真だろうか。皆リュックを背負い、先生のような大人を先導に山を登る姿が映し出されていた。

「なにこれ…」

興味なさげに二枚の写真を封筒にしまうと、最後に一枚残った小さな紙を拾い上げる。それを見た瞬間、驚いた。



「おい、いるか?」

奴が入ってくる。

「いるさ。というか、あんたたちはノックして立ち止まるっていう習慣はないのかい?」

「この施設にそこまで求めるか?」

「いや。ただ礼儀としての話さ。」

「まあいい。以後気をつけることにしよう。朝食だ。食え。」

「はいはい。いただきますよ。」

「おまえのその態度こそもうちょいどうにかならんものか。」

「ならないねえ。ここにいる以上は、如何あっても変わりないよ。」

「そうか…」



朝食を食べ続ける彼女。それを見守る奴。ふと奴が思い出したように口を開いた。

「ああ、あと報告だ。」

「何だい?」

「今日から働きが今までの5割になる。」

「ほう。それは嬉しいねえ。みんなそうなのかい?」

「いや、お前だけだ。」

「へえ…なぜ?」

「さあな。14回も生き延びたやつなんてそうそういないからじゃないか?」

「まあ、確かにね。」

彼女は相変わらずそっけない態度で答える。

「ごちそうさま。美味しかったよ。」

「そうか。」

「今から一眠りするから起こさないでくれる?」

「ああ。今日1日はゆっくりするがいい。お咎めもないしな。」

そういうと奴はお盆を抱えて出て行った。

「ゆっくりしろと言われてもねえ…寝るくらいしかすることはないよ。」

そう言いつつ彼女は眠りの体制に入っていた。と、そのときふと、彼女の頭の中を一つの記憶の欠片が過った。

〜お母さん…お母さん?〜

暗闇の中でひたすらお母さんを呼ぶ声。そしてそれを発しているのはまちがいなく自分である。

「私…どこでこんなこと思っていたのかしら…。」

ふと口にした瞬間に、その記憶は鮮明さを取り戻した。が、彼女はそれを受け入れなかった。正確に言えば、受け入れられなかった。彼女の気持ちの中は、その記憶の全てを受け入れられるほど、柔和なものではなかった。結果受け入れられないまま、また記憶の片隅として記憶の引き出しに終われてしまうだけだった…



それから目が覚めたのは、5時間後のことだった。時計は12の刻の前を指していた。

あまり動いていない、というか朝食をとってからはここから一歩も動いていない。が、やけにお腹は空いていた。その理由はもう既に知っていた。あの儀式の当事者は知らないうちに体力を奪われる。それがどういう構造でどうなっているのかは、彼女も知らない。もっとも知りたくもないが。そして1日休みをくれるのは、その儀式が終わってから半日から1日はまだその効果(影響と呼んだほうが良いか…)が残っているためでもあるのだ。



「昼食だぞ…おお、もう起きてたのか。」

小声でそっと入ってきた奴。その仕草がなんともまたおかしくて彼女はクスクスと笑う。

「朝までぐっすりだったのに、またそんなに簡単にゆっくりって言われてもねえ。」

「ま、ちげえねえ。」

奴は昼食を彼女のテーブルの前に置く。

「ほら。」

「ああ、どうも。」

彼女はなんとなくそっけない返事を返し、そっと昼食にありついた。

「しっかし、なぜBOSSはこんな私に目をかけるのやら…」

「ん、何か言ったかい?」

奴の独り言に反応する彼女。

彼女の目は奴の顔をきっかりと捉えていた。

「い、いや。別に。」

「そう。」

「なあ、あんたって何か特別な存在なのか?」

しばらくの沈黙のあと、突然の奴からの質問に彼女は食べていたものを吐き出しそうになってむせた。

「ゲホッ…ゲホ…また藪から棒だね。」

「今まで担当になった奴で14回も生き残った奴なんていなかったんだが。」

「悪かったねえ。性格の悪い私に長い間付き合わせて。」

「そういう意味じゃねえ。お前は不思議がられてるんだ。俺だけじゃねえ。他の功労者だって上のものだって皆お前のことを注目しているんだぜ?」

「ふっ、別にしたくてしているわけじゃないさ。ここに来た時の検査で全てが出切っているだろう?別に私は大したことない普通の功労猫さ。」

「そう言われちゃぐうの音もでねえや。」

「ぐう、ぐらい言えるでしょうに。」

「…」

奴はそっぽを向いてしまった。が、彼女には好都合だ。ただでさえ監視が付いている御飯時に監視役から目を背けられるのはなんと心地の良いことだろうと、なんとなく感じていた自分がどこかにいたからでもある。彼女は黙って昼食をとり続けた。



奴が昼食の殻になったお椀をお盆の上に乗せて無言で出て行った後、彼女はベッドから起き上がり、試しに引き戸のドアにそっと手をかけてみる。

「キイイ。」

嫌な音を立ててドアは開く。

「今日は空いてるのね…まあ、今日ぐらいはいいってことかしら。」

彼女は部屋から出ると右側に歩き始めた。右側には、いつもの就労場や共同の食堂、そして共同のトイレなどがある。そこを通り越し、さらに進むと、そこにはこの施設の館長室、そしてその左にこの施設の施設員室が2つある。どの部屋にも4人ずつ寝とまりができ、生活ができるように設計さ_れているため、計16人と館長でこの施設は仕切られているわけだ。ちなみに就労している人数は全部で70〜80程度。その中にもくらいは分けられているが、彼女はもちろんのこと女性であるため、女性にはまた別の区分領域というものが存在した。そして今彼女が属しているのは就労女の中でも最高に近い位である。なぜなら、先ほど施設の職員が述べたように(彼女は奴と呼んでいるが)彼女は儀式の中で最多の14回を生き残ってきた就労女なのである。それまでの最高回数は7回とされてきて、それでも一般の就労女の中からすればものすごい快挙だと言われてきた。それだけに一般の就労女の彼女はすごいを通り越して、気持ち悪い域まで来ていた。話を戻そう。さて、進むと向こう側に館長室が見えてきた。そしてその左右にはこれまた先程述べたように、施設員室が立ち並ぶ。が、彼女はその直前にある左側に折れる廊下を歩いて行った。左側に折れるとそこは就労場で働く人たちの雑居部屋(8〜26人で一緒に寝たり生活をしたりする場)であった。彼女の場合は格が上なため個室が与えられている。しかし、彼女も最初にこの施設にやってきたときは、この部屋で生活していたものだった。その頃はまだ右も左もわからず、ただ闇雲に働かされるだけの生活だった。今はどうかといえば確かにそういう面はあるかもしれないが、それにしてもここでの生き方をだいぶ学んだ方だと思う。もちろんのことそれが外の社会に通用するかといえばそれは別であることはわかっているが。



