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透明化する動機(前)

澄渡空……ついこの間知り合ったばかりの彼のことを、僕はほとんど知らない。

ほとんど知らないのだから、もしも空の良いところを挙げてみろと誰かから問われたのなら、僕はきっと困り果ててしまうことだろう。

正直、一つも思い浮かばない。

付き合いが短いから仕方がない気がするが、しかし長く付き合ったところで結果が変わるとは思えない。

空の考え方、形成されている人格は一般人が理解できるものではない。

戦闘狂……言うのは簡単だが理解するのは難しい。単純であるが、それ故に彼は孤立する。

争うことを極力嫌うこの国では彼の存在は極めて異端なのだ。

改めて言うが、そして空には非常に申し訳がないのだが、僕は空の良いところが何一つ思い浮かばない。

だからこそ僕は考えてしまう。

日和さんが空のどこに惚れてしまったのかと。

僕以上に空と接することがなく、むしろ一言すら会話を交わさなかった日和さんが空に惚れたというのが、僕には信じられなかった。

これは決して嫉妬の念でも何でもなく、僕は日和さんに懐疑的になっているのであった。

それはあの部屋のことを引きずっているからに他ならない。

飄々とは違うのだけれど、日和さんの言動はどこか掴めない。

言動、行動……どこかおかしく感じるのだけれどそれがわからない。

しかし日和さんの言動と行動がおかしく感じるからといって、僕は女性の後をつけ監視をしようとなどは思わない。

だから今のこの現状は全て紅糸さんが立案したものである。

つまるところ、僕らは変装をし、空と日和さんの待ち合わせ場所である喫茶店に潜伏している最中であった。


最中さいちゅう最中もなかって同じ漢字っていうのはどうかと私は思うな」

「いきなり何さ。紅糸さん」

「いや、ミナギンの上の回想を見ていたらそう思った」

「上の回想って何!?」

次元を越えたボケはやめてもらいたい。

もしかすると僕の心を読んでのボケだったかもしれないが、どっちにしろやめてもらいたかった。

さて、そういうわけで現状説明だ。

上記の通り僕と紅糸さんは変装して喫茶店に潜伏中であった。ニット帽を被り、サングラスをかけての変装。顔の変装に関してはそれで十分かもしれないけれど、そこから下は制服なので一見で怪しすぎる二人だった。

さっきから微妙に視線が痛い。

まあ怪しかろうが、その怪しい人物が僕だとばれなければ何の問題もない。多分。

「しかし、紅糸さん」

「何だ?ミナギン?」

「来るの早すぎたんじゃないか?」

そう、喫茶店にはまだ日和さんも空も到着していなかった。

日和さんは僕らと同じ学校なのだから、日和さんが到着していないのはおかしく感じるかもしれないが、そこは女の子。おめかしとか色々あるから僕らよりも遅いのだろう。

もっとも、僕らも変装おめかしに少しは時間がかかったのだけれど。

「早いかもしれないが、先についておくに越したことはないだろう?監視する身としては」

「まあ確かに先に入っていた方が空達は違和感を感じないだろうけど」

いや、こんな変装をしている時点で違和感バリバリのような気もする。

「ところでミナギン。違和感バリバリのバリバリっていったいどういう意味なんだろうな?」

「だから僕の心を勝手に読まないでよ!」

「違和感ビリビリじゃいかんのだろうか?違和感ベリベリのほうがノリが良さそうな感じがしないか?」

「ひどくどうでもいいよ!」

バリバリだろうがビリビリだろうが、どれでもいい。

「大体待ち合わせの時間もこっちは把握しているんだからその時間通りに来ればよかったんじゃないかな?」

空と日和さんの間を取り持ったのは他でもない紅糸さんだった。

その理由は紅糸さんしか空の携帯の番号を知らなかったためだが。

おそらくもうひとつの理由がこのように、面白がって彼らのやりとりを鑑賞するためだろう。

「どっちかでも早く来たら事だろう?監視する身としては三十分前行動など当然だ」

三十分間、店員の痛い視線を気にしなければならない僕の身にもなってもらいたい。

しかし、おかしい。

紅糸さんも同じ身になっているのに、どうして彼女は何も感じないのだろうか?

精神構造が根本的に僕とは異なるからだろうか?

「しかし、遅いな」

「そう?待ち合わせの時間まではまだ十分時間があるよ?日和さんはわからないけれど、空の性格なら時間前に来ることなんてなさそうだけれど」

戦うこと以外全く興味がないようだからなぁ。

今回の件について空はどう思っているのだろうか?どうも思っていないと僕は推測する。

日和さんも、恋だとか愛だとかいう感情も空には不要のものだろう。

「違う。空達のことじゃない。ひまわりがだ」

「ひまわり呼んだの!」

いつの間に呼んだ!

そしてどうして呼んだ!?

「何を驚くことがある。ひまわりだって私たちの仲間だ。呼んで当然だろう?」

「ひまわりが僕らの仲間っていう部分には賛同するけど、それでも言うよ。何で呼んだの!?」

「何でって、ひまわりを仲間外れにしたら可哀想だろう」

ご存じの通りひまわりは極度の人見知りで、引きこもりで、ニート希望者である。

そして空気の読まない度合いが天下一品なのであった。その一面だけを捉えればおそらく紅糸さんをも凌駕するだろう。

そんな空気の読まないひまわりがこの場にいてうまく監視ができるだろうか?

