自分の意見はしっかりと伝えよう
静寂な世界に電子音が響きわたる。
それによって僕は強制的に目覚めさせられる羽目になった。
静寂な世界を壊したのは携帯電話のアラーム機能。携帯電話の着信音にこだわらない僕のアラームはピピピピピというひどく味気ない音であった。
その味気ない音がやけにやかましく感じる。
十秒近く携帯電話を放っておいたのだけれど、次第に一定のリズムを刻んでいるのに不快なその音が耐えられなくなり、携帯電話を操作してその音を止めた。
そうすることで、必然的に身体を起こし、目も冴えてきた。
さて、静寂な世界が戻ってきた。
隣の部屋の音さえ聞こえてこず、自分の鼓動の音が聞き取れる。
静かで穏やかな世界。
ここしばらく、疎遠になっていた世界。
心落ち着くような状況だというのに、何故だろうか?
全く心は落ち着かない。
紅糸さんとひまわりがゲームをする音が聞こえなく快適なはずなのに、料理初心者のひまわりの作る朝ご飯がうまくできるか心配しないで済んだはずなのに、ゲームをしていない朝は基本的に寝坊の紅糸さんを起こすこともないのに、何故だろうか?
疎ましく思っていたはずのことがひどく懐かしく思える。
僕にとって、紅糸さんやひまわりといる朝が日常となっていたようだった。
両親といたあの時と同じように。誰かと一緒にいることが僕の常になった。
それは求めると同時に避けてもいたことだ。
失うのは怖いから。
失ってなくしてしまうのは悲しいから。
僕はその温もりから避けた。
避けて独りで過ごしてきたけれど、紅糸さんとひまわりの強引な手によって、僕らは三人になった。
三人……あの時と同じ三人の生活。
もうこうなってしまえば後には戻れない。
僕は彼女たちを失いたくない。あの時と同じ思いをしたくはない。
独りのときと比べると僕は格段に弱くなった。紅糸さん達を失いたくないと思う気持ち。それは確実に弱点だ。
しかしだからこそ強くありたいと考えるようにもなった。
失いたくない。僕自身も死にたくないと思えるようになった。
……今日の『蒐集家』との戦いは、おそらく僕ら三人が遭遇してきたイベントでも最大のものになる。
僕らのうちの誰かが欠けてしまうことも大いに有りうる。
それは僕の願うことではない。
故に。
僕は自分の力を充分に発揮しなければならないと考えていた。
紅糸さんがいなくなった後、そんなことを考えていた。
僕の能力は単に治す能力ではない。
『時観』、『時戻』、そして『眠り病』。
これらをひとまとめにしてTYPE-Aと僕はカテゴライズしている。両親と彼女の能力を忘れないようにと、最重要の能力として自分に意識させている。もっとも彼女の『眠り病』はオリジナルだと大分容量を喰ってしまし、オリジナルの使い道に僕は何の意味も見いだせなかったのでかなり能力を改造しているのだけれど。
TYPE-Aは治癒が主な力である。
両親の意志を継ぐように出来た能力。
故に戦闘能力は皆無に等しい。
RPGなどのゲームでは必須の能力なのだろうけど、いかんせん傷の痛みを感じてしまうため大きな傷が治せない。
『蒐集家』は世界最強といわれる強者だ。
僕らがどれだけの傷を負うかわからない。もしかすると、僕が治せないほどの傷を紅糸さんとひまわりが負う可能性も否定できない。
できるだけその事態は避けたい。
大事な人が傷つく姿をもうこれ以上見たくない。
だから、TYPE-BあるいはTYPE-Cの能力を使い彼女たちを支援しようと僕は考えた。
出来るだけ後悔はしないように、持てる力全てを使うと心に決めたのであった。
さて、物思いに耽るのはいいが時間は確実に流れていた。
そもそも目覚ましというのは通常、「このぐらいの時間に起きなければ間に合いませんよ」という時間に設定しているわけで、そんな時間に起きたのにも関わらず物思いに耽ってしまった僕は、耽った後に見た時計の針に吃驚仰天だった。
というか、いつものペースで朝の支度をしていたら確実に遅刻してしまう!
僕は普段の三倍(当社比)のスピードで朝の身支度を終え、部屋を飛び出した。
朝食を食べる余裕はなかった。
だからといってトーストをくわえながら「遅刻、遅刻」などということは、もちろんしない。あんなの現実にする人間など存在しない。
朝食は抜きだ。
健康面やダイエットなどの観点から、朝食を抜くことは良くないことだと聞くけれど、時間がないから仕方がない。
とにかく走る。走る。走る。
こんなときひまわりの強化系能力『雷華』があればいいと切に思う。
あの能力ならば、学校まですぐにたどり着いてしまうだろう。
でもあの能力、反動が凄いからなぁ。
ひまわりの能力『雷華』は滅茶苦茶なスピードで動き、ありえないほどの力を出せる能力だ。著しい身体能力の強化……しかしもちろんデメリットはある。
能力使用後の身体にかかる反動だ。
普段以上の動きを強制させられた身体はその動きに耐えられずダメージを喰らう。
筋肉痛程度の傷みならまだいいのだけど、僕の見立てでは『雷華』の動きは骨までも砕きかねない。
それならば何故ひまわりが『雷華』を使用しても大丈夫なのかというと、単純に基がしっかりしているからである。
頑丈なのだ。ひまわりの身体は。
一体全体、あの小さな身体のどこにそんなポテンシャルが眠っているのかわからないが、少なくとも僕なんかと比べものにならないほど身体がしっかり出来ている。
それは生まれついてのものなのか、はたまた鍛錬によるものなのかは僕に判断はつかない。
まあともかくひまわりは凄いということだ。
おそらく能力を抜きにしての戦いならば、僕らの中でひまわりが一番強いだろう。
ひまわりは凄い。引きこもりで人見知りでニート希望でなければ、僕はひまわりに尊敬の念を抱いていたことだろう。
しかしながら世の中はそううまくいかなくて、ひまわりは引きこもりで人見知りでニート希望だったので、僕はひまわりに対して全くと言っていいほど尊敬の念は抱けないのだった。
グダグダとひまわりの能力について考察したけれど、要は僕がひまわりの『雷華』を使えたとしても、身体が追いついていかないので無理という話。
よって、僕は自分のこの足でしっかりと地を蹴って先に進むしかない。
目の前に十字路が見えた。
減速して安全をよく確認しなければいけないのだけれど、そんな余裕はない。
僕は十字路をフルスロットルで駆け抜けることを決定した。
「うわーん!遅刻しちゃう!」
「!!」
十字路から突如遅刻キャラが現れた!
