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透明化する動機(後)

目を覚ますと、そこは見慣れた空間だった。僕が数年間住んでいる馴染み深い部屋……いつの間にか僕は自分のアパートに戻っていたようだった。

いつの間にか、と表現したのだが記憶が混濁していて頭がうまく働かない。前後の記憶がはっきりしない。

何が、あったのだっけ……

記憶の糸を辿りたかったが、しかし残念なことにそれを妨げる障害が存在した。

「あ、観凪さん起きられましたね」

「う~な。ようやく起きたか」

頭上からひまわりの声、そして少し遠くから紅糸さんの声が聞こえた。

ん?頭上?

ひまわりの声がやけに近くに感じる。音でしか判断していないので、確かなことはわからないが、目と鼻の先程度の近くから声がしたように感じたのだ。

それに僕がいつも使用している枕と、今僕が頭を押しつけている枕は感触が全く違った。

どちらも柔らかいことには変わりはないのだけれど、今頭を押しつけている枕のほうが心地よい。柔らかさが丁度いいし、暖かくて安らぐのだ。

…………暖かい?

もやがかかったような、いつもより思考が愚鈍な僕であったが、今の状況がなんとなく、そしてようやく推測がついた。

僕は自分の推測が正しいことを証明すべく、頭を九十度上に向けた。つまり天井を仰ぎ観る体勢になった。

けれど僕の視界に飛び込んできたのは見慣れた天井などではなく、橙灘ひまわりの顔だった。

リアル兎顔を被っていないひまわりは、そりゃもう可愛いのだけど、僕が心臓が飛び出るんじゃないかってほど驚いたのには変わらない。

現状を説明すると、ひまわりは僕に膝枕をしていた、以上。おまけを言うと、何故だか紅糸さんがそれを恨めしそうに眺めていた。

「よかったです。お目覚めになられて」

優しく微笑むひまわり。

うわ!何だこれ!何だこの状況!?

すっごい幸せじゃないか?今の僕。

未だかつてこれほどまでの恍惚感を味わったことがあるだろうか?否!ない!

あ~、起きあがらなければならないのは頭で理解しているのだが、身体がそれを激しく拒否する。

よくわからないが、こんな機会はまだないのでしばらくはこのままでいよう。

「いつまで膝枕されているんだ、ミナギン。目が覚めたならさっさと起きあがったらどうだ?」

紅糸さんのその声は異常というまでに静かで落ち着いたものであった。

静かで落ち着いたものであるはずなのだが、その言葉に呪詛にも近いものを感じた僕は、反射的に起きあがった。

「もうちょっとお休みになられていても結構でしたのに」

「いや、どういうわけか生命の危険を感じたから……」

「?」

空気を読むスキルが皆無であるひまわりには、今の紅糸さんの呪詛を感じ取ることが出来なかったらしい。

知らない方が幸せだということは確かにあるのだと実感した。

「まったく。ミナギンはいつまで気絶しているつもりなんだ。おかげでこちらはかなり心配したんだぞ!」

「気絶?僕が?いったい何で?」

ひまわりに膝枕をされていたって、僕の記憶の混濁はまだ回復していなかった。

「覚えていないんですか?治癒のショックで記憶喪失になってしまわれたのでしょうか?」

治癒のショック?

はて、誰を治療したのだっけ?

今日一日の出来事を最初から順に辿ってみる。

まず朝、紅糸さんがいなかった。おそらく昨日のパズルゲームの敗戦を引きずって拗ねているのだろうと考察。

その後学校で識桜に怒られ諭されて、紅糸さんと仲直り。

そして日和さんがやって来て……

そこまで思い出したところで、その後の情景がフラッシュバックのように浮かんだ。

「!!日和さんは!?」

「うな。安心しろ。命に別状はない。まだ気を失ったままだがな」

紅糸さんの視線の先には横たわる日和さんの姿があった。

ほとんど動かないが、たまに呼吸により胸が上下するところをみると、紅糸さんの言うように一命は取り留めたようだ。

よかった。

今度は間に合った。

今度は助けることが出来た。

しかし安心したのも束の間、日和さんの様子を詳しく視察したところで、僕は固まってしまった。

「……あの、紅糸さん。どうして日和さんは縛られているんでしょうか?」

「うな?暴れられたら面倒だからだ。私の『紬糸』で手足の自由を奪わせてもらった」

日和さんの衝動的な行動も思い出していたので紅糸さんの言うことは理にかなっていて詮のないことだとはわかるのだが、だからといってこの

僕の部屋に縛られている女性がいるというこの状況は客観的にみてよろしいものではないように思える。

「しかし……日和さんはどうして空におそい……」

「あ、それひまわりと話し合ったから、いちいちここでその話を展開させなくてもいいぞ」

とてもひどく、そして容赦なく僕の話は中断された。

いや、紅糸さんとひまわりはその会話を繰り広げたのかもしれないが、僕は何も聞いていないんだけれど……

と、抗議しても無駄だろう。

「それで、紅糸さんとひまわりが出したその問いに対する答えは何なの?」

「うな。考えても仕方がないことだから、日和さん本人に聞き出すしかないなという結論に至った」

……まあ確かにそれは間違いなく真理ではあるのけれど、考えの放棄ともいえるのではないか?