彼女が歩いていると、後ろから声がかかった。

「ザギさん。」

後ろを振り向くと、そこには1人の女性がいた。ザギに比べると、少し幼い印象を持つ。

「ああ、カノン。どうしたの?」

カノン。彼女はザギと一緒にこの施設に入った。といっても、もともと仲が良かったわけではない。たまたま入る時が重なっただけである。が、それ以来はお互いに関わり合いを持つようになっていた。

「ザギさん、大丈夫でしたか?」

「え?ああ、あれね。」

ザギはふう、とため息をついた後、カノンに笑顔を見せた。

「ええ。おかげさまでなんとか。」

「よ、良かったあ…」

「あら、そんなに心配してくれていたの?」

「だって、あそこに行った女性は帰ってこない方が多いって聞いたから…。」

カノンは多少涙目になりつつ、彼女を安心した目で見る。

「おーい。カノン!まだか?」

「はーい、今行きます!じゃあ、また。ザギさん。」

「ええ。頑張ってね、カノン。」

彼女はカノンを見送ると再び歩き出した。



…カノン、か。いい名前だと思う。私はザギだ。ザギは確かに父さんや母さんが一生懸命考えてくれた名前だ。それはとてもありがたいことだとわかる。しかし、私はなんだか微妙な気持ちだった。ザギというとなんだか硬くてつんけんしたイメージを持つ。名前の文字のどちらにも濁音が付く名前なんてそうそういないだろう。それが子供の頃から嫌だった。結果、こんなつんけんしたような性格になってしまっている。名前は人を変えてしまうのだろうか。とまで思うほどになっていた自分がいることにハッと気づかされた。



また歩き続けると目の前にドアが見えてくる。その先は、この施設の監視室である。ここに来れば、この施設の全てが監視できる。ちなみに、聖域の衝立の影まで監視していたのも、監視室から聖域にあるカメラを通してわかることである。聖域にカメラを置くこと自体どうかと感じるところではあったが。

「さてと…どうしようかねえ。」

いつも、この時間帯は監視員が1人になる。お昼を終えたところで、休憩になるのが監視員の日常であるからだ。今時計は1つと半の刻を指している。ちょうど監視員の1人以外の監視員は部屋に戻り、気持ちよくいびきをかき始めていることだろう。彼女は監視員室の扉をノックする。




「はい。」

返事がする。その声に彼女は安心したようだった。

「ザギ。入るよ。」

そう言ってドアを開ける。

「あれ、ザギさん。どうした…ああ、すみません。昨日聖域に行かれたんですよね。」

「まあ、そういうことさ。」

「で、どうしてここへ?」

「うーん、まあ言ってみれば暇つぶしかしら?」

「暇つぶし…ですか。」

彼は苦笑しながら言う。

「しかし、あなたもこんなことしてて退屈じゃない?ワック。」

「まあ、言って見れば暇ですけどね。でも、与えられた任務だから、ちゃんとやらないとこれなんです。」

そう言って彼は、首を切る仕草をする。

「クビ…かい?」

「クビならまだいいですけどね。前にいた人は本当にひどい目にあわされたらしいですよ。」

「へえ…上も怖いのねえ。」

と言いつつ、彼女はあることに気づいた。

「あれ、あなたの胸のバッヂ。」

「へ?」

「前と色が違うわね。」

「ああ、これですか。」

意味ありげに言う彼に、彼女は笑って言った。

「どうしたのよ。」

「いやあ、実は昨日付けで昇進したんですよ。監視兵から監視軍に。」

監視役の中にも色々な役職があるらしい。

「カンシグン…それって順位で言うとどの位?」

苦笑いを浮かべつつ聞く彼女に、彼は優しく答える。

「そうですね…順位で言うなら監視兵が5位、監視軍は2位くらいでしょうか。」

「へえ。級飛びしたの?」

「ええ、まあ。というか、今監視も人手不足でして5位の上は3位か2位なんですよ。」

「あら、でも3位にならなかったわけじゃない。十分級飛びって言えるわ。」

「そんな…へへ。」

彼は照れたのか顔を赤くして微笑む。その顔がなんとも可愛らしい。もともと彼は幼い頃から監視兵として育てられているため、他の監視兵と比べると歳はダントツに若いのだ。だから、他の監視員と仕事をしていると、たまに歳の差で親子でしているのかとでも思ってしまうほどである。



「ん?」

彼がふと監視カメラのモニターの1つに目を向けた。

「どうしたの?」

「3-Rがおかしいですね…拡大してみます。」

彼はコントロールパネルを操作して及ぶだった映像を広げる。

「あっ、火事だ。」

その瞬間、彼は声を上げた。そう、3-Rのカメラに映っているのは、メラメラと燃え上がる炎だったのだ。



「ちょっ、ちょっとヤバくない?」

「いえ、大丈夫です。」

彼女のあせる様子を落ち着けるように彼は声をかける。

「こちら監視室。スプリンクラーモード作動させます。」

彼は冷静にそう言った後、コントローラーパネルをいじり始めた。すると3-Rカメラに映る炎は見る見る間に小さくなっていった。

「すぴりんくーらーもーどって…何なの?」

「スプリンクラーモードです。火を消すために、天井から水を散布させるシステムですよ。」

そう彼が言っている間にも炎はどんどん小さくなっていき、ほぼ鎮火と同状態となっていた。

「へえ…こんなものがあるのね。」

「ザギさんの部屋にもありますよ。」

「え?そうなの?」

ザギは珍しく驚いた顔を見せた。奴の前では驚く顔はおろか、微笑むことすらしない彼女がここまで感情を露わにするのは相当のことである。ザギは感じていた。ワックと共にいると、自然に感情が出せる。奴には出したくないと強く願ったせいか、奴の前では全く感情が湧き起こらない。そしてそれをずっと続けてきたので、逆に今感情を起こせと言われても無理だと思う。が、ワックは別だ。そういえばカノンもそうである、と気づく。