……とか考えたけれど、紅糸さんがいる時点でうまく監視できる保証は全くないので、もうどうでもいいか。

「はぁ、もうどうでもいいや」

「何だ?何をそんなに諦めているんだ、ミナギン」

そもそも、この監視がうまくいかなきゃならない理由なんてないのだ。

紅糸さんは「空が何をするかわからないから」とか適当な建前を言っていたが、満面の笑みでそう言っていたことから、やはり他人の恋愛を面白がっているだけなのだ。

面白がって企画しただけなのだから、失敗したところで何ら問題はない。

もっと気楽に考えよう。

「ちょっと悟っただけだよ。でも、僕らは変装グッズを途中で購入したから良いものの、ひまわりはそういうのあるの?」

「何言ってるんだ?あいつは自前の虎顔マスクがあるじゃないか。あれ被っていれば、変装になるだろう」

「成る程…………いや、ちょっと待って」

「うな?どうしたミナギン?」

「変装も何も、ひまわりの虎顔は二人に面が割れているんじゃないか?」

「……うな!」

昨日その被りもので日和さんとあったのだ。

それで変装していますと言い張るのはいささかどころか、限りなく無謀である。

「しまった!どうしようミナギン!」

「どうしようって……そうだ。逆に面が割れていないんだからそのままでいけばいいんじゃないかな?」

「だから面が割れているんだ!虎顔はもう面が割れているんだ!」

「いや、虎顔のほうじゃなくて、素顔のほうだよ」

「うな?」

「素顔の方ならば、面が割れていない。昨日はずっと虎顔の面を被って日和さんと接していたから、ひまわりの場合素顔でも気づかれないはずだ」

「うなるほど……ちょっと待て、ミナギン」

「うん?どうしたの、紅糸さん?」

「素顔の方は空に面が割れているんじゃないか?」

「……うな!」

そうだった!空の存在を普通に忘却していた。

今でこそ世界脅威とか言われてる空だが、元は『正義』のメンバーで、同じく『正義』のメンバーであるひまわりと接点があるのだった。

いや、もしかすると『正義』に所属していたときもひまわりはずっと虎顔をつけていて、それで気づかれないかも……あぁ、ダメだ。この間公園でひまわりと空が再会したとき、ひまわりは虎顔を被っていなかった。

被っていなかったのに空はひまわりのことをひまわりと認識できていたし、そもそもその場でもひまわりの素顔を公開してしまっていたのだから、ダメなものはダメだった。

「どうしよう!紅糸さん!」

「落ち着け!ミナギン!ひまわりの存在はそもそもコスプレなんだ!だからそもそものメイド虎顔でいれば気づかれない!」

「だから!その状態で既に日和さんと接しているんだって!会話がループしてるから!そっちこそ落ち着いて!」

混乱しきった僕らは、『僕らの変装グッズの一部をひまわりにつけさせる』という選択肢が全く思い浮かばなかった。

そんな怪しく更に騒がしくしている僕らに人影が近づいてきた。

しまった。騒ぎすぎた。

怪しく騒がしい僕らは店員に注意されるのだと僕は身構えた。

身構えたが、僕らに近づいてきた人影は店員ではなかった。

首から下はメイド服。僕がもう毎日のように拝見している見慣れたあのメイド服。

そして首から上は……兎だった。

しかし亜人というわけではなくそれは兎の被りものであった。これはきっと余計なことだが、兎は一匹二匹で数えるのではなく一羽二羽と数える。その理由についてまではここで語るつもりはないけれど、それでは何故今になって兎の数え方などをここで語ったかというと、つまりそれは僕がえらく混乱していたからに他ならない。

兎の被りものは、またとてもリアルだったのだ。それはもうリアルな虎顔を見てきた僕でもどん引きするほどに。元来兎というものは可愛らしいものの代名詞として描かれることが多いが、しかしそれはファンシーチックに描き換えられた結果によるもので、実際は鋭い顔立ちと真っ赤な瞳で可愛らしさを微塵も感じられない。

つまり結論はこういうことなのだ。

「うぎゃーーーーー!!!」

リアル兎顔を見て、紅糸さんは絶叫した。


「うな、うな、うな、うな」

まあ、何というか……今更でわざわざここで種明かしをしなくてもわかってもらえると思うけれど、兎顔の人物の正体はひまわりだった。

空気が読めないオブザイヤーの橙灘ひまわりだった。

そんでもって何でひまわりが兎顔の被りものをしているかというと、これは僕らと同じ変装のためらしかった。

つまりひまわり自身も虎顔が面が割れていることに気づき、急遽虎顔から兎顔に変更したそうだ。

ひまわりにしては珍しく、先を読んでの行動だった。空気は読んではいないが……

「うな、うな、うな、うな、うな、うな」

……こうして、新たなトラウマが出来てしまった紅糸さんだった。

可愛いイメージである兎があるが故、それが恐怖に変換されたときのダメージは相当のものだろう。

ご愁傷様、紅糸さん。

でも、これは紅糸さんがひまわりを呼んだことが原因で、もっと突き詰めれば紅糸さんが空と日和さんの様子を見ようなどという出刃亀的精神を持ってしまったことが原因なのだから、まあ自業自得だ。

「……それでひまわり」

「はい。何でしょう観凪さん?」

兎顔には変声機が搭載されていないようでいつものひまわりの声であった。あくまでも兎顔は予備の被りものということだろう。

もっとも虎顔のほうの変声機も故障して今は使用不可の状態なのだが。

「何で兎なの?」

「何を言っているんですか、観凪さん?虎の次は兎でしょ?」

干支の順番だった。

「それじゃあこの次は龍になるのかな?」

「そうなりますね」

そうなるようだった。

もしかするとひまわりは十二支全ての被りものを持っているのかもしれない。

個人的に一番見たくない十二支のリアル被りものはネズミだなぁ。

電気ネズミや黒いネズミさんのおかげでネズミも兎に勝るとも劣らないほどのチャーミングな存在として世に認識されてはいるが、実物のしかも大きく表現された顔を自ら進んでみたいものとは思えない。

また紅糸さんの心にも多大な傷を負わせそうだ。

ネズミが出現しないよう、ひまわりにはよく忠告しておくことにしよう。

「でも、おかしいですね?」

「何が?」

「こんなに完璧に変装しているというのに、周りの視線が外れません?どうしてでしょうか?」

「僕はそこを疑問に思うひまわりを疑問に思うよ」

これだけ怪しさが極まった僕らなのだ。注目されない方がおかしい。

けれど、そう考えるとこの格好は覗き見をするにはひどく不釣り合いだったのではないか?