「しかし、十中八九答えは出ているのだがな」

「答え出ているの?」

「あぁ、おそらく」

「復讐だろうさ」

紅糸さんの代わりに回答したのは、僕でもひまわりでもなくそして勿論日和さんでもない。

この部屋にいる最後の一人にして一番のキーパーソン。澄渡空であった。

空も日和さん同様に『紬糸』の能力によって縛り上げられていた。

しかしそのレベルは日和さんのものの比ではない。手足は当然のこと更には胴体と腕まで赤い糸によってぐるぐる巻きにされており、犯罪者が縛り上げられているが如くの状態であった。

そんな状態の空であったが、本人は至って普通でケロリとしていた。縛られている状態が何も問題ないかのように。

空は相当なマゾヒストだというから、縛られ慣れているのだろうか?とか適当なことを考えてみる。

だが、今優先して考えるべき事はそんなどうでもいいことではない。

「復讐って……日和さんが?空に?どうして?二人は昨日初めて会ったんだろう?」

「あぁ、昨日が初対面だ。こんな奴、俺の記憶の中に存在しない」

「昨日初めて会って、どうして今日、空は日和さんに復讐されるのさ?」

昨日、空は日和さんに対して復讐されるほど酷いことをしたか?

いや、僕の覚えている範囲ではしていない。

それどころか、全くと言っても過言ではないほどに、空と日和さんは接触しなかったはずだ。

空が日和さんに復讐される理由がどこにある?

「何だぁ?本当に記憶喪失になっているのか?それとも俺らの会話が聞こえていなかっただけか?」

「……どういうこと?」

俺らの会話、というのは空と日和さんとの会話のことだ。

どうやら僕らが興味本位で彼らの行動を観測していたのは、空にとってはバレバレだったようだ。

そりゃ、まあ、あんな変人のグループがいたらおかしいと思うのは当然で、しかも知人がそのような行動をとりそうだという心当たりがあれば、必然わかってしまうものだろう。

ともあれ、空と日和さんの会話か……

二人は何を話していたっけ?

日和さんを治療し、その痛みを体験したショックからか、記憶の整理はまだ追いついていない。

何か、重要なことを二人は話し合っていなかったっけ?

「空さんと日和さんの会話については私も疑問があります」

そう言って、ひまわりは空を睨んだ。

何を問いただすのかわからないが、鋭い眼光が空をいぬいていた。

緊迫した空気が周囲を包む。

「『あっい』って何ですか?」

「今それ聞くこと!?」

ひまわりの空気の読めなささに、思わずこけてしまった。

すげえな。ひまわり。

このシリアスな空気を物ともせず、自分の酷くどうでもいい疑問をぶつけることなどそう出来ることではない。

「あ?何だ『あっい』って?全然お前の言っていることがわかんねえんだけど」

「私たちは確かに空さんたちを監視という名目の覗き見をしていたんですけれど、ちょっと距離が遠くて声までは拾えなかったんです。そこで私の読唇術で会話を読み解いていたんですけれど……」

「相変わらず吃驚な特技をもっているな、ひまわりは」

「読み違いがいくつかあったようで会話の辻褄が合わない部分がいくつかあったのです。読み違いをそのままにしているのは非常に気持ちが悪いので、その解答を頂きたいのです」

「いや、まあ、ひまわりの言いたいことは理解したが、読み違いした単語だけ俺に提示されてもわからんのだが」

読み違いはひまわりが勝手に起こしただけで、空と日和さんはあくまでも普通に会話していただけなのだから、勝手に読み違いした『あっい』が何なのか空がわかるわけがないのであった。

「あっ、では私が唇を読んだ結果を空さんにお伝えしますね」

いや、そんなことよりも僕の疑問の方が重要度は高いのではないのだろうか?と、思っても口に出せないのが僕のパーソナリティーであった。

弱い人間なのだ。僕ってやつは。

「……………」

一連のひまわりの読唇術の結果を聞き、空の口はへの字に閉じた。

心なしか、眉間に皺が寄っているようにも見える。

「……『あっい』よりも先に言っておきたいことがある」

「何でしょうか?」

「俺はオタクじゃねえよ!」

「え?どうしたんですか、空さん?いきなり大声をあげて。もしかして他にも読みが間違っていたところがありましたか?」

「ありましたか?じゃねえよ!先に気づけよ!真っ先にその読みがおかしいと思えよ!何だよ!『オタクはいい』って!俺のどこをどうみたらオタクをリスペクトするような人間に見えるというんだよ!欠片ほどもないだろうが!オタク色は!お前等、どんな目で俺を見ているんだよ!?」

思っていた以上に空が怒った!

いや、僕もそこはおかしいとは思ったよ。だって突然のオタク尊敬発言だもの。

けれども、他の可能性にたどり着くだけの時間がなかったから、詮なくそこに行き着いてしまったという僕の心情も空には理解してもらいたいな。という発言も今の空には恐ろしすぎて言うことが出来ない僕だった。

結局、ひまわりへのツッコミ以降、全く口を開くことが出来なかった。

「『オタクはいい』、じゃなかったのですか?」

「全然違う!御託だよ!ゴ!タ!ク!『御託はいい』って言ったんだ!そこの日和とか言う奴は、口調は丁寧な……いや変な語尾つけてるから丁寧って言えるのか?まぁ、ともかくそれは普通なんだがよ、でも俺にぶつけてくる気持ちはそれとは全く相反するものだったぜ」