「お、ザギさんじゃないか。」

監視室のドアを開けて入ってきたのは、監視員の1人である、ガクだ。

「ああ、ガク。」

「聞いたよ。また聖域から蘇ったんだって?」

ガクの言葉に苦笑するザギ。

「蘇ったって…私はただ聖域に行って帰ってきた。それだけよ。」

「へえ…俺も一回行ってみたいものだ。カメラ越しで見るんじゃよくわからないことも多いし。」

「あんなところ行ったって何もないさ。」

「そうなのか?」

「ああ。聖域って言ってもただ地下にある空間よ。何もない中に箱が置いてあってそこに入って1日過ごすだけ。まあ、私の場合は寝ているけどね。」

「す、すごいな。さすが修羅場をくぐり抜けただけのことはある。」

「修羅場…ね。」

彼女は俯向く。ガクはそれを気にしたのかワックに話題を移す。

「ところで、ワック。さっきの放送はなんだったんだ?」

「はい、カメラ3-R地点より火災が発生したためにスプリンクラーモードに切り替えました。」

「ああ、なるほどな…あの辺は出やすいからな。」

「ええ。今月に入ってもう3度目ですよ。」

その言葉に若干の反応を見せる彼女。

「そんなに頻繁に起こることなの?」

「ええ、ここは…はっ。」

ワックはガクの視線に気づき、口をつぐむ。

「ここは…何?」

「ここは火山地帯なんだ。合金と冷房施設でなんとか保っているけど、たまに冷房が壊れたりすると、こうなることがある。」

「へえ…確かにここ、ガルダ山脈のザブ山の奥地だしね。」

「そうそう…って、え?」

彼女の言葉にガクは呆然とする。

「…どうしたの?」

「な、なんでここが…そこだってわかったの?」

「今あなたが言ったじゃない。火山地帯って。」

「確かに言ったけど…なんでここがそうだってわかったんだ?」

「ああ、そういうこと。」

彼女はニヤッと微笑んで言った。

「簡単なことよ。私がこの施設に入った時からわかっていたわ。」

「そうか…運ばれてきたときに見たんだな…。」

「いいえ。」

彼女のはっきりとした否定に若干面喰らうガク。

「私は幌付きのトラックに運ばれてきたの。だから外は見えなかった。」

「じゃ、じゃあ、どうやって。」

「だから簡単なことよ。私がトラックに乗ってから着くまでに要した時間は約4日。何回か停車していたようだけど、ほぼ夜通しで動いていたわ。トラックの進む速さは最高で80(*こちらの世界ではの話です。実際は異なります。)でしょ?途中で止まっていた時間は約1日に2時間程度。減速もしていたから平均として50。それに22をかけさらに4をかければどのくらい進んだのか理解できるわ。」

「おいおい…こりゃ見事だぜ。」

「でも、この辺には火山地帯なんていくつもありますよ?」

確かにワックの言う通り、この辺りには火山帯が連なっており、大きく分けて3つの火山があった。しかし、彼女はその山さえ適確に言い当てたのだ。

「それも簡単よ。部屋の匂いを嗅げばすぐにわかるわ。」

「部屋の…匂い?」

「そう。3つの山は確かに近い位置にあるけど、そこから出る鉱物は全く異なるわ。ザブ山は硫黄が多く産出されるけど、他の2つの山は硫黄は検出されていない。で、部屋の中に若干硫黄くさい感じがあったから、ここはガルダ山脈のザブ山の奥深くってこと。」

「…空いた口が塞がらないな。」

「物凄い洞察力ですね。」

ワックもガクも驚きを隠せないようだ。

「さて、そろそろ部屋に戻ろうかしら。」

彼女はワックとガクに別れの言葉を述べると、監視室を後にした。



「おい。」

廊下を歩いていると後ろから、またしても声をかけられた。振り向くと、そこには奴がいた。

「どこに行っていた?」

「別に。どこでもいいでしょう?」

「俺は外室許可をした覚えはないぞ。」

「部屋のドアは開いていたけれど?」

彼女の言葉にぎくっとする奴。

「ほ、本当か?」

「ええ。誰かさんが閉め忘れたみたいね。」

そう言って奴の方をニヤッっと睨む。奴はため息をついて言った。

「…見なかったことにしてやる。その代わり…」

「誰にも言うな、でしょ?」

彼女は茶目っ気を含ませて彼に持ちかける。

「あ、ああ。よくわかったな。」

「そりゃあ…ねえ?」

彼女は奴をつつくと、部屋の方へてくてくと歩いて行った。

「ったく…油断のかけらもねえな。」



「ふう…」

部屋に入り、ベッドの上に座ると、彼女はため息をついた。さすがに出過ぎた。そう、感じた。もう大丈夫だと思って外に出たが、まだ体は完全に対応していなかったようだった。ベッドに体を半ば倒れるように横たえ、目を閉じる。するといくらか楽になった。やはり、あの儀式には何かが、ある。あの儀式はただ寝ているだけでいなくなったり、いてもとても力を吸い込まれるような感じがする。以前にはそれで完全に理性を失い精神が壊れてしまった人や、それまでは軽く元気だったのに帰ってくると激しい落ち込みと疑念にかられて亡くなった人もいた。そのくらい、あの場所は恐ろしいものなのだ。彼女でさえ、力を吸い取られる感じは嫌という程わかっていた。すでに14回も経験した彼女だからこそ言えることだった。

〜なんで…あんなことするのかしら…

以前、奴にそのことを問うたことがあった。が奴ですら、その意味は知らないようだった。最初は惚けているのかと思っていたが、奴の反応は本当に何も知らないようだった。

〜マスターは命のことを考えないお方なのかしら…

普通生命を大切に思うならこんなことをするはずはない。亡くなってもいい命なんてこの世の中にあるはずないのに。

〜もはや宗教ね…

命を大切にせず、信仰に任せてイケニエを、などという。まさに宗教である。しかも、相当荒派閥の系統の。いなくなった人を供養したり悼んだりするならまだしもその様子すら全くない

〜なんて恐ろしいのかしら…

自分はたまたま生き残っている。皆がなくなったり、精神崩壊を導く場所に何度も入り、そして生き残っている。今のところ多少疲れるくらいで、翌日は普通に働いていた。それが逆に怖かった。自分はいつか死ぬ。死ぬのが怖くないなんて人はこの世にいるはずがない。ましてや母親や父親から授けられた命を徒らに無駄にするなんてこと、できるわけがない…

彼女はそう考えながら眠りについていた。



「おい、おい。大丈夫か?」

奴の声に目が覚める。

「…なんだい…朝っぱらから騒がしいわね…」

彼女はそっと起き上がろうとする。が、なぜか体に力が入らずフラフラとしてしまう。おまけに頭痛がものすごい勢いで押し寄せた。頭痛とフラフラ感から、彼女は半ば倒れるようにして、ベッドへと押し付けられた。