まあ今更後悔してみても遅いのだった。

「あっ、来ましたよ」

僕とは違い入り口が見えるように座ったひまわりが、空か日和さんを発見したようだ。

ちなみに紅糸さんもひまわりと同じように入り口が見えるように座っているのだけれど、リアル兎顔のショックからまだ立ち直っていないようで。ずっと下を向いて「うなうな」言っていた。

「どっちが来たの?」

囁くように僕は聞いた。

「日和さんです。あっ」

「どうした」

「日和さんと目が合いました」

うわぁ、大丈夫か!?

変装はしているけれど、被りもの+メイド服のコスプレイヤーなどきっと他にはいないだろうから、もしかすると気づかれたんじゃないだろうか?

「……日和さんどんな顔をしている?」

「怪訝な顔をしています」

そりゃ二日連続で奇異なコスプレイヤーを見たら怪訝な顔をされますよね。

……気づかれたか?

「あっ、視線を外されました」

そりゃリアル兎メイドに睨まれたら視線を外したくもなりますよね。

「日和さん、そのまま席に座りましたよ」

「……何とか気づかれなかったようだね」

そう思いたい。

そう思っていないとやってられない。

「紅糸さん。ほら、日和さんがやってきたよ」

「うな、うな、うな」

「うなうな言ってないで、そろそろ調子を戻してよ」

「うな!そんな簡単に調子が戻ったら苦労するか!私は昨日と今日でどれだけ心の傷を負わなければならないんだ!」

「よく見るときっと可愛いよ、この被りもの」

「よく見たくないわ!そんなことしたら本当に泣き出すぞ!」

若干もう瞳に水滴が溜まっているんだけれど、それを指摘して挙げるのは酷だと思うのであえてスルーで。

「でも紅糸さんはひまわりと対面して座っているわけじゃないんだから、その被りもの見えないじゃないか。視線に入らないんだから何とか我慢してよ」

「横にいると思うだけで、泣ける」

「じゃあ、ひまわりと僕の位置を変えようか?」

「私を殺す気か!?」

横にいると泣けて、対面すると死ぬらしい。

どれだけこのリアル兎顔に恐怖を抱いているんだ。

僕も確かにこのリアル兎顔に恐怖を感じたが、あくまでも一過性のものだ。

驚きだって、恐怖だって……どんな感情だって、慣れて薄くなっていくのだ。

薄くなっていくのだと思うのだが、紅糸さんはそれがいつまで経っても薄くならないようだった。

さて、僕の記憶が確かならば、僕と紅糸さんがひまわりと最初にあったときも同じようなやりとりをしていたはずだ。

果たしてそのときはどのように対応したのだったか……

確か、虎ではなく虎猫と紅糸さんに認識させることで事なきを得たのだった。紅糸さんにとって猫は史上最高にして唯一至高の愛玩動物らしいのだ。

では今回もそれと同じ対応がとれるだろうか?

つまり、このどっからどう見ても、100人の子供がいたらおそらく94人ぐらいが泣き出すような恐怖の兎顔を、紅糸さんが大丈夫なような可愛いものに変換できるかが紅糸さんを落ち着かせるただ一つの鍵に他ならないのだ。

僕は瞬時に兎の可愛いマスコットキャラを脳内で検索した。

…………ミッフィーちゃんしか思い浮かばなかった。

ミッフィーちゃんは子供向けのキャラクターではあるけれど、しかしあれ、可愛いだろうか?

無表情で一点を凝視し外すことはないあの視線は、下手をすれば恐怖を与える可能性もある。

「……すいません。ちょっといいですか?」

紅糸さんをどうなだめようか思考中に、ひまわりが口を挟んだ。

直感的に、あまりよろしくない発言をするのだとわかってしまった。

「ホットケーキ食べたいんで注文していいですか?」

「ホント空気を読んで!ひまわりは!」

「?」

相変わらず空気を読むということがわからないのか、僕の必死の要望にもひまわりは不思議顔で応えた。

「観凪さん?間違ってたら申し訳ないのですが……」

「なんだい、ひまわり」

「『ホント空気』というのは『ホットケーキ』とかけたダジャレなのですか?」

「かけてないよ!壮絶と言えるまでに間違っているよ!」

確かに気づいたら発音が似ていたけれど、決してそれは狙って発言したわけではない。

ひまわりがホットケーキを頼まなくても、僕はきっと同じつっこみを入れたのだろうから。

「とにかくだ、今はホットケーキを頼むよりも紅糸さんをなだめる方が優先すべき行動だろう?」

「お言葉ですが観凪さん。いつまでも注文をしないというのも怪しいものではないでしょうか?」

メイド兎仮面の分際で怪しいとか言うな。

「あと観凪さんの奢りなので、いつも食べれないものをここで食べておかないと」

「何故か僕が奢る流れに!?」

「え?だって私、観凪さんのメイドですよ?使用人の食べる物も主が用意するのは当然のことでしょう?」

「知らないよ!そんな当然!」

「それに私、この間観凪さんにお金を渡しちゃったので、今一文もお金を持っていませんよ」

「なっ!」

絶句である。

一文も持たずに喫茶店に入ってくるひまわりの神経をかなり疑う。

こいつ初めから奢られるつもりでここにやってきやがったのか?