僕と同じように急いでいて走っていたらしく、突然の出現。
僕はそれに対応出来るわけもなく、減速も間に合わず……
「遅刻……うわ!あ」
「だー!ごめん!」
謝罪の言葉を述べながら、僕は遅刻未遂の同志に激突した。
互いに吹っ飛ばされて、互いに尻餅をつく。
「ふにー。痛いよぉ。蒼巳君」
「ごめん。識桜」
ぶつかった相手は僕の知り合い、識桜桃花だった。
識桜桃花……僕とは中学からの付き合いで、僕の知り合いの中では一番長く交流があるのが識桜だ。故に僕と識桜は互いに気心の知れている仲である。そうは言っても、紅糸さんやひまわりと一緒に暮らしていることはさすがに識桜といえど教えることは出来ないが。
識桜とは同じクラスで、紅糸さんとのあの出会いがある前は、よく一緒にご飯食べたり一緒に登下校したりしていたのだけれど、最近は紅糸さんに付き合ってばかりなので、識桜とは少し疎遠になってしまっていたりした。
まぁ、僕と識桜はただの友達なので少しぐらい疎遠になったからととやかく言わないだろうけど。
それでも、僕は識桜との仲を保ちたいと思っていた。
一番長い付き合いのある友人であるし、それに識桜は良い奴だから。
「大丈夫か?識桜?」
僕は立ち上がり識桜に手を差し伸べた。
そこで気づく。
識桜の口にはトーストがくわえられていた!
僕は先ほどの考えを改めなければならない。
トーストをくわえながら走る遅刻キャラは存在した!そしてそれはよりにもよって、僕の友人だった。
「えへへ。ありがとうだね。蒼巳君」
手を差し伸べてくれたことに感謝を言いながら、識桜は僕の手を取って立ち上がった。
しかし僕にとって識桜の感謝の言葉や立ち上がったことなどどうでもいい問題になっていた。
識桜の遅刻キャラに言及しなければならない!
「識桜……」
「でも蒼巳君、気をつけてよね。交差点とか見通しの悪いところではよく安全確認をしなきゃダメだよ。ぶつかったのが私だったから良かったものの、車とかだったらどうするの?」
識桜だって安全確認をしていなかったじゃないか、というツッコミもどうでもいい。
「識桜……それは何だ?」
「うん?それって」
「その……今食べているやつだよ」
識桜は僕との会話中も食事を中断することはなかった。
中断せず喋っていた。
器用な奴だと思う一方、マナーが悪い奴とも思っていたが、そもそも走りながら朝食をとっている時点で最悪のマナーであった。
「あ、パンのこと?えへへ、ちょっと朝時間がなかったから仕方がなく走りながら食べることにしたのぉ。移動しながら朝食もとれる。これって一石二鳥?画期的な発明だと思わないかな?」
「走りながら食べるなんて行儀が悪いと思わないのか?」
「確かにお行儀が悪いとは思うけれど、背に腹は代えられないんだよ!だって朝を抜くと健康に悪いんだよ!そしてそれ以上に太っちゃうのが恐ろしいんだよ!朝抜くと昼食べたときに、朝食べられなかった分栄養を吸収しようとして大変なことになっちゃうの!ダイエットマンの私にとっては朝食抜きは死活問題なの」
「識桜は女の子だからダイエットウーマン」
「あ、てへ。間違えちゃったね。とにかくダイエットウーマンのこの識桜桃花にとっては朝食は抜いちゃいけないものなのさ」
識桜が朝食を抜けない理由はわかった。
わかったのだけれど……
僕は識桜に忠告をしなければならない。
「識桜……朝食をとらなければならない理由は理解した。理解したけれど、トーストをくわえて走るのはダメだ。今度からゼリー飲料などにしてくれ」
「うん?どうして?」
「トーストをくわえながら走って、もし誰かとぶつかったら、フラグが立つからだよ」
「フラグ?立つ?」
「しかもそのぶつかった相手が転校生とかだったりしたら、その運命は不可避のものになる。僕は識桜のことが好きだから、軟派な奴が識桜の彼氏になるなんて許せないんだ」
「え?あ、なぬ?」
うん?
識桜がどうしてか赤い顔をしているが、僕は何か変なことを言っただろうか?
自分が今言った言葉を反芻してみる。
……………………………………………………うな!
僕、とても恥ずかしいことをさらっと告白している!