「やっぱり、今日は無理か。」

奴はそう言って、彼女に同意を求めようとする。

「…昨日…出過ぎたかい…?」

「いや。別に部屋を出て歩き回るくらいなら、全く問題はない。きっと一昨日のは強力だったんだろう。」

「…強…い…」

彼女は問おうとするが、それさえ苦しい状態に陥っていた。

「無理するな。上には俺が言っておく。」

彼女はなんとか頷く。今できることといえば、そのくらいしかなかった。それしか出来なかった。

「よく休めよ。無理することはない。」

そう言って奴は部屋から出て行った。ドアを閉める音でさえ、頭にガンと衝撃を与える。静かになったその部屋で、やっと平安を取り戻すことができた。

〜こんなこと…初めてだわ〜

こんなに頭痛がひどくなることなんてなかった。あんなに起き上がれないほどフラフラしたこともなかった。

今まではどうってことはないと思っていた。が、今回は違うようだった。ところで、と彼女は考える。奴が言っていたことはどういう意味なのだろうか。

〜きっと一昨日のは強力だったんだろう〜

強力だった?しかも一昨日のは?じゃあ、今までのは何?もしかして調節できたりするわけ?彼女の頭の中には、その考えが何気なしに浮かんでいた。

が、それ以上考える事は無理だった。彼女の体力的にも、そして実際にも。考えたところで何1つわかるわけがない。その考えにたどり着いた時、彼女は考えるのをやめた。


最初からわかっていたことではあったが。



翌日。奴はそっと彼女の部屋の扉を開けた。彼女は昨日すごい熱を出し、昼も夜もごはんを欲しがらず、ただただ寝ているだけだった。あんなすごい熱を出しているのなら、1日で治る確率は皆無に等しい。今までの経験からそう言える。中にはやはりまだ眠っている彼女がいた。氷枕を昨日の夜に変えたが、どうやら全て溶けきっているようだ。氷枕を変えようと、氷嚢をつっている棒に手を伸ばし、氷嚢を取った時だ。彼女が目をゆっくりと開けた。

「…なんだい?こんな朝から忍び込みなんて…」

彼女がそういうので奴はすぐに手を引っ込めた。彼女はゆっくりとベッドの上に起き上がる。

「ふう…」

「どうだ、熱は。」

「だいぶ良くなったさ。でも、まだ完璧じゃないねえ。頭痛がするよ。」

奴は彼女の答えにびっくりした。いつもこんなのあっさりと答えてくれるものではないのだが…病気となると素直になってしまうのだろうか。

「今日もゆっくり休むといい。」

「…働かなくていいのかい?」

「その状態じゃあ無理だろう。昨日上と掛け合ってみたが、快く了承してくれた。完全に快方するまでゆっくり休めってな。」

「じゃあ、その間あんたは暇ね。」

「…痛いとこつくな。まあ、その通りなんだが。」

「ふふふ、あんたも相当お疲れの様子じゃないか。ゆっくり休みなよ。」

そういうと彼女は再び寝る体制に戻って、目を閉じた。

「氷嚢、変えるぞ。」

奴の言葉に彼女は小さく頷いた。ふと奴は、その彼女の小さな頷き方がかわいいと思ってしまった。が、すぐにそれを振り払った。

〜ダメだ。俺はただの監視員の1人だ。あくまで冷静に、だ。〜

彼はヒョイっと氷嚢をとると、部屋を後にした。



彼女は夢の中でこんなことを思い出していた…



「お母さん?」

「あんた…あんたなんか…」

「お母さん?」

泣いている母がいる。意味もわからずに、寄り添う自分がいた。

「…あんたなんか…産まなければよかった…。」

母の言うことを考えれば、相当酷いだろう。が、当時の彼女にはその意味がわからず、首をかしげるばかりである。それから時が少し流れて、彼女はこの施設にやって来た。母は狂って自動車事故で亡くなった。父はそれを見かねて逃亡し行方不明。それが本当のことなのかすらわからない。が、なぜかそういうイメージが彼女の頭の中に張り付いていた。もしそれが本当でないのなら、今の彼女はここにはいない…が、彼女は母を、狂死した母を、そしてそれを見かねて逃げ出した父を、絶対に許さない。そういった感情が彼女の頭の中に浮かんで離れずにいた…




—「あら、今日ザギさんは?」

「ザギさんは今日もお休みらしいです。どうやら昨日からひどい熱が出たらしくて。」

「あら。そう…大丈夫かしら?」

「私も心配なのですが…さすがに部屋を訪れるわけにもいきませんから。」

「それもそうよね…。」

「こら。話している余裕があるならこっちを手伝え。」

「はーい。」

「今行きます。」

彼女を心配する声がそこらここらで聞こえる。当の本人は、ベッドの上で苦しそうにしながら寝ていた。



「…。」

目を開けてみて、やっとそれが夢であることに気づいた。

「…ふう…夢…だったのね。」

起き上がると、大量の汗をかいていた。

まだ若干の頭痛はするものの、朝方に奴が訪ねてきた時よりもだいぶ楽になった。近くには替えのシーツと、着替えが置いてあった。本来ならシーツの交換は二週に一回、服の交換は13日に一回のはずなのだが、前にシーツを替えたのは、6日前。服に至っては、4日前に変えたばかりなのだが…。

「あいつ…なかなかやるじゃない。」

彼女は先に着替えを済まし、シーツを変えると、汚れた着替えとシーツを一まとめにして所定の位置に置き、再びベッドに身を横たえた。やはり新しい着替えやシーツは気持ちいいものである。彼女は再び眠りの渦にのまれた。



彼女はなぜこんなに眠れるのであろうか。

それは、あの儀式の時に相当の体力を消費しているからである。



「どうだ、調子は。」

夜。奴は仕事が終わってから彼女の部屋を訪れていた。

「まあまあ、ってとこね。」

「そうか…。」

2人はしばらく無言のまま、時は流れる。

奴がおもむろに口を開いた。

「1人、いなくなった。」

「え?」

奴の言葉の意味がわからずに、彼女は問う。が、その問いに対し言葉が出た瞬間にその答えがわかった。わかってしまった。

「そう…はやくない?」

彼女は1つ不思議に思ったことがあった。それは、あまりにもそれが早すぎたことだった。前述だが、それは一か月毎に不定期で行われるはずである。彼女がそれを行ってからまだ、3日足らず。そう考えると、やはり早すぎる。