「成る程。『オタク』じゃなくて『御託』だったのですね」

「『あっい』は『殺気だ』。『おたくからは殺気しか感じないぜ』が正しい」

「そこはオタクなんですね」

「オタクじゃねえよ!あ、いや、そこはおたくなんだけども……いや、でもオタクじゃなくてだなぁ、その相手を示すおたくであって、断じてオタクではないんだ。わかるか?」

「わかりません」

「わかれよ!」

いや、空さん。あなたの説明想像以上に伝わりませんよ。

言いたいことは何となくはわかるのだが、オタクおたく連呼されても途中でどっちのおたくかわからなくなってしまうのだ。

さて、ひまわりの読唇術の間違い探しも終わったようなので、ここからが本題だ。

「空……どうして君が日和さんに命を狙われるんだ?」

「あぁ。そっちが本題だったっけか?しかしひまわりの読唇術でそこら辺も聞いていたんじゃねえのか?うん?でも今聞いたひまわりの読唇術の一連の結果には『フェンリル』の話は含まれていなかったな。つまりそこは読唇術出来なかったってことか?」

『フェンリル』?

その単語で靄のかかっている記憶が少しだけ鮮明になった。

「いえ、その下りも読唇術しました。今言わなかったのは、私の疑問に至る部分がそこにはなかったからです」

「となると、こいつの単なる記憶喪失か。しかし今のを聞いて思い出したんじゃねえか?」

「『フェンリル』と空が、どういう関係があるのさ?」

本当は、本当はもう粗方の結論が僕の中で出ていた。

記憶はまだ完璧に戻っていない。

結論に達するピースはまだ揃っていない。

それだというのに、わかってしまった。

他人を観測しつづけてきた僕には、わかりたくなくてもわかってしまった。

「能力者によって構成された日本最大の犯罪組織『フェンリル』。その全ての構成員を殺したのはこの俺だ。故に、そいつが俺の命を狙う理由は復讐だろうよ。身内の誰かでも『フェンリル』にいたんじゃねえか?」

何の悪びれもなく、普段の会話のような様子で、空は僕にそう告げた。


思い出した。全ての喫茶店での流れを、僕は思いだした。

思い出してしまえば、逆に何故今までそれを思い出せなかったのか甚だ疑問であった。

こんな重要なことを、痛みのショックとはいえ忘却してしまうなど僕の頭は大丈夫なのかと自分で自分の心配もしてしまった。

とはいえ、喫茶店のことを全て思い出した僕であってが、新たな疑問が沸いてきた。

「空が、一人で『フェンリル』を潰したの?」

「そうだ」

「だって、噂ではその時の『正義』のメンバー七人でやったって」

「それはあくまでも噂だろ?ブラフなんだよ、その噂。実際は俺一人でやった」

僕は視線を空から外し、ひまわりに向けた。

それはひまわりへの「そのことが本当か」という無言の問いかけであり、珍しくそれがわかったひまわりは静かに頷いた。

「空が……一人で?」

「だから、そうだって言っているだろうが。伊達や酔狂で『世界脅威』になっているわけじゃねえんだぜ。『蒐集家』が強すぎる理由から『世界脅威』に認められているように、俺は大きすぎる力を持つが故『世界脅威』に認められているんだ」

そうだ。すっかり忘れていたが、空は『世界脅威』として世界から危険視されているのだ。

その理由について大して考えずに空に接してきた僕であったが、そういう理由があったなんて。

澄渡空……『天断』の澄渡空。

そこまで強い力を有していたなんて……

いや、力の強さなんて、本当はどうでもいい。

問題はそんなことではないんだ。

「空……これから僕がする質問はもしかすると多くの人からされてきた質問かもしれない」

「あぁ?そんな質問に俺、答えたくねえんだが」

「それでも答えてもらいたい。僕はもっと空のことを知っておくべきだったんだ?」

「はん。いつになく真面目じゃねえか。いいぜ。その多くの人からされてきたかもしれない質問を俺にぶつけてみろよ」

「空は何故『フェンリル』の構成員を殺したんだ?」

きっと、それは、多くの人から、空に問いかけられてきた、質問であった。

「あぁ?そんな質問、特に多くの人間からされてこなかったぞ」

あれ?されてなかった。

おかしい。僕のような真人間であれば、それは当然気になるところだと思うのだけれど。

「せいぜい、『正義』にいた頃に風雲から言われたぐらいだな」

風雲さんは真人間であった。

初対面の人間(僕)をいきなりからかったくせに、その実は真人間であった。

「それと風雲さんは口を酸っぱくして『空が一人でフェンリルを潰したことは他言無用だからな』と言っていましたから。噂程度でも流れていないと思います。故に空さんは今まであまりその質問をされてこなかったのではないでしょうか」

とひまわりが説明した。

確かに噂では空ではなく、『正義』のメンバー七人がそれを実行したこととされている。

うん?それならば何故日和さんは、その知り得ない情報を知り得たのだろうか?

