東西珍道中8
ユーナちゃんが、憧れの女の子が、アタシを助けに来てくれた。
それだけで浮かれてしまうほど、アタシ、歌姫ハトリは熱に浮かされて心は締め付けられているのに、体は浮遊しているような風船みたいな気分を味わうの。
ゲームと現実が混ざった世界、アースのジパング大陸、点在する街の内の一つ、匠の街キョート。
アタシと弟の役者という中級職業のチドリちゃんは変な男に絡まれて、離ればなれ。
生まれた時から双子としてずっと一緒にいたのに、こんなに離れたことなんてなかったのに。
全然意味がわからなかった。どうしてゲームをしていただけで罪に問われなきゃいけないのか。
オンラインゲーム「RINE-リンネ-」でアタシ達はただ楽しく過ごしていただけなのに。
どうして誰かを疑って、奪い合うような世界に引きずり込まれなければいけないの。
しかもアタシは最初の一日目でチドリちゃんと離ればなれ。一人逃げて、宿屋という施設の中で眠れず、ずっと怯えていた。
二日目はこの世界でメニュー機能や携帯電話代わりのキビシスデバイスに反応があって、チドリちゃんから連絡が来たと思った。
そしたら知らない男の人が脅すように、時には優しく語りかけてきて、怖くて何度も泣いた。アタシは弟一人救い出せない臆病者で、無力だった。
宿屋のNPCは二日目以降から定例文ではなく、意思や感情を宿したような自由な喋り方をし始めた。
ツバキという宿屋のお姉さんは泣くアタシを何度も励ましてくれた。そして数日後、宿屋も危険そうだから別の場所に避難するように言われた。
案内されたのはツバキさんに助けてもらったという、アタシと同じでこの世界に巻き込まれたプレイヤーのフーマオさん。
フーマオさんはツバキさんと一緒にアタシを守ってくれたし、服も、ツケだけど素敵なのを与えてくれた。
それが嬉しい分、申し訳なくてアタシは何度も泣くの。泣き声で感謝の言葉も伝えられなくて、もっと惨めになった。
こんな時、ゲームで知り合った女の子、魔導士ユーナちゃんはどうするのだろうと考えてしまう。
豪語の魔導士という噂が流れるほど、堂々としている姿にアタシは惚れた。同じギルドに入って話せば話すほど夢中になった。
チドリちゃんに呆れられるほど、アタシはユーナちゃんにメロメロで、憧れだった。強くて素敵な女の子だと、一方的な好意を抱いている。
そんな子はこの世界に巻き込まれて、どうしているのだろう。戦い続けるしかない世界で、誰と一緒にいるのだろう。
少なくともアタシみたいに泣いてばかりではいないはず。ユーナちゃんは知っている限りでは本音はぶつけても、弱音は吐かない女の子。
会いたかった。毎日何度もデバイスにかかってくる知らない男の人の声じゃなくて、ユーナちゃんやチドリちゃんの声が聞きたかった。
一週間経つ頃にはアタシはすっかり憔悴していた。肉体には全くダメージないのに、精神が擦り切れて立ち上がることも億劫だった。
その間にキョートではチドリちゃんをさらった男のギルドが悪行を広げ、サハラさんというオカマの人が色んな人を集めて勢力を拡大していく、ギルド拡大が目に見えるようだった。
アタシの様子を心配したツバキさんに、サハラさんのギルドで匿ってもらったらどうだと言われたけど、アタシは断った。
アタシが所属しているのはギルド「流星の旗」で、それ以外なんて考えたくなかった。
なにもできないアタシができるのは、「流星の旗」を裏切らないこと。ユーナちゃん達の繋がりが唯一だったの。
でもたった一日でこの世界は急変していく。キョートにいるプレイヤー達は全員否応なしに巻き込まれて行った。まるで津波のよう。
気付けば二つのギルドが合体して、大型ギルド「唐紅」になっていて、誰も手が出せない状況。
トーキョーからPKKギルド「正統なる守護」のリーダーがメンバーを連れてキョートに来たけど、数の力には勝てなかったみたい。
それでも守るためにアタシみたいな弱くて何もできない女の子達を集めて、保護してくれていた。
フーマオさんも知り合いの人、他にも女性の話し相手がいると安心するだろうということで「正統なる守護」に連れて行ってくれた。
リーダーのサウザンドさんは弱くて泣くしかできないアタシでも快く迎え入れてくれた。同じ女性なのに、彼女はこんな世界で強くて優しかった。
アタシは自分の無力さが辛かった。どうしてアタシ、歌姫なんて職業を選んでしまったのかと後悔する。
歌姫は攻撃が一切できない補助専用の職業で、誰かが攻撃してくれるのを応援するしかできない。
ゲームの時はそれでも役に立ってると思えた。けどこんな状況では弟も救えない役立たずで、誰かに縋るしかない、寄生虫みたいで、結局泣くしかなかった。
そんなアタシを励ましてくれる女の子達が「正統なる守護」のギルドルームには一杯いて、少しだけアタシは救われていた。