「いや、そっちじゃない。」

「へ?」

彼女は眼を奴に向けた。奴はふうとため息に似た息を吐く。

「労働現場で足場が崩れてな。1人亡くなった。後の3人は重軽傷だ。」

「なんだ…それならそうとはやく言ってよね。」

「別に俺は亡くなったとは言ったが、あの儀式で亡くなったとは言ってないぞ。」

「あんな雰囲気で言われちゃあ、誰だってそう思うさ。」

「どうだかな。だが1人亡くなったことに変わりはない。」

「まあね…。」

再び2人の沈黙の時間が続く。その沈黙を静かに破ったのは今度は彼女だった。

「今回のは強力、ってのはどういう意味だい?」

「は?…ああ。あのことか。」

「ええ。」

「あのことは…まあ、いいか。」

「誑かそうとしてもムダだよ。」

「今話す。少し勘違いしているようだな。俺の言い方が間違っていたことは謝る。」

「と、いうと?」

「今回のは強力、っていうと、じゃあ今までのはどうだったんだ、って話になるよな。」

奴は彼女に確認をとるように、こちらを向く。彼女は頷いた。

「それは勘違いだ。今回は強力だったか、っていうのはあの儀式がどうこうって話じゃない。ザギ自信が強力だったってことさ。」

「私自身が…かい?」

「ああ。本来、この世に生まれたものは全て霊力というものを持っている。この儀式はそれを吸い取ることにある。」

「霊力…ねえ。そんなことをして何になるのかい?」

「さあな。」

奴は急に切ない答えを返してきたので、逆に質問していた彼女が面食らってしまった。

「さあな、って、どういうこと?」

「それは俺にも知らされていないんだ。俺は単なる監視兵の一員でしかないからな。上にも何回かそのことで掛け合ってみたが、断固拒否の一点張りだった。」

「そう…。」

彼女は一旦食いついたその心を収める。

「霊力の無くなった人は生きていけない。それはザギにもわかるだろう。」

「ええ。」

「あの儀式でなくなる奴は、だいたい霊力を吸い取られて、霊力がなくなってしまうんだろうな。」

「なるほどねえ…。霊力を吸い尽くされた人は体を残さないっていうあの噂は本当だったわけだ。」

「まあ、そういうことになるな。」

「じゃあ、私の霊力が強力すぎて14回目を迎えた今でもまだ残っているというのかい?」

「いや、違う。」

奴は一息おいて再び話し出す。「

霊力というのは先程も言った通り、吸い切ってなくなってしなえば、そこで人間はおしまいだ。が、ザギ。お前は違う。」

「違う?なにが?」

「ザギは極限まで霊力を吸われても、その霊力を復活させる力を持っている。」

「復活?」

「ああ。極限状態になっても、使い切るまではいかない。ギリギリの状態を自身の体の中で保っている。」

「それで今はその回復の時ってわけかい。」

「そういうことだな。」

「じゃあ、今回は強力だったっていうのは…?」

「今回はザギの霊力が強すぎたんだな。あちら側も驚いただろうに。吸えきれなくて、あちら側がミスを起こした。それが、今回の結果につながったってことじゃないのか…?」

「疑問形で終わりかい?」

「そうだな。全てを知らされていない今、予測するしかないだろう。」

「あんたはどこまで知らされてるわけ?」

「ザギ、いい加減そのあんたって呼び方どうにかならないか?」

「どうにかしろったって、あんた名前を教えてくれたことないじゃないか。」

「え?そうだったか?」

「この施設に来てからあんたの名前なんか聞いたことないね。」

「そうか…そういえばそうだったかもしれないな。俺の名前はラグナ。」

「ラグナ?呼びにくい名前だね…やっぱしあんたでいいや。」

そう言って彼女はニヤッと微笑む。奴、ことラグナはふうとため息をつくと、別れの言葉を残して、部屋を後にした。



〜奴は全てを知っているわけじゃない…〜

彼女もふう、とため息を吐く。

〜全てを知っている上は一体何を考えているのかしら?〜

少なくとも私を大事にしていることはわかる。仕事を半減してくれたり、個室を与えてくれたり、休みを惜しみなく与えてくれたり…。だが、それが、それ自体が、彼女の心の孤独感をさらに増していることを彼女自身も気づかずにいた。

〜私…何のためにここにいるのカナ…

ふと思う。そんなこと今までに何回、何十回と繰り返し考えてきたことではある。何十回考えたところで出た答えはただ1つ。


わからない、それだけ。




「ザギはどうだ。」

「はっ、監視員の報告によりますと、快方に向かっているそうです。ただ、まだ万全ではないようですが。」

「そうか…やはり強力だったようだな。」

「ええ。こちら側としても判断を見誤ったようです。」

「あいつがそこまでの力を持っているようには到底見えなかったんだが。」

「ですが、実際の儀式の回数と体力の回復の経過から行くと、彼女は相当の力の持ち主ですよ。」

「ふっ…あいつが生き残ればわが団の女どもが死なずに済むのだ。それだけでもありがたいさ。」

「時に彼女をこれからどうするおつもりでしょうか?」

「そうだな…回復し次第再び業務にあたらせればいい。ただし、あいつにも伝えたが、業務は今までの半分の量だ。」

「ええ。そのことはもうすでに彼女にも伝わっているようです。」

「ならいい。」

「では、私はこれで。」

「ああ。」

彼は深々と礼をし、部屋から出た。完全に扉が閉まった後、彼はため息に近い息をついた。

「ふう…BOSSも何に期待を抱いておられるのだか…」

最近のBOSSは何かに執着しているように見える。それが何なのかはわからない。が、何かに執着していることは確かである。以前までは何となくそっけない返事を返していただけだったのだが、今は異なる。この段で働く者たちによく目を配るようになった。彼女の仕事が半分になる、というのもその部類に入るだろう。この団には監視軍というものが駐在しているが、彼らのもっぱらの仕事はあくまでサボっている奴がいないかを見張ること、または警備のためである。誰がどんな仕事をしていたとしてもそれは彼らにとってさほど関係のないことなのである。この団の最高管理者はもちろんのことBOSS。そのため、BOSSの部屋にも監視カメラの映像が流れるようになっていた。BOSSの主な仕事は引いて言えば団の統制をとることである。それがこの監視カメラの映像をチェックすることによって、わかるのである。以前はあまり見もしなかったカメラの映像であるが、最近は全く異なる反応を示している。

〜いったい何をお考えなのだろうか…〜

わからない。BOSSの意図が。BOSSは何を考えているのかが、まったくわからない。が、何かが動き出すのだろうということは、直感でわかるような気がした。



翌日。昨日のだるさが嘘のように回復した彼女は早速労働場へと出ていた。奴はいちおうもう1日大事を取ったほうがいいんじゃないかと進めたが,彼女はそれを聞かずに労働場へと出て行ってしまった。仕事を半分に減らされたのは嬉しいが、仕事をしないと仕事場で一生懸命になって働いている人たちに顔向けができない。それに、自分自身働いていることで生き生きしているという面もある。この施設の理念には納得などする気もさらさらないが、仕事場で働き汗を流すことの気持ちよさはこの施設に入ってから教わったことでもある。だから一応感謝はしているつもりだった。ちなみに、今彼女がしている仕事は、分類すれば肉体労働に当たる。今この施設は、人数に対する分の部屋が足りていない。そのため、施設を拡張しなければならない。彼女は施設を拡張しているその現場で指揮を取りつつ、たまに来る岩などを重機を使って砕いたり退けたりを繰り返していた。岩、と聞いておかしく思うかもしれないが、実はこの施設自体が山肌にそびえ立つ崖の中に作られているのだ。そして施設を拡張する場合、崖を奥の方に掘り進む以外に方法はないのだ。