しかもその原因が僕にあるような言い分をして、これじゃあ僕がここで奢らなければいけないじゃないか!

思わぬところに策士がいたもんだ。

「……仕方がないなぁ。千円以内にしてよ」

そして僕はひまわりに結構甘かった。

「大丈夫です。ホットケーキとアップルティーを合わせても千円以内ですから」

いつの間にかお紅茶まで注文リストに加わっていた。

もう呆れるのとおりこして諦めている状態の僕だった。

「ひまわりが何か注文するんだったら、僕も何か頼もうかな?」

「うな!私はモンブランとミルクティーな!」

「紅糸さんがいつの間にか復活している!?」

復活している上にメニューを見て、しかも自分が注文するものまで決めていた。

「紅糸さん、ひまわりの兎顔が怖いんじゃなかったの!?」

「怖いには怖いが、しかしミナギンの奢りという素晴らしい誘惑には勝てなかった」

とても安っぽい恐怖だった。

そして、更に……

「何故か僕が奢る流れに!?」

「え?だって、ひまわりには奢るんだろ?まさか私には奢ってくれないのか?私は仲間外れってことか?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「じゃあ、奢れ。なぁに安心しろ。私も千円以内だ」

何も安心できない。

ひまわりはともかく紅糸さんは、一緒に住んでいるのに一切合切お金を入れてくれていないのだから、奢る道理のようなものはないはずなのだが、やはり強くは言うことのできない僕は財布の中身を確認した。

「……じゃあ僕は、オレンジジュースと苺のショートケーキで」

財布の中身を確認後、直ぐに場の空気に流されてしまっている僕だった。


『間が悪い』というのは相手に対する愚痴のようなものなのだが、そのほとんどの原因がそう感じたものに起因すると考える。

人生というのはいろいろなことが起こる。

そのいろいろなことに、たとえどんなことであろうとも、気構えをしておけば『間が悪い』などとは感じないはずだ。

物事に対する準備が欠けているから、『間が悪い』などと感じてしまうのだ。

はてさて、約束の時間から十分ほど過ぎた時に澄渡空はやってきた。

そして空がやってきた時、僕らはちょうど『間が悪かった』。

具体的にどんなことをしていたかというと……

「うな!その上に乗っている苺をよこせ!ミナギン!」

「いやだよ。僕はケーキの甘みと苺の酸味を交互に味わうのが好きなんだから」

「私だって酸味を味わいたいんだ!私のモンブランは『甘い甘い』でずっと甘いから、酸味が全くないんだ!ミナギンはオレンジジュースで酸味をとれるんだから、苺をくれてもいいじゃないか!」

「だったら紅糸さんも苺のショートケーキを頼めばよかったじゃないか」

「うるさい!つべこべ言うな!紅いものは私のものなんだ!」

「ここだけはそんなジャイアリズムに負けないんだからね!」

というやりとりをしていたそのちょっと後に空は来る。

当初の目的はさっぱり覚えていなかった。

ちなみにひまわりはというと、一人幸せそうにホットケーキを頬張っていた。

兎顔を外せば滅茶苦茶可愛らしいひまわりが、幸せそうにホットケーキを食べている姿は見ているだけで癒されるものだ。

……兎顔外してる!

いや、そりゃその面を外さなければ物を食べることができないけれど、それはまずいだろう!

こんなタイミングで空が来たらまずいだろう!

というタイミングで空は来た。

僕がその姿を発見できたのは、空がまだ喫茶店に入っておらず外にいたからであった。

今まさに喫茶店に向かっている空を発見したのである。

「ひまわり、空だ!」

「え?あわわわわわ」

慌ててひまわりが兎顔を被ろうとする。

「何をやっている、ひまわり。そんな鈍くささじゃ空が来ちゃうぞ」

「そうは言われても、焦るとなかなかうまくいかないもので」

「どれ、私が手伝ってやろう……って、ぎゃぁああああぁああ!!」

リアルな兎面を見た紅糸さんは再び絶叫した。

バカなの?

この子達、相当のバカなのだろうか?

「静かにしてよ!紅糸さん」

「これが静かにしていられるか!見ちゃった!おもいっきりグロテスクなその顔を見ちゃった!もう絶対これ今日の夢に出るぞ!」

「その夢はもういっそのこと諦めて、静かにって!」

「あわわ、なかなかはまりません」

「こらひまわり!こっちに顔を向けるな!ってぎゃあぁぁぁあああ!」

チリンチリンと、店の扉に備え付けられた鈴の音が聞こえた。

「……」

「……」

「……」

その音によって僕ら三人は驚くほどに静かになった。

僕らはおそらくバカなのだろうけれど、それでも頑張ろうと必死だったのだ。

結果、ひまわりの兎顔は背面を向いて、僕がそれを直そうと手を伸ばし、紅糸さんがそれを見ないように必死に手で顔を覆っているときに

空はやってきた。

僕らは全員動きを止めた。音だけではなく、動作までも止めて、空に気づかれないようにした。

しかし残念なことにこの有様では空の様子を探ることは不可能である。

僕は入り口に背を向けているし、ひまわりは兎顔が反対方向を向いていて、それを確認することは不可能だった。

残るは紅糸さんしかいない。

「紅糸さん、紅糸さん」

囁くように紅糸さんに呼びかける。

「な、何だミナギン?」

「空の様子を観察してほしい。僕とひまわりは現状では確認することは不可能だ」

僕がひまわりの兎顔をくるっと回せばひまわりでも観測可能なのだけれど、しかしその動作によって空の興味がこちらに向くとも限らない。

目立った動きはできるだけ避けたい。今更だけど。

「この手を外したら、いきなり恐怖のお面が目の前にとかないか?」

「ないない。大丈夫だから」

そーっと、紅糸さんは顔を覆っていた手を外していく。

「空だ。空がいる」

「空は何してる?」

「店員に何か確認をとっているな。おそらく待ち合わせの人物が来ているかどうかその辺の会話だろう。あっ」

「どうしたの?紅糸さん」

「空と目があった」

日和さんの時と同じく、今度は紅糸さんだが、ともかく空もこちらに視線が向いてしまったようだ。

だ、大丈夫だろうか!?