「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、蒼巳君。そ、そのね、その、私」
「え、え、違う。好きってあの、恋人同士の好きじゃなくて、友人として好きって意味で……」
「あ、うん。あ、あの、え、えへへ。わかっててもそう言われちゃ恥ずかしいものなのです」
「言った僕も滅茶苦茶恥ずかしいことに気づいたよ」
きっと僕も顔が真っ赤だろう。
僕と識桜はなんだか妙な雰囲気で、適当ににへりにへり笑ってその場を誤魔化した。
「とにかく、トーストくわえて走るのは非常に気をつけてよ。今回は僕だったから良いものの、変な奴だと誤解される」
「よくわからないけど、フラグが立つ?とかいうの?」
「そうそれ?」
「ぶつかるとフラグが立つの?それじゃあ蒼巳君もフラグ立った?」
「いや、それはない」
知り合いとぶつかっても、滅多なことがない限りフラグは立たないのだ。
「うーん。難しいね。まあよくわからないけれど気をつけるよ」
「うん。頼むよ」
話も一段落ついたので歩きだそうとしたところ、識桜が顔をしかめた。
「あ、イタタタ」
「もしかしてどこかぶつけた?」
「おもいっきり尻餅ついちゃったから、お尻が痛いよ」
「それはごめん。治すよ」
「ありがとう、蒼巳君。治してぇ」
そうして止まる僕と識桜。
……なにをしているんだ?識桜は?
識桜が動いてくれないと、どうしようもないというのに。
「……あ、あれ?蒼巳君、治してくれないの?」
「いや、治したいけどさ」
「それじゃあ早く治してぇ」
「治したいからさ、患部を見せてくれないと」
「カンブ?」
「怪我したところってことだよ」
「怪我したところ?…………見せる?」
識桜の表情が凍る。
さっきから何だというのだ?
さっさと患部を僕に見せれば、治せるというのに。
…………うん?患部?
「………………」
「………………」
「………………」
「………………」
「………………患部お尻だった!ごめん!識桜!」
「か、患部お尻だよ!どうしよう!?蒼巳君!」
「と、とりあえず服の上から看てみるよ」
「で、でもそれじゃあ、正確な診断が出来ないんじゃないの?やっぱり脱いでお尻を見せるしか……」
そう言いながら、スカートをまくろうとする識桜。
ちょ、道中でなにをしようとしているのか!こいつは!
女の子のスカートをまくらせている男なんて、端から見たら変態以外の何者でもないというのに!
「落ち着け!識桜!スカートまくらなくても、それなりに正確な診断出来るから!」
「だ、大丈夫!私のお尻、おかしなところなんてないもん!人に見せても大丈夫なお尻だもん!モウコハンとかないもん!」
確かにこの歳でモウコハンが有るとは思わないが……
スカートをまくろうとする女の子に、それを必死に止める男の子。
非常にシュールな画であった。もう涙が出てしまうほどに。
しかし、識桜は確実に混乱していた。
ドラクエならメダパニ、FFならコンフェの状態だ。
心なしか、目がぐるぐると渦巻き状に回っているようにも見えた。
仕方がない。
識桜の意志とかそんなもんは抜きにして、早く治してしまおう。
僕は識桜の患部(お尻)を観る。『時観』の力で過去の状態を観て(勿論スカートの上からである)、『時戻』の力で元の何でもなかった状態へと戻す。
ふう。一件落着。
……だというのに識桜はいっこうに収まらなかった。
「私のお尻安産型なんだもん!元気な子いっぱい産めるんだもん!」
「識桜。落ち着け!もう治した!」
「よく観察しているわけではないけれど、きっと卵みたいな………………………………………え?もう、治した?」
「うん。ほら、もう痛まないだろ?」
「……………あ、本当だ」
識桜はお尻をさすって確かめた。
「さすが蒼巳君だね。名医、名医」
「いや、どうもどうも」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「うわーん!恥ずかしい!」
識桜は自分の混乱状態を思い出したようで、顔を真っ赤にして転げ回った。
紅糸さんとひまわりよりはましだけど、識桜も相当変な奴だった。
遅刻寸前だったのを忘れていた。
忘れていたので遅刻フラグの話や、識桜のお尻で盛り上がっていた。
その盛り上がりのせいで完全に遅刻だった。
もう担任は出欠を取り終わっている頃だろう。
僕の名字は『蒼巳』だから必ず最初に呼ばれる。まぁそういうことを抜きにしても到底間に合わない。
そういうわけで、僕は諦めた。
走って遅刻しないように頑張るという試みを諦めた。
識桜も諦めた。
お互い皆勤賞を狙っていたわけではないし、また優等生というわけではないので一時限目の途中から参加すればいいだろう。
「それにしても……」
ぶらぶらとゆっくりと歩き出すと、不意に識桜が口を開いた。