「ザギさん、この岩お願いします!」

「OK。ちょっと待ってて。」

彼女は一旦指示の手を止めると重機に乗り、岩を砕きにかかる。そんなことが続く。そしてBOSSの指示通り、ザギの仕事時間は今までの半分なので、午前中か午後のどちらかに出れば良い。

「そろそろあがりかしら?」

「お疲れ様です。あとは俺がやっときますよ。」

彼女の代行として今日から指示をする彼ははきはきとしたものの喋り方で、顔形も良い。

「ああ、頼んだよ。」

彼女も彼の業績を見てきた1人であり、彼を認めている1人でもある。彼女は更衣室には入り、作業服から普段の私服(施設から提供されたもの)に着替えると、廊下へと出た。普段なら、皆のいる食堂へ行くところである。が、彼女の場合は異なる。

彼女の場合は、すでに昼食が部屋に運び込まれているのだ。それは施設長が気を利かせてしてくれていることだった。嬉しいことだとは思いながらも、かえってそれが彼女の孤独感を増すことも、彼女自身が分かっていた。が、施設長の好意で行っていることだから、それを嫌というわけにも行かなかった。お互いの微妙なずれが、彼女の孤独を生み出していた。



仕事は半分になり、午前か午後かどちらかは自由。今日の場合で言えば、午前中を働いたので、午後からは自由だ。だが、完璧な自由というわけではない。まず部屋からの出入りはトイレを除いて禁止されている。たまに、奴が鍵をかけ忘れて前のように、出られることはあるがそれはほんのたまにで、ごく稀な出来事である。回数で言えば一ヶ月に一回あるかないかだった。基本部屋の中にいなければいけない。言ってみれば単に拘束されているだけだ。部屋の中ですることもなく退屈だった。部屋の中でできることはだいぶ限られている。今までは午前も午後もギリギリの時間まで働いてこの部屋に帰っていたため、この部屋ですることといえば寝るくらいしかなかった。今までこんなにゆっくりと部屋を見渡したことはなかった。見渡すと意外と綺麗な部屋だと思った。施設長の気遣いなのかは知らないが、壁面にはレースをもようした壁紙が一面に貼られている。

「ふう…。」

彼女はため息をつくとベッドから立ち上がり冷蔵庫から水の入った瓶を取り出し、近くにあった小さなテーブルの上に置いてあるお盆の上からコップを取ると、水を汲みちびちびとそれを飲み始める。飲み終わる頃には瓶の中の水が少し常温に近づいていた。彼女はまた冷蔵庫にその瓶をしまうとコップを専用のケースの中に入れる。このケースはどこの部屋にも付いており、最下層に位置する洗い場へと到達する。そして毎日洗われたコップが逆にそのケースの隣にあるケースへと戻ってくるのだ。つまりケースは2つあることになる。彼女はベッドに座るとふと考え込んだような姿勢を見せる。

〜施設長の本当の狙いって何なのかしら?〜

ふとそのことを考えていた。彼女はここが施設であって施設で無いことを何となく感づいていた。施設だけで終わらない何かがここにはある、と。何というのはまだはっきりしない。この辺りの他の施設で、例の儀式のようなものがある施設なんて今までに聞いたことが無い。それに監視役が独立して存在している施設なんていうのも聞いたことは無い。ということはこの施設だけ監視しなければいけない意図があるとしか考えらえない。元論ここが火山地帯で監視していないとこの間のように火事になっているところを見つけられない。が、それだけでは終わらない気もしている。どこもかしこも、監視カメラと監視役の人たちがうろついている。まるでここは罪人を捕らえる牢獄の如しだ。

「何か、がわかればいいんだけど…。」

もちろんの事、ここにいるだけでは何のこともわからない。だが、外に出て行けば監視役が見張っている。奴だって一応監視役の一員であるし、ワックやガクだってそうである。他にもこの施設には常時7〜8人の監視役が辺りをうろついているため出たくても出られない。この前はたまたま休日の1日だったため監視役も少なかったのである。

「トントン。」

考え込んでいた彼女。突如のドアのノックに驚き、今まで考えていたことをうっかり忘れてしまいそうだった。

「ザギ、入っても大丈夫か。」

奴の声だった。

「え?ああ、いいよ。」

ザギはそう言いつつふと思い出した。

〜奴は入ってくるときノックなんてしなかったはず…学んだのかしら?〜

奴が顔をのぞかせた。


「ザギ、お呼びだ。」

「え?誰が?」

「施設長様だ。」

「施設長が?私を?」

彼女の問いに奴は頷く。

「至急来いとの話だとさ。」

「へえ…珍しいじゃないか。」

「何が。」

「施設長がわざわざ一介の働き手の私を個人指名で呼びつけるなんてさ。」

「まあ、確かにな。だが、事実なことは確かだ。」

「わかったよ。今行くわ。」

ザギは重い体を起こすと、奴を追うように歩き出した。



施設長の部屋はこの施設の最下層に位置する。そのため、そこに行くには専用のエレベーターで下っていかなければならない。そしてなぜかそのエレベーターの場所は上役にしか知らされていない。監視役にも知っている人と知らない人がいた。奴はもちろんの事知るはずは無い。では奴はどこまで彼女を連れて行くのか。彼女自身もそれをわかっていながら、黙って奴について行く。しばらく廊下を歩くと、廊下の壁にもたれかかり、立っている人が見えてきた。その人が誰かわかった瞬間に彼女の顔が引きつった。彼は彼女にとっては一番会いたく無い相手だった。

「よお、久しぶりだな。」

奴が声をかけた。すると、壁にもたれかかって目を閉じていた彼はそっと目を開いて奴の方を見る。

「おう…お前か。」

ゆっくりと凄みのある低い声で答える彼。そっと体を壁から話すと改めて奴の方を見る。

「どうした?」

「彼女を連れてBOSSの部屋まで行って欲しい。」

「彼女?ああ、ザギか。」

彼はザギを確認すると頷いた。

「承知した。引き受けるとしよう。ザギ、行くぞ。」

「はいはい。」

ザギは面倒臭そうに彼について行った。

「終わったらまた呼んでくれ。」

「ああ。」

彼とザギを見送ると奴は帰って行った。




ザギと彼は無言のまま歩き続けていた。お互いに話しかけようともしないので、ただただ無言の時間が続く。廊下には重たい空気が張り詰め始めていた。

「そういえばザギ、お前、14回目だっけか。」

ふと彼が口を開く。ザギはそっと頷いた。

「ああ。そうだよ。」

無愛想だが、一応返事はする。

「さすがだな。施設長に呼ばれるだけのことはある。」

「あんた、何か知ってんのかい?」

「ん?」

「私が施設長に呼び出された理由を。」

彼女の問いに彼は首を振る。

「いや。俺なんかにわかるわけがねえ。」

「あんた、直属の部下なんだろう?」

「直属だからなんでも知っているというわけでは無い。」

「そう…。」

当たり前のことを聞いた、と彼女は心の中で思った。私だってこの施設に入ってもう何年も経つし、新しく入ってきた人から見れば年長者でエキスパートに見えるだろう。それなのにこの施設の構造すらまだつかめていない自分がいる。まあ、それはここで働かされている労働者なら誰でも一緒であるが。