まぁ、今はそんなことを考えているときではない。

「空、どうしてだ?」

「どうしても何も、なぁ。例えばだがよ、もしそこにゴキブリがカサカサとうろついていたとする」

「何ぃ、ど、どこだぁ!!」

紅糸さんが首を右往左往させながら、というかかなり狼狽しながらそれを探した。

ちなみに、この部屋はマンションの高層階で、更には部屋は割ときれいにしているからその黒い悪魔をここで見たことは今までなかった。

「だから、例え話だって言ってるだろう」

「紛らわしいこと言うな!本気で吃驚しただろう!」

理不尽な怒りを空にぶつける紅糸さんだった。

一方の空は紅糸さんのその様子に慣れたものなのか、そんな紅糸さんの態度にもどこ吹く風であった。

「で、話を戻すが、目の前にゴキブリがカサカサしていたとする。お前等、どうする?」

「新聞紙か何かを丸めてバン、かな?」

と、普通の答えを僕。

「『でっかいパンチ』でバン、だな!」

と、非常に攻撃的な答えを紅糸さん。いや、そんなことをされたらここの床が抜けてしまうのでやめてもらいたいのだが。

「『雷華』の能力を使用して全力で逃げますね」

と、最悪に逃げ腰の答えがひまわり。

まったく役に立たない自称メイドであった。

「そうだろうさ。俺の答えも似たり寄ったりだ」

「全力で逃げ出すのか?見た目と反してチキンなんだな」

「そっちじゃねえよ!俺の性格を考察すればわかるだろうがよ!紅糸と観凪と同じ答えだっていうことだよ!」

「何ぃ!?空も『でっかいパンチ』が使えるということか!?」

「そうじゃねえよ!こいつめんどくせぇ!いちいちわからせるために説明しなくちゃいけねえのかよ!めんどくせぇ野郎だな、おい!」

「私は女だから野郎は当てはまらないが?」

「本当に面倒な奴だな!」

それに関しては僕も空の意見に賛成である。

紅糸さんとひまわりはとても面倒な相手であった。同じ苦労をわかりあえる人間が存在するということはとても嬉しいことのように思えるのだが、何故だか素直によろこべないのは謎であった。

「紅糸と観凪と同じように駆除するっていうことだよ。勿論俺は『紬糸』を使えないから『天断』を使って駆除するがな」

「空も能力を使ってゴキブリ退治をするのか?」

たかだかゴキブリに能力を使うなんて、大げさではないだろうか?

またそこまで嫌われるゴキブリという存在は、人類にとってそこまでの敵なのだろうか?

世界脅威である空達と比べ、どちらのほうが世界にとって敵対しなければならない存在なのだろうか?

……と、考えかけたところで思考が脱線しかけたことに気づき慌てて修正する。

「ゴキブリが退治されるべき存在であることはわかった。でもそれとフェンリルの構成員を殺したのと何の関係があるのさ?」

「だから、理由を知りたかったんだろ?フェンリルを絶滅させた」

「そうだよ」

「だから、それが理由だ」

それが理由だというが、まったく話が繋がらない。

ゴキブリが存在するから、フェンリルを殺す?

そんな論理展開存在していいはずがない。

「おっかしいな。わかりやすく説明したつもりなんだが……つまりだな、害虫がいたらお前等は駆除するだろ?」

「うん。まあするだろうけど。………!」

突然、「はっ!」と空の言いたいことを僕は理解した。

理解したくはなかったが、わかってしまった。

しかしそれはあまりにも思考が人間とはかけ離れていて、むしろ化け物に近くて……

「俺はただ、フェンリルという害虫を駆除しただけだ」

僕は空に背筋が凍るほどの恐怖を覚えた。

空は人を人と見ていなかった。


「……何故、空は人間をそんな目で見れるんだ」

愚問かもしれないが、僕は空にそう尋ねた。

人間と虫は違う。

違うものであるのに、空はそれの重さに区別を付けていなかった。

「何故?何故って同じ命だろう?地球上の全ての生物は皆命を持つかけがえのない存在、だろ?だが、それが害悪なら駆除する。徹底的なまでに絶滅させる。そうやって人間はこれまで生きてきたんじゃねえの?だったら世界にとって害悪だったフェンリルを駆除しても別に問題ねえだろ」

「……空は人の痛みがわからないの?」

空の言い分は正論であるが正論ではない。

人間と虫は、同じ命を持っているものだけれど、違う存在だ。

僕らは虫の痛みは理解できない。

けれど、人の痛みは理解できる。

痛いだろう、苦しいだろうと相手の痛みを感じることができる。

実際に痛みはないが、想像することができる。

だから人は人を傷つけるという行為を躊躇するのだけれど、空には人の痛みがわからないのだろうか?

そんな僕の思いも虚しく、空は当然とばかりに答えた。

「そんなもんわかるわけないだろう」

「……」

「あぁ?何でそんな顔するんだ?わけわかんねえ奴だな。だってそうだろう?ここでたとえお前が怪我をしたとしても、その痛みは俺には伝わらない。一切わからない」

「それはそうだろうけれど、『痛いだろうな』とか思うだろ?」

「残念だが……」

そしておどけるように空は言った。

「俺は『痛い』っていう感覚がいまいちわからん」

「は?」

『痛い』という感覚がわからない?

何だ?それは?無痛症とかいうやつだろうか?