「珍しいね。蒼巳君が遅刻だなんて」
「そうかな?」
「そうだよ。というか、私の記憶が確かならば高校に入ってからは初めてじゃないかな?蒼巳君が遅刻するの?」
「識桜の記憶程あてにならないものはないと、僕は言いきれるよ」
「うー。それは酷いんじゃないかな?」
とは言うものの僕の記憶も確かならば、僕は高校に入学してから遅刻、早退は一切なかった。
休みはしたことはあったが。
基本的に真面目な学生なのだ。一般的な……一般的な学生を装った、真面目な学生を装った人間なのだ、僕は。
「中学の頃はよく遅刻や早退していたよね。蒼巳君は」
「また古い話を」
中学の頃の僕は学業なんかよりも優先すべきことがあった。
学生の本分は学業であるなんて戯れ言を平気で大人は言うのだけれど、そんなことはない。
学生であろうと何であろうと、目標があるのならば、それ以外の全ての物事をないがしろにしてでも、その目標のため走るべきなのである。
僕と彼女はそうした。
僕は必要最低限の授業しか受けなかったし、彼女に至っては義務教育を拒否した。
そこまでしたのだけれど、僕と彼女は目標に到達しなかった。
よくある話だ。挫折させられることなど。
まぁ、まとめると、中学の僕は不良少年だったという話だ。
幸いなことに僕の義理の両親はそういうことには大らかな人だったので、咎められることはなかった。
しかし、僕と彼女はやっぱり咎められるべきだったのかもしれない。
あんな形ではなく、誰かに咎められれば……いや、無理か。
それに過去について「if」を考えるのは愚かなことだ。
終わってしまったことは、終わってしまったことでしかないのだ。
「……ごめんなさい。蒼巳君」
突然識桜が謝ってきた。
「え?どうして謝るの?識桜」
「だって蒼巳君、怖い顔していたから」
「そんな顔していた?」
「中学の頃のこと思い出しちゃったんだよね。話題に出すべきじゃなかったね」
「……」
中学の頃、僕の義理の両親は亡くなった。
病気や寿命などではなく、殺されたのだ。
殺人鬼によって。
人体をバラバラにされ、そしてその一部は殺人鬼に**れた。
そして同時に僕の大事なパートナーも殺された。
同じ殺人鬼に。
災厄の殺人鬼……『喰鬼』に。
識桜はこの話題を知っている数少ないクラスメイトだ。
もっとも識桜は世界脅威である『喰鬼』に僕の両親が殺されたということまでは知らないだろう。僕のパートナーである彼女も同じ殺人鬼に殺されたことも知らないだろう。
識桜がわかっていること。
それは僕にとって中学の話が禁句であること。
だから識桜は謝ったのだ。
故意ではないにせよ、僕の辛い記憶を掘り返してしまったから。
「話題、元に戻すね。珍しいね。蒼巳君が遅刻だなんて」
識桜はまるで時間が戻ったかのように、同じ表情と同じ言葉を紡いだ。
実際、時間を戻したかったのかもしれない。それは僕に過去を思い出さないようにという識桜の優しさだった。
「夕べ、夜更かしとかしちゃったのかな?」
「いや、夕べは早く寝たよ」
だから僕も何事もなかったかのようにそれに応えた。
気を使ったり使われたりは本来の僕らの姿じゃない。
出来るだけ早く本来の僕らに戻れるように、識桜に合わせたのだった。
「あれ?そうなんだ。私は昨日すこし夜更かししちゃってね。おかげで今日寝坊しちゃったの」
てへへ、と識桜が舌を出した。
「じゃあどうして遅刻しちゃったの?あ、もしかして夢見が悪かったとか?夢見が悪いからもう一度寝ちゃおう、って二度寝したら遅刻しちゃったとか?」
「いや、夢見は悪くなかったよ」
もっともどんな夢を見たかまでは覚えていないが。
少なくとも悪夢ではなかったと思う。
「あれれ?そうなんだ。私は夢見も悪くてね。体育があるのに体操服忘れちゃってあたふたする夢。寝坊の上に夢見も悪いなんて、朝からかなりブルーだったよぉ」
ちなみに、つい最近識桜はその夢と同じことをしでかしていた。
おそらくあの時のトラウマが心の奥底では忘れることが出来ず、夢という形で現れたのだろう。
と、どうでもいい識桜の夢診断をしてみた。
「うーん。わからないなぁ。降参だよ、蒼巳君」
識桜が両手を上げて降参の意を示した。
だから、いつからこれはクイズになったのだろうか?
以前も似たようなことがあったのだけれど、もしかすると識桜はクイズが好きなのだろうか?
幸いなことに今回は紅糸さんがいない上、答えを教えても何ら問題がない状況だったので、素直に識桜にそれを教えることにした。
「起きて少し考え事をしていただけだよ。気づいたら出なければいけない時間だったんだ」
「蒼巳君がそんなのろま子ちゃんなことを?聡明な蒼巳君からは考えられない事態だね」
「過大な評価ありがとう。識桜」
僕らの周りには僕を過大評価する人間しかいないのだろうか?