「着いたぞ。ここだ。」

彼が案内してくれたところはなんだか不気味な扉の前だった。以前施設長のところに来た時はこんな感じではなかった気がするのだが…。まるで廃墟の中の扉のように不気味な扉の前に彼は立つと、そっと扉越しに声をかけた。

「施設長様、ザギを連れてまいりました。」

「おお、m 入れ。」

中から少し年老いた声が聞こえる。この声こそ、この施設の創設者であり、自らがその施設を経営している、施設長本人の声である

「失礼いたします。」

彼はそっと扉に手をかけると扉を静かに開けた。が、その扉は相当古いものらしい。

静かに開こうとしてもキイイという錆びた金属が軋む音が2人の耳を劈く。ザギに至ってはあまり聞きなれない嫌な音に、鳥肌が立ってしまった。

「さあ、ザギ。入りなさい。」

「あれ、あなたはいかないのかい?」

「今施設長はザギをお呼びだ。俺が入ったってしょうがないだろう。」

彼はザギに目配せをする。

「確かに。その通りかもね。」

ザギも若干茶目っ気を含ませていうと、前を向いたまま彼に軽く手を振って、施設長の部屋の中へ入っていった。



「来たか。ザギ。」

「施設長、何かお呼びで?」

ザギは施設長の部屋に入り、施設長の机の前に立つ。施設長は椅子に座っており、ザギを見上げる形となる。施設長はもうすでに人間の歳でいうと70近い。そのため、体毛は少しずつ白くなり始めていた。

「ザギ、これを。」

そう言って施設長は机の引き出しの中から、何かを取り出し、ザギに渡した。それは、ネックレスだった。

「これを、私に?」

ザギが問うと施設長はゆっくりと頷く。

「それはお前の勲章じゃ。」

「勲章?」

「ああ。神聖な聖域に14回も入ったものは、今までに類を見ないもの。その勲章じゃ。」

「へえ…ありがとう、ございます。」

彼女はそれをまじまじと眺める。小さなキラキラとしたものが細かく彫刻されていて、ザギはそれを美しいと感じた。(^^)

「でも、なぜ?」

彼女は改めて施設長に問う。

「ん?何がじゃ?」

「今まで私に見向きもしなかったじゃない。」

彼女の質問に施設長はふう、と溜息をつく。

「やはりそう思うか。」

施設長の何か含みのありそうな言葉にザギは黙って次の言葉を目線で求める。施設長もそれを汲み取って、口を開いた。

「ザギ。それは母親のものじゃ。」

その言葉にザギはキョトンとする。

「母親って…施設長の母親のものをもらっても…」

ザギは少し困惑しつつ、そのネックレスを返そうとする。すると施設長は笑みを浮かべて言う。

「わしの母のものを渡してどうするんじゃ。それはお前さんのじゃよ。」

施設長の言葉の意味が一瞬わからなくなる。が、その言葉の意味が解けた時、彼女は驚いた。

「これって…も、もしかして…私のお母さんのものなの?」

彼女は驚きを隠せないまま、施設長へと問う。施設長は静かに頷いて口を開いた。

「そうじゃ。それは間違いなくお前の母君のものじゃよ。」

「な、なぜ…なぜ施設長がこれを…?」

「ザギ。今まで秘密にしておったが、そろそろ潮時じゃろう。話さねばなるまい。そこに掛けなさい。」

施設長はそう言って椅子を用意してくれた。




「ふう…」

部屋で溜息をつく彼女。ベッドに横になり、目を覆い隠すように腕を目の前に置く。彼女の隣にはネックレスが置かれていた。あの後。施設長が椅子を用意してくれ、自分はそこに掛け、施設長からの話を聞いていた-


「ザギ、お前のご両親も実はここで働く功労者だったのじゃ。」

「お父さんも…お母さんも?」

施設長はうむ、と頷く。その目は真剣そのもので嘘をついているようには到底見えなかった。

「なぜ…」

「お前さんはどのようなものがここに来るかわかっておるか。」

彼女は素直に首を横に振る。それを見て施設長は頷く。

「ふむ。まずはそこから話さなければいけないようじゃな。」

施設長は咳払いをするとザギをしっかと見据えた。

「ここには実を言うと貧困層の者たちが集まっている。あまりに貧困なために、普通の生活が危うい者じゃ。そして、ザギ。お前の両親もその中の1人だったのじゃ。」

「つまり…私のお父さんとお母さんはここに雇われていたというわけですか…?」

「ふむ。そういうことになるのお。」

「そう…だったんですね。」

「もともとザギはこの施設内で生まれたんじゃ。じゃが、ここで小さい頃から育児をするのはちと無理がある。だからザギを両親の父方の兄に任せようという話になったのじゃ。」

「それってもしかしてダンおじさんのことですか?」

「おお、覚えておったか。その通りじゃよ。だが、ダン殿も病気で亡くなられてしまった。その場にザギもいたがそれは?」

「ええ。覚えています。あの時の私には、ダンおじさんに何が起こったのか…わかりませんでしたけど。」

「無理もないことじゃ。あの頃まだザギは幼かったからのお。」

「でも、それからの記憶がはっきりしません。私はどこで、どうしていたのか…。施設長ならわかりますか?」

「ふむ、ザギはダン殿が亡くなられた後、しばらく行方をくらましていたのじゃよ。」

「私が、ですか?」

施設長は頷きさらに述べた。

「そうじゃのう、約2ヶ月間、どこを探してもいなかったようじゃ。ところが、2ヶ月と半後に突然ひょっこりと顔をあらわしてのお。」

「それでこの施設に保護された…?」

施設長は頷く。

「その通りじゃ。その後はこの施設にずっと滞在し続けておる。今でもそうじゃろう。」

ザギは意外なことを聞かされ、頭の中が混乱していまいちわからないままでいた。それを見かねた施設長は、ザギにこう述べる。

「ザギ、少し休むといい。全てを知った上でそれを使いこなして生きることは大事じゃが、大変に難しいことでもあるのじゃ。」

「はい。」

「それを整理する時間が今のザギには必要じゃろうて。」

「…はい。」



ザギは部屋の中で必死に頭の中に思い浮かぶことを整理しようとしていた。

「私…どうしちゃったのかしら…」

2ヶ月と半にもよる失踪。そしてひょっこりと顔を出したという。詳しいことまでは教えてくれなかった。施設長もこの施設で働くすべての人たちを管理しなければいけないわけだから、それもと以前といえば当然の答えであることはザギ自身もよく理解している。そして、失踪していたのがまぎれもなく自分のままであることも…。だが、どんなに思い出そうとしても記憶の中に靄がかかっていて、思い出すどころか、その記憶全てが飛んでいるように、断片すら記憶の中に見つからない。ただ、それ以前のことで1つだけ思い出していることはあった。数日前に見たあの夢。

