さらわれたヒロイン
「じゃあ取ってくるわね」
そう言ってリンドウが奥の部屋に向かう。
いい宿だと思った。それも全て主人の人柄がなせる技だろう。
「でも、何で他の客がいないんだろう」
アルがそう疑問を抱いた、その時だ。
ーーコンコン。
ノックの音がした。どうやら誰か来たらしいが、リンドウが戻ってくる様子はない。
「出た方がいい、のかな」
待たせるのも悪いだろうと判断してアルは入口に近づいた。
扉を開けると、途端に生臭さが鼻につく。錆びた臭いと黴びた臭い。その不快さに思わず顔をしかめる。
「あ、ごめんなさい」
アルは目の前に立っていた男に謝罪する。ノックをした者が扉の向こうにいるのは当然だが、今のアルの所作は「男を見て顔をしかめた」と取られても仕方がないだろう。
「天気、悪いですねー」
取り繕うように話しかけながら、アルはちらりと男を一瞥する。ひょろりと長い体、土色の肌。黒い目玉に浮かぶ血の瞳。不健康という言葉が服を着て歩いているようなひとだった。
だが男はアルの行動には関心がないようで。
にこりと。
笑顔を浮かべた。
「どうも。招いてくれてありがとう」
真っ赤な口を見せながら、男はアルにそう告げた。
瞬間、アルの脳裏に疑問が浮かぶ。
ーー何故この男は外を出歩いている?
霧が出ているときは、吸血領主に遭う可能性があると聞いた。この町の人間ーー武器も持ち歩いていないことからの推測だーーがそれを知らないとは考えにくい。
そこから導き出される答えは、「吸血領主に襲われる心配がない」ということだ。「血を吸われる心配がない」ということだ。そして、今彼が口にした言葉から推測される答えは一つ。
つまり、こいつは。彼は。この男はーー!
思わず腰のベルトに伸ばした手が空を切る。武器はそう、リンドウに預けてしまっていた。
男が一歩、足を踏み出す。思わず一歩後ずさるアル。
もう一歩。男は全身を宿屋に入り込ませていた。
「だめぇ!」
リンドウだ。姿を現した宿屋の主はがアルを庇うように双方の間に割って入る。
アルが目を見開いた瞬間、男の顔がぐにゃりと歪んだ。そのまま男は体を霧散させ、彼女たちを連れ去ってしまった。