変装はしているけれど、こんな怪しい集団他にはいないぞ。

僕だってこんな集団見たらきっと怪しいと思う。

怪しいと思い、そしてひまわりを見たあたりでその正体に気づくだろう。

「……空はどんな顔をしているの?」

「『何だあいつ等?』的な、怪訝な顔をしている」

そりゃ必死でリアル兎面の被り物を直そうとしている変装した男がいれば怪訝な顔もする。

……気づかれただろうか?

「あっ、視線外した。うな、意外とチキン野郎だな、空は」

そりゃこんな怪しい集団できれば関わりたくなく、視線は外しておきたいよね。

「おっ、空の奴、日和さんと合流したぞ」

「……何とか気づかれなかったようだね」

そう思いたい。

そう思っていないとやってられない。

……何故日和さんと空を待っているだけで、僕はこれほどまでに疲れなければならないのだろうか?

ともあれ、空の注意はこちらから逸れたようなので、ひまわりの面を正面に戻した。

「ふう、ようやく元に戻りました。さて……」

日和さんと空の監視が始まった。


僕らの席と空達が座っている席とではそれなりに距離が空いていた。

それは良い意味ではこちらが空達に観測されにくく気づかれにくいのだったが、悪い意味では彼らが何を言っているかわからないというデメリットもあった。

というわけで……空達が何を言っているか、全くわからなかった。

かろうじて挨拶していることはわかるが、しかしそこから発せられた音を僕は聞き取ることが出来なかった。

こんなんで監視など出来るのだろうか?そもそも監視など本来必要がないものだろう。

僕と空とは本当に短い付き合いでしかないが、それでもわかる。

空は一般人には手を出さない。一般人には興味を持たない。

興味を持たないから手を出さない。故に無害だ。

それくらい付き合いの浅い僕でもわかるのに、それでもこうして彼らを見守るという行為は、やはり無粋以外に他ならなかった。

空達の会話を聞き取れないなら、もう適当でいいんじゃないかと思っていると、

「挨拶はどうやら普通に済んだようですね」

とひまわりが言った。

「うな?わかるのか、ひまわり?空達の会話が」

「えぇ」

どんな聴力だ?これも身体能力を向上させる『雷華』のおかげであろうか?

「観凪さんは知っていると思いますが、私は唇の動きである程度の会話は読めます」

「本当に読唇術出来たの!」

冗談だとばかり思っていた。

いや、記憶が確かならばあの場での読唇術のくだりは、冗談以外の何物でもなかったはずである。

まさか本当に読唇術を使えるとは……ひまわりおそるべしである。

「幻海師範みたいなやつだな。それで、奴らはなんと?」

「最初の会話は

『悪い、悪い。どうやら待たせちまったみたいだな』

『いえ、そんなに待ってないんよ。それよりも今日はわざわざ私の為に時間を割いてくれてありがとうなんよ』

『昨日も、だぜ』

みたいな感じです」

……どこが普通の挨拶なのだろうか?

空が昨日のことを根に持っているではないか。

見た目そうは見えなくても、実は険悪な空気なのではないだろうか?

「うな!最初の方の会話なんてどうでもいい!今!リアルタイムの会話を頼む!」

「わかりました」

紅糸さんは今の会話を知りたいようだが、僕としては逆にこのまま今までの会話を全て知っておきたかった。

それは話の流れがわからなくなるからか、それとも僕に『記録者』の頃のサガが残っているのか、どちらかはわからないが。

「『あの、空さんの趣味って何なんよ?』」

日和さんはお見合いみたいなことを言っていた。

実際この対面はお見合いに近いものがあるのかもしれないが、まだ若者であるのだからもう少し洒落た言い方というものがあるのではないか?

この問いに対し、空はなかなか回答を発しなかった。

「?何故、空は黙っているんだろう?」

「知らん!空の心なんかわかってたまるか。私は空の趣味さえ知らんしな」

いや、空の趣味は戦うことだろう。戦闘狂なのだから。

そうさっさと言えばいいのだ。

そらは自分の趣味を戦闘ということに躊躇いはないはずだ。

日和さんに興味のない空は、自分がどう思われても構わないはずなのだ。

なのに、空はその問いに回答しない。

「うな~。何をやっているんだ?空は?イライラするな。さっさと答えて次のやり取りに移れ」

空が答えるのが早いか、紅糸さんが爆発してしまうのが早いか……そんなことを思っていると、

空の唇が動いた。

「ひまわり。何て?」

「『オタクはいい』。ですね」

「は?」

空の突然のオタクリスペクト宣言。

見た目に反して空はアキバ系だったのだろうか?

いや、そんなわけがない。

空の格好もそうだが、それ以上にあのゲームの下手さは素人だ。

ゲーム素人の空がオタクリスペクトなんておかしいにもほどがある。

きっとこれはひまわりが読み違えたのだろう。

しかし、それならいったい何と言ったのだろうか?