「いや、空は別に無痛症というやつではない」

「当然のように僕の心を見透かして返答するのはいい加減やめてもらいたいと思っていたけれど、今回に限っては話がスムーズに進みそうだから黙認させてもらうよ」

「全然黙認しているやつの台詞じゃないけどな」

「無痛症でないというならば、空の『痛い』という感覚がわからないという発言は一体何なのさ」

「無痛症などではなく、単純に空は今まで痛みというものをほとんど体験してこなかっただけだ」

「痛みを体験してこなかった?」

しれっと言う紅糸さんだが、十代中頃の人間が今まで痛みを体験してこなかったなどというのは不可能に近い。

人間誰かに叩かれれば痛みを感じるし、転んだって痛みを感じる。

何か身体に強い刺激が加われば痛いと感じる。

痛みを感じない生活をする方が難しいと言えるほど、痛みというものは日常生活に肉薄しているものなのだ。

敢えてもう一度言おう。痛みを感じることなく生きていくなど不可能に近い。

但し、例外はある。

新たなる能力だ。

もし特異な、それこそ絶対的な、それでいて自動的な防御能力を有していたのならば、そしてそれを破るものが今まで現れなかったというのならば、それは不可能ではない。

「ミナギンの考察の通りだ」

紅糸さんが懲りずに僕の心中を察して発言したが、今回は完璧に無視。

「空の能力で厄介なのものは主に二つ。空間を切り裂く絶対的攻撃力と全ての攻撃を無効化する空気の壁を作る絶対防御力。攻撃のほうは腕を振るだけで発動し、防御の方は自動的に空を護るようになっている。威力の高い攻撃の場合はクッションのように柔らかい空気の壁を作成し、威力の低い攻撃だった場合はカウンターにもなるように堅い壁を作成するんだ。私は今まで空が攻撃を受けたところを見たことがない」

日和さんの腕が突然折れたのは固い壁があるとはわからずに手加減なしに空に向かっていったからか。

絶対的な攻撃力と絶対的な防御力を持つ、空の『天断』。

空が今まで痛みというものを意識出来なかった理由はわかったのだけれど、何故だろうか?全然、まったく、納得が出来ない。

腑に落ちないのだ。

理由ははっきりしているのだが、あまりにも場の空気が張りつめていてそれを進言するなんて気の小さい僕には無理な話だった。

「俺は痛みがわからねえ。痛みがわからないのだから人の気持ちなんてわからねえ。人の気持ちがわからねえから、愛というやつもわからねえ。しかしな、だからこそわかる。俺は人間としては壊れているってな。むしろ人間よりも化け物に近いんじゃねえか?」

「……」

「そこの日和とかいう奴も俺を退治しに来たんだろうよ。化け物は退治されるもんだからな」

「だ っ た ら」

その憎悪に染まった声は僕のものではなく、紅糸さんのものでもなく、ひまわりのものでもなかった。

勿論空のものでもない。

最後の一人。この部屋にいる最後の一人。

「今すぐ死ね」

恨みの籠もった声をあげたのは日和さんだった。

その声は呪詛、そのものだった。



私には年の離れた兄がいた。

私とも年がかなり離れていたのだから、倉梨はその顔すら覚えていないだろう。

覚えていないばかりか存在すら知らないだろう。

私の兄は既にこの世に存在していない。死んだのだ……否、殺されたのだ。

『正義』の澄渡空という存在によって。


私と兄は仲が良かったのかといえば、そうでもなかった。

それでは仲が悪かったのかといえば、そうでもなかった。

仲が良くも悪くもない、普通の兄妹で、年も離れているものだからお互いほとんど干渉しなかった。

空気のようだけどそうではなく、血の繋がった他人という表現が一番正しいかもしれない。

だから私は兄がどんな人物か問われてもほとんど知らないと答えるしかない。

兄が勉強が得意なのか、それともスポーツが得意なのかも把握してはいないし、どういう信念があって『フェンリル』なんていう犯罪組織に所属していたのかも知らない。

ただ、兄の新たな能力だけは把握していた。

兄の能力は私と同じ『透明化』の能力であった。

性能も私のものとほぼ変わらない能力。兄妹だからかわからないけれど、兄と私は同じ能力を有していた。

故にだろうか?私は兄が透明化したものを把握出来た。

目に映ることがなくなったそのモノが、何となくその場にあることがわかるのだった。

けれどわかったからといって何なのだと思っていた。

もし私と兄が非常に仲が良かったのなら秘密の暗号なんかよりも有用に情報交換が出来るのだろうけれど、そんな気持ち悪いレベルで私と兄は仲は良くなかった。

だから、兄が『フェンリル』に所属していて、そして悪人故に『正義』によって殺されたと聞かされた時も、私は何も感じなかった。

何も思わなかった。

血縁があろうが、自分じゃない他人が死んだぐらいで悲しむ感情を持ち合わせているほど私は大人ではなかったのだ。

兄の遺体を私は見せてもらえなかった。

兄の遺体は原型を留めていないほど破損していて、子供の私には見せるべきではないと両親が判断したからだった。

けれど、その遺体を見たとしても私の感情は波打たなかっただろう。

兄の葬儀を終えた後からだ。

私の周囲が徐々にしかし確実におかしなことが起こり始めた。

まず私たち家族は引っ越しを余儀なくされた。

その理由について当時の私は察しがつくことが出来なかったが、今ならわかる。犯罪組織『フェンリル』に身内が所属していたとわかり、自然と周りの目が厳しくなってきたのだ。

直接的に責められることはなかったにせよ、今思い返せば私の友達も段々と減っていっていたように感じる。

だから引っ越したのだろう。

誰も事情を知らない場所に越したかったのだろう。

しかし両親の変化はそれだけではなかった。

両親は兄のことについて一切口にすることがなくなったのだ。

それどころかまるで兄など初めから存在しなかったかのような態度をとる時もあった。

両親は、消したかったのだろう。

否、現在でも消したいと思っているのだろう。

犯罪組織『フェンリル』に所属していた兄の存在をなかったことにしたいのだろう。

そんな両親を私は冷淡に近い瞳で見ていたのだけれど、一方では仕方がないことかもしれないと納得もしていた。

思い返したくない過去に蓋をする人間を誰が責めることができようか?