僕のことを高く評価してくれることは嬉しいが、過度の期待はストレスでしかない。
たまには僕に期待しない人間が欲しいものである。
「そんなのろま子ちゃんな蒼巳君は朝何を考えていたのかな?紅糸さんのことかな?」
どういう経緯でかはわからないけれど、この識桜は紅糸さんと僕が付き合っているという勘違いをしている。
というかクラスメイト全員がそういう勘違いをしている。
というか学校中の人間がそういう勘違いをしているということをこの間知った。
確かに、紅糸さんから「世界征服をしよう」と誘われた時から、僕と紅糸さんは接する機会が非常に増えた。
一緒に登校する時もあったし、休み時間も結構一緒の時間を過ごしたし、昼ご飯は必ずと言っていいほど一緒に食べているし、一緒に下校もしているし、極めつけは一緒に暮らしてもいる。
最後の項目は皆知らないことだけれど、だけどそれ以外の項目を見ても付き合っていると勘違いされるのはしょうがないかもしれない。
しかし付き合ってはいないのは真実なのだから、僕は口を酸っぱくしてその勘違いを正そうと努力しているのだけど、それが実を結んだことはなかった。
よって未だに識桜は勘違いしていたりする。
もうここまで来ると訂正するのも面倒なので放っておいたりする。
けれど、識桜もたまには鋭い時がある。
僕の考え事は紅糸さん個人のことじゃないけれど、紅糸さんが関連することには違いがないからだ。
まあでも、識桜には紅糸さんのことで悩んでいるわけじゃないと言っておかないとまた言われもない噂が立ってしまう。
「紅糸さんのことじゃないよ。ちょっと厄介事があってね」
「アッガイ事?」
「そのネタはもういいよ!」
「あう!まるで以前同じボケをされたことがあるようにつっこまれた!」
実際同じボケがされたことがあった。
その相手はひまわりだったけれど、そんな低レベルのボケを二回も聞かされるこっちの身にもなってもらいたい。
ツッコミも厳しくなるのは至極当然のことなのである。
「それで厄介事って何かな?私、何か手伝えることある?」
「残念ながら識桜に手伝えることはないかな」
一般人である識桜に『世界脅威』の話は出来ない。
識桜の申し出は嬉しいが、ここは素直に答えることにした。
「そうかぁ。でも何か私に手伝えることがあったら言ってね?私結構お手軽に手伝うキャラだから」
「ありがとう。その時は頼むよ」
「うん!」
そうして会話をして歩いていると、僕の目に公園が見えた。
先日、紅糸さんに連れてこられた公園だ。
紅糸さんの能力によって作られた遊具はすでに存在せず、まっさらになっていた。
遊具が何一つない公園。
確かにこの光景はどこか寂しい雰囲気である。
そんな寂しい光景に少女が一人ポツンと立っていた。
小学校低学年ぐらい……赤いランドセルを背負っているから、多分年齢はそのぐらいで間違いないと思う。
少女が一人佇んでいる光景。
僕はそれがおかしなことに思えた。
公園に子供がいるのは普通はおかしなことではない。けれどこの公園には遊ぶ物は何一つないし、それに時間的にもとっくに学校に登校していなければならない時間だ。未だに登校していない僕が言える問題でもないけれど。
状況的に考えて、少女がこの場にいることはおかしなことなのだ。
それに……それにもうひとつ。もうひとつ引っかかることがある。
「うん?蒼巳君、どうしたのかな?……お?」
しまった!識桜に公園にいる女の子を見ていることがばれてしまった。
識桜のことだから、きっと……
「可愛らしい女の子がいるね。ロリコンの蒼巳君が好きそうな」
「ロリコンじゃねえよ!」
僕は万人に優しいだけでロリコンではない!
どうして識桜はそのことをわかってくれないんだ!
「でもじーっと見ていたでしょう?いやらしい目で」
「僕がいついやらしい目をしていたか!それよりも、識桜はおかしいと思わないの?」
「何が?」
洞察力というものが全く皆無な識桜であった。
「こんな時間にこんな場所に女の子が一人でいることについてだよ」
「あっ、そうだね。おかしいね。もう学校始まってる時間だもんね。うーん、誰か待っているのかな?」
「遅刻することを厭わずかい?そいつはあの女の子にとって随分大切なやつなんだな」
「彼氏とかかな?」
「小学校で彼氏彼女の関係?ちょっと早いんじゃないのかな?」
「もう、考え方古いなぁ、蒼巳君は。最近の子は蒼巳君が思っているよりずっとませているんだよ」
「そういうもんかね」
僕と識桜が女の子を観察しながらそんな会話をしたいたせいで、その女の子は僕らのことに気がついたようで、こちらを向いた。
女の子と目が合う。
やっぱり引っかかる。
僕はこの女の子とどこかで会ったことがある気がするのだ。
しかもつい最近だ。
しかしこんな小さな女の子と交流する機会なんてあっただろうか?
記憶の糸をたどっていると、女の子がこちらに駆け寄ってきた。
ようやく待ち人が来たのだろうかと、辺りを見回すけれど人影はなかった。僕ら以外に。
…………え?うん?どういうことだ?識桜の知り合いなのだろうか?でも識桜は女の子のこと知らないようだったし。
女の子が僕の目の前にやってきた。
女の子が僕を見つめる。
「どうやら待ち人は蒼巳君だったみたいだね」
「え?えぇ!?」
「やっぱりロリコンだったんだね」
「ち、違っ」
本当に違う!濡れ衣もいいところだ!
僕はこんな子知らないし………いや、どこかで見たことはあるのだけれど、ともかくロリコンという事実はないのだ!
「あ、あの!」
「!!」
少女が声をかけてきた!
必然的に僕の身体は強ばる。
いったいこの子は何を言うつもりだ?僕をどうやって貶める気なのだろうか?
等とネガティブな考えしか浮かばなくなっていた。
「あの。この間ここで遠藤君を治したお兄さんですよね?」
「この間?遠藤君?」
僕のネガティブな考えとは異なり、少女から出た言葉は僕を貶めるものではなかった。
とはいうものの、はてさて?遠藤君とは一体誰だろう?
聞いたことあるようなないような……
今一つその名前に覚えはなかった。
「えっと、赤い遊具を作ったお姉さんと一緒にいたお兄さんですよね?」
「うん?あぁ!思い出した!遠藤君ってあの時怪我した遠藤君か!」
先日、ボランティアで紅糸さんはこの公園に遊具を作った。
その時怪我した男の子が遠藤君で、それを治したのが僕だった。
そういえば、目の前の女の子もその場に居た気がする。
はっきりと記憶しているわけではないけれど。
「確かに、僕はあの時遠藤君を治療したお兄さんだけれど、何か用かな?」
「はい!お願いがあります!お姉ちゃんを…………お姉ちゃんを助けてください!」
少女は必死な表情で僕にそれを伝えた。
放課後になったので僕は保健室に向かった。
しかし今日に限っては怪我をした人を治療するためではなく、『本日は治療できません』という張り紙をしておくためだった。
本日怪我をしてしまった人には申し訳がないのだけれど、こと後僕には予定があるのだ。
譲れない予定が……僕が蒼巳観凪という存在を形成するためには譲れないものがあるのだ。
あらかじめ昼休みに作っておいた張り紙を保健室の扉に張り付け、僕は保健室を後にした。
さて、問題はここからである。
時間的にはそろそろなのだ。紅糸さんたちと合流するのは。
果たして彼女たちは僕の考えを理解してくれるだろうか?