そうしていると、空の唇がまた動く。

「『おたくからは『あっい』しか感じないぜ』と言っています」

「何、『あっい』って?」

「愛じゃないか?オタクを超愛しているという表現じゃないか?きっとそうだ」

紅糸さんは僕と違って、空オタク論を信じてしまったらしい。

『あっい』……それもきっとひまわりが読み間違えたのだ。

唇の動きを読む読唇術は、必ずしも正確に言葉を読みとれるわけではない。似たような唇の動きをすれば、間違えてしまう可能性はある。

あ段、い段、う段、え段、お段……大ざっぱに言えば口の動きはそれで分けられるだろう。

そう考えると、『あっい』も他の単語に変換できないだろうか?

少しだけ思考してみたが、うまく閃かなかった。

面倒だけれど、一文字一文字当てていくのが確実か。

小さな「つ」は変換の必要がないと思われるから『あ』と『い』を変えて当てはめていこう。

『あっい』、『あっき』、『あっし』と一つずつ言葉を換えて当てはめていく。

そのようなことをしていたからだろうか。

僕は日和さんが黙っていることに気がつけなかった。

僕の頭の中で『あ』の変換が『さ』に到達しようかというとき、ふと紅糸さんが呟きが聞こえた。

「うな?今日和さんは何て言ったんだ?」

どうやら空と日和さんの間に何か動きがあったようだ。

僕は思考を止め、紅糸さんの問いに対するひまわりの回答を待った。

「『空さん……私があなたと話したいと思ったのは二つのことを確認したかったからなんよ』、ですね」

「うな?二つのこと?」

日和さんの唇は続けて動いている。

そして、その唇の動きが止まった。

「えっ?」

ひまわりが驚いたように声をあげた。

唇の動きを読めたひまわりだけが、驚いたように声をあげた。

「どうしたの?ひまわり」

「え?あの、その……いえきっと私の読み違いです。気にしないでください」

「うな。そんなに驚くようなことを日和さんは言ったのか?」

「いえ、だから私の読み違いだと……」

「ひまわり。とりあえずひまわりの読唇術で読んだ日和さんの言動を教えてほしい」

それは単純な好奇心からではなく……

表現しづらいが、陳腐な言い方をすれば、『悪い予感がした』ので僕はそれを知りたがった。

「はい……わかりました。

『一つ目の確認は名前なんよ。空さん。あなたの名前は澄渡空さんで間違いないん?』」

「うな?何故日和さんは名前なんて確認するんだ?昨日、紹介しただろう?」

「……いや、僕は空の名字までは日和さんに伝えていなかったと思う」

「そうですね。観凪さんも私も澄渡さんの名字を日和さんに伝えていなかったと記憶しています」

「うな?そうだったか?誰かにフルネームを紹介した記憶があるんだが……あっ、あれは倉梨ちゃんにだったかな?確かミナギンに部屋を追い出された後、倉梨ちゃんに自己紹介をしたんだったな」

それなら日和さんは倉梨ちゃんから空のフルネームを聞いたのだろうか?しかしだ。何故今ここでその確認をとる必要がある?

何のために、日和さんは空のフルネームを確認したのだ?