人間は皆、同じようなことをしているのだから。

そうして、私の中で、ただでさえ最初から希薄だった兄の存在は更に、そして徐々に希薄になっていった。

このまま、兄という存在が溶けてなくなるとそう思っていた。

そんな私の思いとは裏腹に兄の存在は私の中で消えていかなかった。希薄にはなっていくのだけれど、いつまでも残っているのだ。それは喉に刺さった魚の小骨のような存在で、取り除きたいのに取り除けない妙なもどかしさを持ったものであった。

希薄になっているのになくならない。取り除きたいのに取り除けない。

私の中に残った兄の存在は、もう私にとっては邪魔なモノに他ならなかった。

だから私は兄と徹底的な決別を図ろうと、『フェンリル』と『正義』との抗争があった場所に訪れたのだった。


『フェンリル』と『正義』との抗争があった場所は少し都会から離れたところに位置した廃病院だった。『フェンリル』がそこにたむろしていたらしく、それを『正義』が襲撃をかけたという。

もっとも襲撃といっても、事前に通達し(挑発にも近い)フェンリルの構成員を総てを集めさせ、戦争を起こしたのだとか。

そこに兄も居て、そして無惨にも殺されたのだ。

自業自得である。

弁解の余地はないし、同情の余地もない。

私は学校が休みである日に、両親には友達と遊びに行くという普通の嘘を吐いて、その廃病院に訪れた。

廃病院の道のりは、交通の便が非常に悪かったのでとても骨が折れたが、何とか明るいうちにたどり着くことが出来た。

夜にならなくて良かったと本気で安堵した。夜の、しかも本当に人が何百人という単位で『殺された』場所に訪れるなど、ぞっとするにもほどがある。

廃病院の周りに立ち入り禁止という立て看板というものを発見したが、当然のようにその存在を無視して中にと入った。

ボロボロに崩れた壁。同様のリノリウムの床、天井。

過去にここが病院だったということを疑いたくなるような荒れようだった。

散策して数分でうんざりした。

疲れたとか汚いとかではなく、自分が何をしているのか疑問に思ったからである。

モノと呼べるものはほとんどなく、荒れ果てた場所。

こんな場所に兄の軌跡など存在しなかった。

かつてはここにフェンリルの所有物が存在したのかもしれないが、そんなものはとっくに撤去されてしまっているだろう。

衝動的に行動し、ここに至ったのだけれど、それが無駄足だったと私はようやく気づいたのだった。

もう帰ろうかとも思ったが、もしかするとという希望的観測を無理矢理に抱いて、探索を進めた。

しかし、やはりというか、何も見つけることが出来なかった。

最後の部屋に着くまでは。

最後の部屋に着く前に、私の心はもう諦めていた。ここに来たのは無駄足だったと決めつけた。

まぁ、無駄足だったところで構わない。

兄の存在が消えるのが早いか遅いかである。

ここで決定的で徹底的な決別を望んではいたのだけれど、別に溶けるように消えていくのもそれも一興だ。

溶けるように、透明化していくかのように薄くなり、消えていくのだ。

私たちにはそういう決別の方がふさわしいのだろう。

そうして私は、廃病院最後の部屋へと入っていった。


最後の一室は病室だった。のだと思う。

判断できないのは単純に物がまったく存在しないからである。

やはりこの部屋も他の部屋同様に完璧に物が撤去されていた。

発見できたのはせいぜい崩れた壁や天井の一部で、それ以外の物は存在しない。

『フェンリル』がここを拠点としていたことすら怪しく思えるほど何もなかった。

ここが拠点だという噂はデコイであり、他に拠点があったのではないか?と廃病院にフェンリルがたむろしていたという情報に疑問を抱いていると、ふと壁の一部に違和感を感じた。

この感じは過去に感じたことがある……のだけれどどこでだったっけ?

「……お兄ちゃん?」

言葉にしてようやく気がつく。

これは兄の能力の気配だ。壁の一部を能力によって透明化することで巧みに崩れたように見せていたのである。

しかし一体何の為に兄はそんなことをしたのだろうか?