『理解してもらおうとは思わない。人と人はいつまで経っても理解し合えない生き物なのだから』
不意に彼女がよく口にしていた台詞が頭をよぎった。
理解してもらおうとは思わない、か。
それは孤高の台詞だ。
僕は孤高じゃない。
弱い、一人じゃ何も出来ない、何も行おうとしない、流されるだけの人間だ。
しかし、よく考えると僕は弱い僕のほうが好きなのかもしれない。
今も、そしてあの時も、楽しいときはいつだって僕が弱かったときだ。
強くなろうとしているときは、何一つ楽しいことなどなかった。楽しいことなど考えられなかった。
僕は孤高じゃない。弱く一人ではきっと動けない。
だから、僕は理解してもらいたい。
彼女とは違い、僕は紅糸さんたちにそのことを理解してもらい、そして一緒に行動してもらいたいと思ったのだ。
僕の決意は固まった。
けれどここで問題が一つ。
紅糸さんたちから未だ連絡がこないのである。
紅糸さんは昨日「明日の放課後に合流」と言って、修行へと旅立っていったのだけれど、その後一切合切連絡がなかった。
もう放課後になってしまっているのだけれど、どこで合流すればいいのだろうか?
僕が電話で連絡をとろうかどうか悩んでいるうちに、校門へと着いてしまった。
んで、そこで見慣れた一団を発見した。
見慣れているけれど、滅茶苦茶怪しい集団であった。
一歩間違えば変質者と言われてもおかしくない集団であった。
そこにいたのは澄渡空、紅糸紬、橙灘ひまわりの三名だった。
三人は三人ともおかしな格好をしていた
パンチの弱い順から、澄渡空。
彼は昨日の格好と何も変わっていない。だが、そもそもその格好すらこの学校という場にとっては異質であった。
スカジャンを着込んだチンピラ。それ以外称する言葉が思い浮かばない。
そんな奴が校門に居座っているのだ。一般人から見れば「誰に喧嘩を売りに来たんだ?」としか考えられないだろう。
次に紅糸さん。残念なことに彼女は空よりもパンチが強かった。
紅糸さんの格好は制服だった。
学校に制服で来るのはおかしいことじゃないのではないか?と思われるかもしれないが、だが紅糸さんは制服を着ていてもかなり異質であった。
というか制服ズタズタだった。
想像以上に修行をしてきたらしい。
生傷が絶えず、眼も相当血走っており、野生味がかなり感じられた。(孤高の美少女は何処に行った?)
そしてひまわり……橙灘ひまわり。
彼女はいつもどおりメイド服だった。
紅糸さんとは異なり、綺麗な出で立ち。
この様子からどうやら修行は紅糸さんを鍛えるのを主体としたものだったらしい。
ここまではいい。
本来ならば、学校にコスプレしてくるなよとツッコむかもしれないけれど、そうこう言っている場合ではないのである。
まず考えてみてもらいたい。
ひまわりは重度の人見知りである。そんな彼女が校門という人目がつくところに立っていられるだろうか?
僕は無理だと思う。
そしてひまわりも無理だと思ったらしい。
結論……ひまわりは虎顔になっていた。
ひまわりと僕らが初めて会ったときに着用していた例のタイガーマスクで、ひまわりはこの困難に挑んでいた。
メイド服にタイガーマスク……最低最悪の組み合わせだった。
おそらくどのコスプレイヤーもこの組み合わせは試みないだろう。
三者三様に異様な三人組。
当然、生徒の皆さんは関わり合いになりたくないものだから、必然的に紅糸さんたちの周りはエアポケットになっていた。
出来ることならば僕もお近づきになりたくない。彼らと同じ人種だと思われたくない(僕は断じて違うと声を高々とあげ主張したい)。
このまま気づかないふりして通り過ぎれば案外そのまま行けたりするのではないだろうか?
「おっ!ミナギン発見!おぉーい!ミナギーン!」
僕の目論見は発案された瞬間に頓挫された。
紅糸さんが僕のあだ名を呼び、こっちに向けて手を振るもんだから、生徒の皆さんの視線は自然と僕のほうに集中する。
その冷たい視線が居たたまれない。
本意ではないが、これなら『赤信号みんなでわたれば怖くない』理論で紅糸さんたちと一緒におかしなグループとして見られた方がマシである。
個人で注目されるよりも、集団で注目された方がストレスを感じないという話だ。
僕は小走りで紅糸さんの元に急いだ。
「遅いぞ、ミナギン!いったいいつまで待たせる気だ」
「いつまで待たせるというけれど、僕は割と早く出てきたよ」
「全然早くない!私たちはもう一時間もここで待たされていたんだぞ!」
一時間前から不審者をしている集団だった。
よく教師が出てこなかったものだ。いや、ここまで怪しいと警察だろうか?
「……紅糸さん。ボロボロだね」
「ん?あぁ。激しい修行をしてきたからな。だがおかげでまた私は一段と強くなったぞ。新しい必殺技も会得したんだ。後で見せてやる」
見せてやるって、その必殺技をかける相手は勿論『蒐集家』なのだろうか?