「うな。しかし日和さんの唇の動きから紡がれた言葉はそれだけではないと私は推測するが、その辺はどうなんだ?ひまわり」

「あ、はい。これ以降は私の聞き間違いだと思いますが、それでもいいですか?」

「くどい。とりあえず教えろ」

「はい。

『二つ目の確認は澄渡空さん。あなたが『フェンリル』を惨殺した澄渡空か?』

です」

「え?」

「……」

僕と紅糸さんとでリアクションが異なった理由はきっと、紅糸さんはそのことを知っていて、僕がそのことを知らなかったからだ。

驚愕し、場の流れについていけていない僕のことなんて全く気にも留めず、更に場は流れていく。

空の唇が動いたのだ。それはつまり日和さんの問いに答えたことを意味する。

そしてその唇の動きは、読唇術を身につけていない僕でも、空が何と言ったのか読みとることが出来た。

空から放たれた言葉は『あぁ』だと思う。

つまり日和さんの問いに対して肯定の意を示したのだった。



日本における能力者によって形成された初めての組織……それは現在畏怖の念で捉えられている『正義』ではなく『フェンリル』という組織であった。

『フェンリル』の組織が掲げたものは、自らの進化の証明だと言われている。

選民思想……つまりは新たな能力に目覚めたものこそ選ばれた存在という、ちょっと危ない組織であった。

しかし危ないのはその思想だけではない。

彼らはその能力を使いありとあらゆる犯罪を犯した。

軽犯罪なら万引きから、そして殺人に至るまでありとあらゆるものをだ。

当然、その組織に日本の政府が黙っていたわけではなかった。

新たな能力を持つものを止めれる者は新たな能力を持つ者ということで、新たな能力を使った犯罪を罰する組織『正義』を立ち上げたのだ。

新たな能力が目覚めた人間によって形成された組織『フェンリル』。

新たな能力による犯罪に対抗するため組織された『正義』。

二つの組織はその性質上、対立を余儀なくされた。

けれど対立といっても、その闘争は一晩で集結することになった。

どういう経緯がありそうなったかは僕は知らないのだが、『フェンリル』と『正義』は最初の闘争でその全ての戦力をぶつけ合ったのだ。

その時の『フェンリル』の構成員数百人と言われ……

対する『正義』はたったの七人だったという。

そうして対立し、戦争をし、その結果は……

『正義』の圧勝であった。

否、圧勝などという表現では生ぬるい。

『正義』はその力を持って『フェンリル』の人間を全てを虐殺した。

一人残らず、一人の敗走者も許すことなく、全ての構成員を惨殺したのである。

僕が知っているのはここまでである。

ここまでで、『正義』の怖ろしさだけしか知らなかった。

そう、僕は知らなかったのだ。

実は『正義』は『フェンリル』との戦争に七人総ての戦力をもって応えたわけではなかったことを。

あの惨劇が澄渡空、一人によって行われたことを……僕は知らなかった。



その後の展開を、僕はそれをはっきりと視認することが出来なかった。

その場にいた者達の動きが速すぎて、僕の目で捉えることが困難だったからだ。

傍観者として、そして語り部として物事を正確に伝えられないと言うのはその存在自体を疑うかもしれない。

しかし皆が皆人間離れした動きを見せたのだから、詮のない話なのだ。

とは言うものの曖昧な情報をお伝えするのは僕としても誠に遺憾なので、ここからは全ての展開を正確に見ていたひまわりから聞いた話を加え、構築した話である。

まず、始めに動いたのは日和さんだった。

日和さんは空の肯定の言葉を聞いた途端立ち上がり……そして空に何かを突き刺すような動きをした

突き刺そうとした何かはわからない。

それは日和さんの動きがあまりにも速かったから、ではなく見えなかったからだ。

見えない。

右手がそれを握っているのはわかる。

パントマイムなどではなく、その握りがあまりにも強いためか手の平の血色が変わっているのがわかったからだ。

だというのに、その何かが見えない。

『透明化』。

即座に僕は日和さんが能力によって、その握っている何かを見えないようにしていることに気づいた。

僕が能力の型を変更しようと思ったときには、もう展開は次に向かっていた。

まずひまわりが席を立ち、空と日和さんの元に駆けつけようと試み、そして紅糸さんは何らかの具現化を始めていたらしい。

そして、日和さんは……

空に何かを突き刺そうとした日和さんは……

右腕があらぬ方向に曲がった。

『ばきっ』と嫌な音がここまで聞こえた。

折れたのだ。それはわかる。

見ればそんなものは一目瞭然だ。

一目瞭然であるというのに、僕にはその原因がまったくもって理解できなかった。

空は、何も動いていないのだ。

なのに、日和さんのその腕は空に到達する前に、無惨に折れてしまった。

何かにぶつかったように。その反動で折れてしまったように僕は見えた。

もちろん、その何かなどそこにはない。

日和さんが痛みに気づき、苦痛により顔を歪めるよりも先に、

空が、

ひまわりが、

紅糸さんが、

腕を振るい、

空の元に到達し、

空と日和さんとを分けるように紅い壁を具現化した。

「ちっ!間に合わなかったか!」

そう声をあげたのは紅糸さんだった。

その時の僕は紅糸さんのその言葉の意味が分からなかった。それに空と日和さんの目の前に紅い壁を具現化したのもだ。

しかし意味がわからないのだったら、他の二人の行動も然りであった。

何故空が腕を振るったのか、何故ひまわりが空の元に駆け寄ったのか……事態は僕の理解を置いてどんどんと先に進んでいった。

一番初めに行動の意味がわかったのはひまわりであった。

ひまわりは空の元に到達すると、その後の動きは正に疾風怒濤であった。

疾風怒濤の勢いで空を殴り倒したのだ。

ひまわりの姿を視認した空が呆気にとらわれると同時に、能力によって強化された拳と蹴りと肘の見事な三連撃。

見ているこちらがほれぼれとするほどの美しい動き。ただ、まぁ美しい動きだからといって自分がそれを喰らいたいとは思わないが。

ひまわりの容赦ない三連撃を受けた空は意識を失い、上半身がテーブルへと倒れ込んだ。

「ミナギン!我々も行くぞ!日和さんが危ない!」

状況についていけない僕は半ば強引に、紅糸さんに引っ張られる形で席を立たされた。

手を引かれながら日和さんを観測し、そしてようやく気づく。

日和さんの様子がおかしいことに。

日和さんは手を突きだした状態から何も動いていなかった。

それは単に位置の問題だけでなく、表情も動いていなかった。

右腕が無惨にも折れ曲がっているのに、苦悶の表情すら浮かべていなかったのだ。

そうして、僕らが日和さんのところに到達するよりも前に、日和さんの来ていた制服の胸元がまるで鋭利な刃物で切られたように、『パカっ』と割れ、そしてそこから微かに見えた肌も、それに呼応するかのように、割れ……

そこから血が吹き出した。

日和さんが床に倒れた。

同時に響く叫び声。それは僕らの声ではなく、事態の一部を見ていた店員の叫び声であった。

何がどうなっているのか、全然わからない。

頭が混乱する。かつてないほど混乱する。

「空の能力だ!奴の能力はいかなる攻撃も無効化し、いかなる防御をも切り裂く!」

混乱している僕に、状況を少しでも理解させるためか紅糸さんが説明を始めた。

空の能力?絶対攻撃力と絶対防御力を持つという空の『天断』。

どういう原理によりその二つが成り立っているか、僕は『天断』の能力を診断していないからわからない。

しかし、今考えることは空の能力じゃない。

僕は紅糸さんの手を振り払って、自分の足で日和さんの元へと駆けだした。

店内はそこまで広くないのですぐに日和さんの元へとたどり着く。

そして何よりもまず、日和さんの生死を確認した。

傷は決して浅くない。

意識は失っているし、切り裂かれた胸からは止めどなく出血している。

だが、生きていた。

日和さんはまだ生きていた。

それだけが確認できれば充分だ。

おそらく僕は治療後、治療の反動の痛みによって意識を失うだろう。

下手すれば痛みのショックで、死んでしまうかもしれない。

しかし、そんなデメリットなんてどうでもいい!

今、救える命がそこにあるのならば、ただ救うだけだ!