お母さんを探していたあの夢。

きっとあれは、ダンおじさんに引き取られた後に感じていた夢…もしくはダンおじさんが亡くなった後に感じていた夢なのだろう。なんだか心の中に隙間風が吹いたように感じた。

施設長の話だと父も母もこの施設の改築、増築に貢献し、どちらも老いによって安らかに旅立ったらしい。そして母は、亡くなる直前に自分がしていたネックレスを外すと、施設長に渡してこう言ったらしい。

「私の娘…ザギが…大きくなったら…これを…」

そう言い終えたとき、彼女はすでに亡くなっていたのだという。

「お父さん…お母さん…」

気づけば自分は涙を流していた。ベッドのシーツで一生懸命涙を拭くが、涙が次から次へと溢れて止まらない。父への思い、母への思い。普段の自分はそんなもの消し去ったかのように振舞ってきた。しかし、実際は異なっていた。今更ながら、父や母の温もりを懐かしく感じる自分がいた。それがもう味わえないこともどこかで気づいてはいたが。


トントン。

ドアがノックされる。が、返事はない。奴だ。奴が夕食を持ってきたのである。

「あれ…おーい、入るぞ。」

奴はそっとドアを開ける。彼女は…寝ていた。奴はふう、と溜息をつく。

「なんだ、また寝ていたのか。」

忍び足で彼女の部屋に入ると夕食を近くのテーブルにそっと置いた。そして何気なく彼女をを見たとき、あることに気づく。彼女の目に涙が浮かんでいた。そしてそれが流れた跡が彼女の顔にうかがえる。さらに、顔の下のベッドのシーツの一部が濡れていた。

「ザギ…」

彼は言葉を失う。彼女は寂しさなど感じさせない人だった。今までに泣いたことはおろか、悲しいという感情を表に出したことすら一度たりともないのだ。だが、彼女の様子からすると、泣いていたことは間違いない。きっと泣き疲れて眠ってしまったのだろうと推測された。

「ザギ…お前もやっぱり…寂しかったんだな。」

奴はなんだかザギをとても身近な存在に感じていた。ザギをしばらく見つめていた奴は、ふと思い立ったようにどこからか小さな紙切れとペンを取り出し、すらすらっと何かを書くと夕食のお盆の上にそれを置く。そして、足早にザギの部屋を出て行った。



「ザギ、こっちにおいでよ。」

誰かがザギを呼ぶ。温かいぬくもりを感じる声だった。

「うん。」

返事をする自分がいた。なんの迷いもなく。そしてその声の元に駆け寄っていく。それがどこの誰であるかはわからない。が、抱きしめられ、抱っこされて笑っている自分がいる。

「あははは…」

その屈託のない笑いがなぜか自分に突き刺さった。

〜これ…私なのかな…〜

ふと思う。

〜これ…私なの…カナ…〜

自分ではない気もする。

〜これ…ワタシ…〜

もしかしたらこれが本当の自分なのか…

と思った瞬間に目が覚めた。


ひどい汗をかいていた。よっぽど心の中で思いつめていた自分がいたのだろう。

そう思えるくらいの量だった。汗を拭き、再びベッドの上で何気なく時を過ごす。時間を見ればもう10の刻を過ぎる頃だ。きっともう皆は自室に下がって就寝の準備を始めている頃だろう。ふと何気無しに机の上を見ると夕食が置いてあった。

「奴…いつの間に置いて行ったのかしら。」

全く気づかなかった。気づくことができないほどに、私は寝ていたということを改めて自覚した。お腹は減っていた。きっと夢の中ででも体力は消費していた。果たしてあの記憶が自分のものかどうなのか。夢から覚めると大抵忘れてしまう彼女であったが、そのことだけはやけに鮮明に記憶の中に書き残されていた。もし本人がその記憶を消したいと思っても消えないほどに。なんだかそれが妙な気分だった。彼女はなんとなく晴れない気分のまま夕食のお盆の乗ったテーブルをベッドに引き寄せる。そして夕食を食べようとした時、ひらっと何かが一枚舞い、それが彼女の軽く構えた手の上に落ちた。

「何かしら…」

いつもはこんなものなかったはずだ。不思議に思った彼女はその紙を裏返してみる。そこに書かれた文字を見て、彼女は驚いた。そしてしばらくその紙を見つめていたが、その目からはいつの間にかまた涙が流れていた。

「奴ったら…もう…」

彼女は泣いた。本当に泣いた。誰のためでもなく、もちろん自分のためでもなく、ただただ泣いた。涙は次から次へと溢れ、なかなか止まらなかった。

そこに書かれた文字。

「あんまり無理するな Lagna」

彼女の今までのさみしさが一気にこみ上げた瞬間だった。そしてその悲しみが少しずつ癒されていくきっかけともなった。




翌朝。奴がザギの部屋に朝食を運ぶ。

トントン。

ドアをノックするとザギからの返事があった。

「はい。」

「ラグナだ。入ってもいいか?」

「ええ。」

その声に少し驚くラグナ。

〜なんか…今までと違うな…〜

ラグナはそう感じつつ、ドアを開ける。そこにはザギの姿があった。ザギはもう起きていて、椅子に腰掛け、窓から外を見ていた。

「おはよう、ラグナ。」

「お、おう。おはよう。ザギ。…て、え?!」

ラグナは驚いた。

「なんだい?そんな驚いた顔して。」

ザギは小さく笑う。

「あ、いや、今まで奴、だったからさ。」

「奴?ああ、そうだったね。そっちのほうがいいかい?」

まさかの選択を迫られ、ラグナは動揺する。

「い、いや、俺はどちらでもいいが…」

ラグナはザギを見るが、その視線はどちらかの選択を待つものであった。ラグナは迷った挙句、口を開く。

「俺的には…名前で呼んでもらったほうが嬉しい。」

いつもは若干高圧的な態度の彼が、まるで恥ずかしがっている子猫のように返事をする格好は面白いの他に言うことがない。が、ザギは頷いて言う。

「そうかい。じゃあ、ラグナで。」

「お、おう。」

2人は今までの距離感と今の距離感が全く違うことに気づいていた。そして気づいていながらも、それが嫌だとはお互いに思わなかった。



そして。彼女は朝食をすませるとまたいつも通り仕事場へと向かった。その顔は、いつも以上に明るい彼女だった。

















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