私は特に何の考えもなしに、兄が透明化した壁の一部を、振り返ってみればおそらく兄の最後の能力の残滓を、解除した。

壁が元の形に戻った。

そしてその壁には赤黒い文字で、おそらく兄の血で、つまりは兄の遺言が書かれていた。

『澄渡空を殺してくれ』と。

兄の最後の願いがそこに書かれていた。

その文字を見た途端、不意に涙が溢れだした。

筆跡鑑定などしなくても直感で理解する。

お互い干渉しない生活をしていたけれどそれでもわかる。

これが本当に兄が残したものだと。兄が、おそらく死にかけた兄が最後の力を振り絞って残しただろうメッセージであった。

能力を使ったのは見つからないようにだ。

透明化しなければおそらく痕跡を消されていただろう。

けれど透明化してしまったら普通は気づけるものでも気づけない。

私しか気づけない。

つまり兄は最後に私に願ったのだ。

『澄渡空』という人物を殺すことを願ったのだ。

おそらくその人物こそが兄を殺した張本人だ。

私と兄は仲が良かったのかといえば、そうでもなかった。

それでは仲が悪かったのかといえば、そうでもなかった。

仲が良くも悪くもない、普通の兄妹で、年も離れているものだからお互いほとんど干渉しなかった。

ほとんど干渉しなかったけれど、家族だった。

掛け替えのない家族だった。

悪人といわれようが欠けてはならない家族だった。

私は、兄の存在を消そうとした自分を恥じた。

兄は最後に私を信頼し、私に願いを託したのに、私は兄の存在を無かったことにしたかった。

そんなのは間違っていた。

兄の存在を消そうとしている両親も間違っている。

兄の存在を否定した世界すらも間違っている。

喩え世界の総てが兄を否定しても、兄の存在を消したとしても、私は覚えている。

私だけは覚えておく。

そして、兄の願いは、兄の仇は必ず討つ!


そうして私は爪を研ぎ、牙を磨いた。

澄渡空という人物を殺すために鍛え始めた。

もっとも両親に気づかれないように、ジムとか道場とかには通わずにすべて我流でどうにかしたのだけれども。

能力の向上にも力を注いだ。

『透明化』の能力を如何に人殺しに役立てるかなども考えた。

たまに能力が暴走して身体の一部が透明化してしまったこともあったけれど、包帯などをして誤魔化した。

誤魔化して、周りに気づかれないように己を磨いていくうちに、嘘もうまくなっていった。

いやうまくいっていったというレベルではなく、嘘を吐くのが日常になった。

何の抵抗もなく、とっさであったとしても流暢に嘘をつけるようになった。

戦闘スキルよりも先に願ってもいない人を欺くスキルが長けてしまった。

人に嘘を吐き、鍛錬をして、私は自分の戦闘力が澄渡空を殺すのに十分なレベルに至ったと認識した。

私は『透明化』の能力を使い、『正義』の事務所に乗り込み澄渡空を暗殺しようと試みた。

しかしそこに澄渡空は居なかった。

澄渡空は既に『正義』を辞めていた。

だが、澄渡空が死んだわけではない。

私は澄渡空の情報を必死になって収集し、そして己の鍛錬も忘れなかった。

そうして、ようやく、私は澄渡空を見つけた。



目が覚めた日和さんは、呪詛の言葉を吐いた後、空に襲いかかろうとしたが、紅糸さんの『紬糸』によって身体を拘束されていたためそれは叶わなかった。

それが叶わないというのに、日和さんはまるで狂っているかのように何度も、何度もそれを試みた。

僕はその鬼気迫る日和さんの姿に畏れを感じたが、しかし同時に自分の姿と日和さんを被らせてもいた。

日和さんが復讐のために空を殺そうとする行為は、かつて僕が『喰鬼』に対して抱いていたものと同じものだ。

いや、かつてじゃない。

それは今も抱いているかもしれない。

かもしれない……というのはよくわからないからだ。

他人の考えていることはよくわからないが、自分の考えていることもなかなかわからないものだ。

だから、僕は日和さんに復讐の動機と過去を尋ねたのだった。

日和さんのことを知る以上に、自分のことを知るために。


やはりというべきなのだろうか?

日和さんの兄は澄渡空に殺されていた。

こちらの読み通り日和さんの兄は『フェンリル』に所属していたらしく、『フェンリル』を残さず惨殺した空が日和さんの兄を殺したことに間違いはないだろう。

空自身は日和さんの兄を殺したことを覚えていなかった。

というよりも把握していなかったのだ。

空は数百といた『フェンリル』の構成員を一人残らず殺した。

数百という数の人間、一人一人を覚えていられるわけがなかった。

それが、日和さんの怒りを更に加速させた。

「おまえは!自責の念というものがないのか!」

「自責の念?何故俺が自分で自分を責めなきゃいけねえ?俺のあの時の行動に正義があったのかといえば、そりゃなかっただろうが、しかしそれでも全て悪ってわけでもねえだろうさ」

「悪だろう!お前以上の悪がこの世にいるというのか!」

「いるぜ。『世界の敵』なんて世界脅威はまさしく極悪で最悪の存在だ」

二人の会話は、かみ合っているようで全くかみ合っていなかった。

日和さんは激情をもって空に対しているのに、空はその激情を気にも留めていない。

飄々と他人事のように話を進める。

しかしもの凄い険悪な空気にも関わらず、当の二人は縛られて身動きがとれない状況なので、僕は落ち着いて二人の様子を観察することが出来た。

「『世界の敵』の行ってきた所業に比べれば、俺が今まで行ってきたエゴも大したもんじゃねえぜ」

「数百という人間を……私の兄を殺しておいて大したことがないだと」

空はきっとその気はないのだろうが、また火に油が注がれた。

ナチュラルに人の神経を逆撫でする空だった。

けれど日和さんが次にその感情をぶつけた相手は、空ではなかった。

空では無駄だと察したのだろう。僕も無駄だと思う。

日和さんはこちらを向くと、空に対するのと同じように、敵対するかのような表情のまま、僕らに言った。

「あなたたちは!……あなたたちは澄渡空の存在を許すのか!」

「許すって……」

正直、よくわからない。

僕は空がフェンリルを惨殺したのをついさっき知った。

ついさっき知ったのだから、考える時間はなかった。

本当に、わからない。

フェンリルはありとあらゆる犯罪に手を染めた、言わずと知れた悪の犯罪組織である。

彼らの存在は世間的に許されるべきものではなかっただろう。

それでは空は?