「確かにあの必殺技は凄いですね。時と場合によっては『でっかいパンチ』を超える威力があると思います」
とひまわり。
虎顔を被っているひまわりだったが、変声機はまだ直っていないらしく、声はいつものひまわりだった。
そのギャップが逆に怖いのだが。
「ぐだぐだ喋ってねぇでさっさと行こうぜ。先方がいつまでも一カ所に留まってくれるとは限らないんだ。この機を逃したら、もう『蒐集家』を捕捉するのは不可能に近いんだからよ」
少し苛ついた様子で空が言った。
『蒐集家』は名の知れた世界脅威ではあるが、その神出鬼没さは群を抜いている。
今回戦えることだって、奇跡に近いものがあったのだろう。
しかし、そんな彼らには非常に申し訳ないのだけれど……
「紅糸さん……ひまわり……空……」
「うん?何だ?」「何ですか?」「何だよ?」
「『蒐集家』と戦うのはやめてもらえないか」
『蒐集家』との戦闘は諦めてもらうしかない。
熟考した結果、僕はそういう結論に至ったのだ。
ひまわりは虎マスクによって表情を窺うことは出来ないが、紅糸さんと空は同じ顔で僕を見ていた。
鳩が豆鉄砲を食らったかのように、目を丸くしていた。
ひまわりの動きがないことから、おそらくひまわりも紅糸さんや空と同じ表情をしていることだろう。
彼女たちが目を丸くするのも無理はないだろう。
珍しいのだ。
僕が流されるではなく、自分から物事に対して拒否をするということは。
「……おい。何言ってるんだ?観凪よぉ」
一番早く反応できたのは澄渡空であった。
空は紅糸さんやひまわりほど僕が流されやすい人物だということを知らないから、おそらく一番早く言葉を返すことが出来たのであろう。
「言葉の通りの意味だよ。『蒐集家』と戦うことを諦めてくれ」
「バカか?お前?俺がどんな人間か、付き合いの浅いお前でも察しはついているだろうが」
「あぁ、ついている。空はどうしようもないほど、戦闘狂だ」
「だったら話は早いな。俺が世界最強と言われる『蒐集家』を諦められるわけがねえだろうが!」
怒りにも似た感情を空は僕にぶつけた。
世界脅威である澄渡空の激情。
普通の人間ならば、また普段の僕ならばおそらく逃げ出したくなるぐらい、否、気を失ってしまうぐらい恐ろしいものなのだろう。
しかし、僕は覚悟してきた。
ここにいるすべての人間の怒りや不満を覚悟し、僕はそれを発言したのだ。
空の威圧に気圧されるわけにはいかない。
「予定が出来たんだ」
「あ?」
「どうしても外すことが出来ない予定が出来た。だから僕は『蒐集家』との戦いに参加できない。僕は戦いに参加できないから、『蒐集家』との戦いはやめてもらいたいんだ」
「はぁ!?何言ってるんだ!お前なんて最初から居ても居なくてもどっちでもいいんだよ!ただの足手まといなだけなんだからな!お前の予定が出来たからってこっちの予定は変わらないんだよ!」
「そう思っているのは空だけだよ」
「あぁ?」
「紅糸さんは優しい世界を目指している。だから戦闘によって生じる怪我というものを無視できないはずだ。僕らだろうが、『蒐集家』だろうが怪我人が出れば僕に治してもらうつもりでいるはずだ」
ひまわりとの戦いの時そうであったように、今回もきっとそうするつもりだったはずだ。一言も僕に断りもないけれど。
「そうだろう?紅糸さん」
「あ、あぁ。そのつもりだったが」
僕に話しかけられたことにより、ようやく紅糸さんの『鳩が豆鉄砲』状態は解除された。
「私は優しい世界を目指している。怪我人が出ればどちら側の人間だろうとミナギンに治してもらうつもりだった」
「その僕が参加できないんだ。『蒐集家』との戦いはやめるしかないだろう?」
僕が動かなければ、紅糸さんは戦いはしないのだ。
僕の存在があって初めて紅糸さんは敵に戦いを挑むのである。
「関係ねえだろうが!敵が怪我しようがこっちが怪我しようが!要は楽しく戦えればそれでいいじゃねえか!」
「うっさい!私は優しい世界を目指しているんだからそういうことには酷く敏感なんだ!それと空の戦闘狂と一緒にするな!後、空さっきから本当にうるさい。しばらく黙れ」
「ぐぅ」
ぐぅの音を出して、空は口を閉ざした。
「ミナギンが今回の戦いに参加できないのであれば、当然私も今回は外れる。が、ミナギン。その前に一つ」
紅糸さんは人差し指をビシっとあげた。
一つだけ訊きたいことがある、という意思表示なのだろう。
「なんだい?紅糸さん」
「どうしても外せない予定とは何だ?昨日にはその用事というものは無かったのだろう?あったらきっとミナギンはその時に進言していたはずだからな。今日突如発生した用事。しかもあらかじめ存在したこちらの用事を蹴ってまで外せない用事。いったい今日何があったというんだ?」
「実は……」
僕は今朝起きたことを紅糸さんに話し始めた。
朝、僕に突如話しかけてきた小学生は自分のことを由々敷倉梨と名乗った。
その倉梨ちゃんにはお姉ちゃんが一人いるらしい。
そのお姉ちゃんは倉梨ちゃんにはとてもいいお姉ちゃんらしく、お姉ちゃんは高校生なので通っている学校は当然違うのに、毎日必ず倉梨ちゃんを学校まで送っていってくれるそうだ。
僕に妹がいても絶対にそんなことはしないのだが、そんなことは今はどうでもいい。
今朝もいつもと同じように倉梨ちゃんは支度をし、お姉ちゃんを待っていたのだけれど、いつまで経ってもお姉ちゃんは部屋から出てこない。
倉梨ちゃんがお姉ちゃんの様子を見に行くとお姉ちゃんは布団を被ってまだ寝ていた。
寝坊かと思って、倉梨ちゃんはお姉ちゃんが被っていた布団を思いっきり引きはがした。
お姉ちゃんは寝坊していたわけじゃなかった。ちゃんと起きていた。
では何故いつまで経っても朝の支度をしなかったのか?