僕は日和さんを治療し、そして案の定、治した反動による痛みによって意識を失った。



「診断からノータイムで治したか。流石ミナギン。決断が恐ろしいほどに早いな」

「紅糸さん。二人は大丈夫ですか!?」

「うな。幸い、二人とも脈がある。もっとも二人とも意識は戻らないがな」

「こっちも同じ状態です。そうは言っても、空さんには意識が戻ってもらっては困るんですけどね」

ひまわりは空の首根っこをつかんで引きずっていた。意識が戻っては困ると言いながら、その扱いはかなりぞんざいなものである

「それにしても、ひまわり。お前の動きは早かったな。空が日和さんに攻撃するモーションをとる前に動きだすなんてな」

「空さんの考えは単純ですからね。想像しやすいです。でもそれを言ったら紅糸さんだって同じじゃないですか?空さんが攻撃するよりも前に防御壁を具現化し始めたじゃないですか」

「空の思考はとても単純だからな。わかりやすいから対応は簡単だ。しかし、結果具現化は間に合わなかったみたいだがな」

「いえ、壁が出来たことで空さんの注意は逸れ、日和さんは致命傷を逃れられたんです。私の行動は後手の行動ですが、紅糸さんは空さんの先手をとったんです」

空の『天断』の前では全ての防御能力は無意味だ。

それをわかっていた紅糸は防御目的の壁ではなく、目くらまし目的の壁を具現化したのだった。

それ故に、空は手元が狂い日和を殺しきれなかった。

しかし紅糸は空の攻撃を完全に逸らすことが理想であり、つまりこの結果は成功でも失敗でもあった。

「……うな。辺りが騒がしくなってきたな」

血を流して倒れた人物が一人。殴られて倒れた人物が一人。そして傍目からには他人の出血のショックによって倒れたと見られている人物が一人(観凪)。

これだけの暴力騒動が起きれば、野次馬が騒ぐのも当然である。

店員の一人は今まさに電話で警察を呼ぼうと試みている最中であった。

「うな!騒がしくして申し訳ない!でもこれ自主作成映画の撮影だから全くもって気にするな」

そう宣言した紅糸の手には小型のビデオカメラのようなものが握られていた。勿論それは真っ赤であった。そして勿論それは紅糸が具現化したダミーのカメラで、録画機能などあるわけがなかった。

そうしたことで一端は場が落ち着く。

「紅糸さん、よくこの場でそんな嘘が思い浮かびますね」

「師匠に遣えていた時はこんな事態日常茶飯事だったからな」

「師匠?紅糸さんには師がいたのですか?」

「うな?そりゃいるが。基本の構えなどは師匠から教わった。それ以外にもサバイバルスキルとかも師匠譲りだ」

「道理で食べられる野草とか詳しかったわけですね」

「まあ全部師匠譲りだ。ところで、いくら場が落ち着いたとはいえ、このままここにいるのはまずいな。きっとそろそろ店長がきて怒られてしまう」

「それでは撤退しましょうか?」

ひまわりは空を肩に担いで、更に空いた腕で観凪を抱いた。

紅糸は『紬糸』を使い、自分の背に日和を固定して、いつでも逃げ出せる準備は完了した。

「あ、お茶などの代金はどうしましょうか?」

「えぇい!めんどくさい!空の財布から有り金全てを置いておけばいいだろう」

そう言いながら空のポケットを漁る紅糸。

直ぐに目的の物を発見し、中を確認すると……

「うな!こいつ結構持ってるぞ!」

「あわわわ、万札だらけです」

空の財布には一万円札が十枚近く入っていた。自然と二人は「ごくり」と唾を飲み込んでしまった。

「……とりあえず、一万円あれば日和さん、空を含めた全ての人物の代金に足りるな?」

「はい、足りますね」

一万円をテーブルに置く。

「おっ、不思議なことにまだお金が余っているな」

「不思議なことに余ってますね」

「これは余ったお金だから、我々が頂いても問題ないな?」

「問題ないですね」

「じゃあ折半で」

「じゃあ折半で」

そう言って、二人は残ったお金を仲良く折半した。

争わず事が解決できる二人はとても平和的思考を持ち合わせていた。

道徳があるかどうかは別として。

「……紅糸さん」

「何だ?ひまわり」

「日和さんはいったい何者なんでしょうか?」

「う~なぁ。少なくとも私の学友であることは間違いないようだが」

「空さんは、澄渡空という名は裏の世界ではかなり名の通った名前です。『世界脅威』ですからね。殺し屋『十死』よりも有名かもしれません」

「コロシヤ『ジュウシ』?何だ、それ?うまいのか?」

「うまくないです。とにかく空さんの名は裏の世界では結構有名です。けれど、『フェンリル』を一人で壊滅させた話は世に出回っていないはずです」

『正義』は『フェンリル』を壊滅させたのは当時の構成員七人で行ったものと情報を流した。

それは決して『正義』の名を上げるためではなく、澄渡空という人間一人に責任を押しつけないためである。

能力者百人以上を一人で惨殺した能力とその思考。

いかなる権限が認められていると言われているが、物事には限度がある。空の異質を世界が許容するわけがなかった。

だから、『正義』は隠したのだ。

澄渡空の所行を。

「私は空本人から直接聞いたぞ。こいつバカだから自分で言い触らしているんじゃないか?」

「可能性は低いと思いますよ。空さん、『フェンリル』との話はあまりしたがらなかったですから」

「まあそれは、皆が目覚めてからゆっくりと聞き出せばいいだろう」

「疑問はもう一つあります。もっともこちらは推測がついていますが」

「ほうな。もう一つの疑問とは何だ?」

「日和さんは何故空さんに襲いかかったのでしょうか?」

「うな。それは、十中八九答えが出ているな」

「はい。十中八九答えは出ています」

「まあ推測はあくまで推測であって、推測の域を出ることはないからな。その辺も併せて聞き出せばいいだろう」

そうこう話していると、店長らしき人の姿を二人は視認した。

視認した瞬間、目にも留まらぬ速さで二人は喫茶店を後にしたのだった。

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