澄渡空の存在はどうなのだろうか?

悪の犯罪組織『フェンリル』を壊滅させたのだから、それならば澄渡空の存在は正義だろうか?

いや、人を殺す正義なんて存在していいはずがない。

それでは空の存在は悪だろうか?

いや、『フェンリル』は壊滅させられて当然だった組織だ。空がやらなくても、きっと他のものが同じことを行っていたことだろう。

そういう矛盾がさっきからクルクルと頭の中でループしていて、考えが全く纏まらなかった。

だからそんな答えが出せない僕に代わってその質問に答えたのは、僕よりも絶対的に長い時間空に接してきたであろう紅糸さんだった。

「こいつの存在は確かに悪だが、しかし私にとって許せないほどの悪じゃない。ただのアホな悪だ」

「なっ!?そこの人殺しを許せるって!?」

「私は日和さんと違ってそいつに憎しみを抱いていない。アホぐらいにしか思っていない」

……どうでもいいが、紅糸さんは空に対してアホアホ言い過ぎじゃないだろうか?

「憎しみを抱いていないうえに、私の道に立ちふさがってもいない、故に私はこいつを断罪する理由はない。もっとも……」

「グダグダうるせえぜ。紅糸」

空がそう言うと、まるでその言葉に呼応するかのように、空を縛っていた『紬糸』が断ち切れて、空は自由になった。

「うな!私の『紬糸』が切られた!?バカな!『天断』で切られないように腕も一緒に縛っておいたのにぃ!」

「次からは指も一緒に縛っておくんだな。俺の『天断』は身体の一部分でも振るうことが出来れば発動出来るんだぜ。それはそうと、いい加減手前等の問答がうざくなってきたから、帰らせてもらうぜ」

「なっ!ふざけるな!まだ話は終わっていない!」

日和さんが空を呼び止めるが、そんなことに構わず空は窓へと向かっていく。

玄関から帰るという、常識的思考を持ち合わせてくれない空だった。

いや、空さん。あなた今靴履いてないんだからそこから出ていくのはどうかと思うのだけれど。

結局空は自分が靴を履いていないことに気がつかず窓を開けて、そこから出ていくようだった。

しかし出ていく前に空はこちらを振り向いた。

いや、正確には日和さんと目を合わせた。

そして言った。

「手前は俺に復讐する権利はあるが、やめときな。手前じゃ俺は殺せねえよ」

「なっ!」

「忘れているのか?それとも思い出したくないのか?喫茶店でのやり取りを思いだしな。お前はまさしく完璧なタイミングで俺へと襲いかかってきた。あの時のお前の動きは素晴らしく、今まで何度もその動きを想定してきたことが伺えたさ。能力もうまく発動させ凶器と狂気をうまく隠して俺を襲撃した。これ以上ないという最高の攻撃だったろう?その結果はどうだった?」

「……くっ」

空の問いに対して、日和さんは唇を強く結んで答えることが出来なかった。

だから僕がそれを代わりに説明する。

最高の攻撃だったはずの日和さんの攻撃は、空に届くことはなかった。

空の『天断』の壁によって、容赦なくその攻撃は防がれたのだ。

それに加えて、『天断』の壁に強く腕をぶつけたせいで、その腕は無惨に折れたのだった。

「俺の『天断』の壁は自動防御だ。自分の意志に関係なく、最高の防御を実現する。未だかつて、この壁を突破できた奴はいねえ。そこの紅糸だって無理だ」

……確かに紅糸さんの超必殺技『でっかいパンチ』すら、『天断』の壁は受けきった。

空の防御は完璧なのかもしれない。否、かもしれないではなく完璧だ。

だというのに何故だろうか?

空の防御に疑念を感じざるおえない。

何か、僕は空に対して見落としている点があるのではないだろうか?

「俺に触れることも出来ない奴が俺への復讐を考えているなんて時間の無駄もいいところだぜ。そんなもん諦めて普通の生活を送りな。それがきっと一番マシな人生だ」

「……くっ!」

「それでもどうしても俺に復讐したいというのなら、もう一度俺に辿り着いてみろよ。その時は、今度こそ間違いなく手前を殺してやる。そこの紅糸たちが邪魔しても、きっちりと殺して、手前の復讐を全てなくしてやるよ」

そうして、空は部屋から去っていった。

「クソ!クソ!畜生!」

兄の敵を前にして、何もできなかった日和さんは、その感情を爆発させたかのように大きな声で叫んだ。

全身を縛っていなかったら、おそらく暴れ出して、僕の部屋のいくつの器物が破損させられただろう。

日和さんに、僕はかつての自分の姿を見た。

人が人に復讐する。

果たしてそれは正しいことなのだろうか?

以前よりも更にその答えがわからなくなった。



蛇足だが、日和さんが落ち着いたのを見計らい、その拘束を解いて約一時間後、空が戻ってきた。

戻ってきた理由は二つで、靴を忘れたのと、いつの間にか財布の中身がなくなっていたのでそれを知らないか?というものであった。

日和さんには襲われ、ひまわりには殴られ、紅糸さんには縛られ、挙げ句財布の中身まで無くす空は、なかなか運が悪いなぁと思った。

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