倉梨ちゃんはお姉ちゃんの様子を見て、その理由を悟った。
お姉ちゃんの両手が無かったからだ。
右手と左手、両方の手が存在しなかったという。
当然倉梨ちゃんは動転した。
しかし倉梨ちゃんとは正反対にお姉ちゃんは落ち着いていたという。
両手が無くなったというのにだ。どうやら両手が無くなったが痛みはないようだ。
原因はよくわからないが、普通の事態ではなかった。
そこで倉梨ちゃんは思い出したのである。
どんな傷でも治せる僕の存在を。
そうして倉梨ちゃんは僕に会えるかもわからないのに、あの公園で待っていたのだ。
結果、偶然だとしても、倉梨ちゃんは僕と会うことに成功した。
そして倉梨ちゃんは僕にお姉ちゃんの両手の治療をお願いしたのだった。
「んで、ミナギンはほいほいそれを了承したわけだな」
「ほいほいじゃないよ。即断即決で了承したんだ」
「ミナギン、ロリコンだからな」
「ロリコンじゃないよ。万人に優しいだけだよ」
それと、僕は自分を世界の道具だと思っているから。
僕が少しでも役に立てる状況があるのならば、その役に立ちたいのである。
特に怪我や傷の問題なら尚更だ。
それは両親の遺志を継いでいるに等しい行為だから。
だから積極的にでも、僕は他人を治したいのだ。
「全く。さすがミナギンだな。ミナギンはいつも選択を間違えない。私は迷わないで行動するのをモットーをしているが、間違ってばっかりだからな。たまにミナギンの決断力が羨ましくも思うときがあるぞ」
「紅糸さん」
「私もそちらに合流しよう。私が何の役に立てるかわからないが、全く役に立たないわけではないだろう。万能具現化能力。倉梨ちゃんのためにこの能力を存分に使おうではないか」
優しい世界を目指している紅糸さん。
彼女が僕の考えを理解してくれるのは当然なのかも知れない。
当然なのかも知れないが、僕はそのことが非常に嬉しかった。
「おいおい!マジかよ!そんな訳わからん子供のために『蒐集家』を諦めるのかよ!紅糸!」
空気が読めない空であった。
「うっさい!黙ってろって言っただろ!誰が喋る許可をしたか!」
「いやいや!この状況、黙ってろっていう方が無理だって話だぜ!俺がどれだけ『蒐集家』との戦いを待ちこがれていたか、お前等は知らないのか!やっと探し出せた『蒐集家』との戦いを諦めろなんて、酷いにもほどがある!それにこっちの予定が先約だったんだから、こっちを優先させろよ!それが人間ってもんだろう」
「お前が常識や一般論を語るな!説得力がない!それに私は元々今回の戦いを拒否していたんだ。それが空の口車に乗って戦うことになったが、そうだ!私は元々戦いたくなかったんだ!何がバイキンマンだ!危ない、危ない。もう少しで騙されて何の禍根もない奴と戦うところだった」
……バイキンマンの下りは百%、紅糸さんの言葉なのだけれど。
「いや、あー、もう!こうなったら紅糸は梃子を使ってでも動かねえな。今回はダメか。畜生……ようやく『最強』に手が届くと思ってたのによぉ。しかし、楽しみが延びたと思えば、それはそれでアリか」
切り替えが異常に早い空だった。
よく言えばプラス思考だが、それは反面、物事への執着があまりにも皆無であることも伺える。
もしかすると、この世のすべての事象が空にとってはどうでもいいことなのかも知れない。
「で?その倉梨とかいう奴とは何時頃待ち合わせをしているんだよ?」
「え?」
「え?じゃねえよ。何で驚いた顔をしているんだよ?」
「だって、空。…………ついてくるの?」
「ついていくよ!何で俺をのけ者にしようとしているんだよ!寂しいじゃねえか!用事なくなったんだから、一緒に行動させろよ!」
そして、空は意外なことに寂しがり屋だった。
「倉梨ちゃんとは何時頃待ち合わせとかは決めていないよ。ただ学校が終わったら、例の公園で待ち合わせしようとだけ約束したんだ」
「じゃあ、早く行ってやろうぜ。子供を待たせるのは最低の行為だからな」
「……空」
「あ?何だよ?」
「ロリコン?」
「ロリコンじゃねえよ!ただ、子供は罪が少ないからな。汚い大人たちよりは優しくしてやろうとぐらいは思うわけだ」
さらに意外なことに子供に優しい空だった。
何だ、こいつ。
今頃になって好感度稼ぎか?
空、おそろしい子。
「よし!それじゃあ行くぞ!」
紅糸さんが音頭を取り、僕らは待ち合わせの公園に向かった。
「……うー、レアなゲームがぁ」
とかひまわりが呻いていたが、そんな空気の読めない子の言うことなど勿論無視した。




