#1 まだきみの来ない朝
百舌野沙良の朝は早い。
普段から父親が経営する喫茶店の仕込みの手伝いをしているうちにクセがついたのかもしれないし、あるいは彼女自身の性分なのかもしれないが、それにしても、その日は普段以上に早く目が覚めた。
いつもなら一階にあるお店に顔を出して父の手伝いをするところだが、今日はお店が休業日なので、日課がいつもよりひとつ少ない。
沙良は早々に朝食と学校に行く支度を済ませると、もうひとつの日課を済ませることにした。
「晴くん、朝だよー」
二階にある自室の窓から身を乗り出して、隣の家の幼馴染を呼ぶ。
都心からほど近い沙良の自宅周りは、住宅が身を寄せ合うように密集していて、隣家の晴の部屋は沙良の部屋の窓からすぐそこにあった。
奇しくも互いの部屋の窓が向かい合う間取りだったので、わざわざ相手の家の玄関先まで行かなくても、声はよく届く。
「晴くーん、おーい」
「ぐぅ……」
部屋の窓は閉まっていたが、カーテンは不用心にも開けっ放しで、そこからぐっすり寝こける晴の姿が見えた。
どんな夢を見ているのやら、あどけない顔はつきたてのお餅みたいにとろんと弛み、口元から涎が垂れている。
パジャマはちゃんと着ているが、毛布もかけずに床に寝転び、携帯ゲーム機を抱えて寝息をかいている恰好は、なんともだらしない。
「晴くんってば、夏だからって床で寝て……ったくもー」
梅雨も明けて七月、日差しの強くなってくる季節とはいえ、朝はまだ涼しい。
風邪をひきやしないかと心配しながら、沙良はひときわ大きな声を出した。
「こらー! 晴くーん!」
ようやく晴のまぶたが薄く開き、大きくあくびをして起き上がると、眠たそうな目をこすりながら窓を開けた。
「おふぁよー、さっひゃん」
「おはよう、晴くん……って、目ぇ真っ赤だよ」
晴のあいさつがあくび交じりで舌も回っていないのはいつものことだったが、今日は加えて目が赤く腫れていた。
「また遅くまでゲームしてたの?」
「うん、先週出たばっかの新作。ほら、コレ」
晴が取り出して見せたのは、真新しいゲームソフトのパッケージ。表紙のイラストでは凶暴そうなドラゴンに鎧姿の勇者が挑もうとしていて、話の流れはなんとなく想像できた。
ただ、世界観はひどくカオスだった。勇者は右手がレーザー銃だし、ドラゴンは体の腐敗したゾンビだし、背景にはUFO群が浮かんでいるしで、見た者の理解を遠ざける。ファンタジーなのかサイバーパンクなのかスペースオペラなのか。
そこにタイトルが『ドラゴ○クエスト』なんて題されていては、ゲームに疎い沙良でも、ちょっと待てと言いたくなった。
「……晴くんさ、何でいつもパチモンゲーム買ってくるの? 好きなの?」
「えー、いつもじゃないよ。本家の新作出るまでの繋ぎに買ってるだけで」
類似品なのは承知の上らしい。
「でも今回はダークホースだったよ。ゲームバランスが絶妙で、地上と宇宙の戦況がリアルタイムで連動してくるから気が抜けないし、ストーリーが変化するから二週目のやり甲斐あるし。グラフィックも次世代機だから文句なし、花マルあげちゃう!」
しかもけっこうやり込んでるらしい。
沙良からすればRPGではないらしいことが一番の驚きどころだったが。
「エンディングなんて苦労の末にたどり着くから、本当に……か、感動で……ううう」
唐突に晴の目が潤みだして、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれだす。
「あううう……」
「ちょ、どしたの晴くん」
「え、エンディング思い出したら……あうぅ」
滝のような勢いで大仰に涙を流す晴に、沙良は呆れ顔で嘆息した。
なにかしらストーリーのあるゲームをクリアすると、いつもこうだ。お世辞にも独創的とは言えない、ベタでお涙頂戴のお話でも、晴は毎度の如く大泣きする。
使い古した筋書でさえ生まれて初めて見たもののように感動できる感受性は、あるいは尊ばれるべきなのかもしれないが、長い付き合いの沙良からすれば、いつまで経っても幼さが抜けていないのだと言えた。
「晴くんてホント泣き虫だよねぇ」
「だってー、ホントにいいお話だったんだよ、ラストの展開なんてずっと泣かせにかかってきてたし……」
「はいはい、わかったわかった。それよりホラ、早く支度して。また遅刻するよ」
「平気だよー、今日はいつもより早めに起きれたし、ちょっとくらい」
起きられたのは沙良が起こしてくれたからだが。まだ時間に余裕があったことで、さっきまでの涙がウソのようにあっけらかんと笑う晴へ、沙良は厳しい眼差しを向ける。
「そういうこと言ってるから遅刻常習犯なんだよ。……ていうか、人に起こしてもらっといてグズグズしないの」
「さ、さっちゃん顔コワイ……」
「いいからさっさとする!」
「ひゃい!」
沙良に凄まれた晴は、どたばたと慌ただしく階下に駆け下りていった。その忙しない音は隣家からでも聞こえきて、やれやれと嘆息する。
「先に外で待ってるからねー、遅れずに来るんだよー」
「はぁーい!」
元気だけはよい返事を聞いていると、れっきとした同い年なのに、まるで弟でもできたような気分になった。
小さな頃からどこか抜けている晴を見かねて世話を焼くようになっていったが、気づけば沙良が保護者役をするのが当たり前の状態で、いつの間にか本当に姉弟のようになってしまっている。というか実際、ご近所さんにそう間違えられたこともある。
沙良としては好ましくない状態だ。同い年の弟分の面倒を見るのも、いい加減に卒業したい。
「もうちょっと、しっかりして欲しいなぁ……」
嘆息しつつ、鏡で服装と髪型の最終チェックをしてから、時計を再確認。晴ではないが、よほどのことがなければ遅刻するようなことにはならない時間だ。
普段から朝を慌ただしく過ごすことが多かった沙良には、今朝みたいに余裕のある朝は貴重で、ちょっぴり嬉しかったりする。
たまにはゆっくりした朝もいいな、なんてこと思いながら、沙良は鼻歌を口ずさんで部屋を出た。
この時の油断がなければ、二人そろって過去一番の大遅刻をして先生から大目玉を食らうことはなかったかもしれないが、居間でうっかり二度寝を始めた晴と、まだそれに気づいていない沙良には、知る由もないことだった。