でも心の底ではいつも淀んだ感情がアタシを追い詰める。なにもできない無力のままで、誰かに助けてもらって満足かって。
アタシはその感情から目を背けて、耳を塞いで、身動き一つしないように自分の体を両手で抱いていた。
デバイスはサウザンドさんに預けて、相手の機嫌を損ねないように数回に一度はアタシが出て、それ以外はサウザンドさんにお願いした。
じゃないと耐えきれない。なんであんな知らない男の人に、こんなにも付きまとわれなきゃいけないのか。気持ち悪い粘着質な感情を向けられるのが辛い。
そうやってこの世界に来て十を超えたあたりかな。少しだけ気持ちのいい風が吹く日。空から街全体に響き渡るような叫び声が近づいてきたの。
アタシはその声を全て知っていた。ゲーム時代に何度も話した覚えのある、懐かしくてずっと会いたかった声。
その声が誰のものかわかった時、またアタシは泣いたの。心の底から嬉しくて、それ以上の感情や言葉が見つからないくらい、温かい涙を流したの。
ユーナちゃん、アルトくん、コージくん。ギルド「流星の旗」のメンバーとリーダーで、アタシの仲間。
何かが変わる気がしたの。ユーナちゃんがいれば、アタシでも戦えるんじゃないかって。チドリちゃんを助けに行けるんじゃないかって。
結局他人を頼ってばかりのアタシに気付いて、少しだけ落ち込んで、でも今度はそれで泣くことはしなかった。
だってユーナちゃんなら、そんなアタシを見て少しだけ慌てつつも呆れたような、でも優しい声でこう言うはず。
泣かないでくださいな。わたくし達がいるじゃないですか、って。
アタシの願望みたいな言葉だけど、でもユーナちゃんなら言ってくれる気がするの。
それだけの安心感と信頼を抱ける相手だもの。ただしアルトくんはちょっとだけ別枠ね。
そしてフーマオさんの探り、サウザンドさんの質疑応答、それらを乗り越えてユーナちゃんはアタシの目の前に来てくれた。
嬉しくてコージくんを扉で吹っ飛ばしちゃったけど、それに気付かないほどアタシの目にはユーナちゃんしか映らなかった。
大好き、寂しくてずっと会いたかった、好意を昇華して別の感情に転移するほど、アタシはユーナちゃんが待ち遠しかった。
実際に顔を見て話せば話すほどユーナちゃんは思い描いていた女の子で、アタシは離れたくなかった。
でもそうやって寂しさを紛らわすほど、チドリちゃんのことが気になる。本当はこうやってはしゃいでいる場合じゃないのに。
そして自分の無力さに泣きそうになる。ごめんね、本当はアタシも強かったらこんなちっぽけな悩みに惑わされずに済むのに。
強くなりたいと思いながら、一向に行動せずに泣いているアタシでごめんね。謝るしかできなくて、ごめんね。
そうやって誰にともわからないまま心の中で謝り続ける。解決されない悩みに、アタシは一人迷って、いつか立ち止まってしまう。
これが普通なのかもしれないけど、そんな普通の自分が嫌でアタシは悲しくなる。本当は止まりたくないのに、足が動かないの。
こんなアタシで、ごめんね。
★
こんな訳のわからない世界に巻き込まれて一ヶ月。同じギルド「流星の旗」の仲間である大泥棒アルトさんが大型ギルド「唐紅」に潜入してから二週間ほどだろうか。
キョートの街に他の街からやってくるプレイヤー達が増えた。しかし大体入口で「唐紅」の手厚い歓迎、いわゆる奇襲&人攫いに遭遇しているわけだ。
わたくしこと魔導士ユーナは今日も、フーマオさんに助けられて試された後にPKKギルド「正統なる守護」のギルドルームに案内された人達を扉の隙間から覗き見る。
ちなみにわたくしだけでなく、このギルドルームで保護されている他のプレイヤー達、主に女性達が好奇心むき出しで眺めている。
大型ギルド「唐紅」はリーダーのデットリーが無類の女好きで、女性達はほぼ外に出れない日々が続き、鬱憤が溜まっているので新しいプレイヤーを品定めするのが今では娯楽の一つらしい。
ちなみに現在保護された女性達の流行は妄想を具現化して本にする、いわゆる同人誌作りが盛り上がっているところだ。フーマオさんが独自にNPCと商談して紙や鉛筆を手に入れることができたのだ。
このゲームと現実が混ざった世界アースは、オンラインゲーム「RINE-リンネ-」の世界観をもとに構築されているが、まだ不完全な姿らしく、娯楽というのが乏しい。
初日ではNPCも定例文しか話さなかったので仕方ないのかもしれない。わたくし達プレイヤーが関与していくことでこの世界は進化すると前に教えられている。
例えば簡単な音楽や歴史の英雄譚、ゲーム時代に掲示板に書かれた世界観を作る際に必要な歴史は最低限用意されている。
しかしそれは生活に必要な物だけであって、わたくし達が日々謳歌していた流行歌や大ヒット小説などこの世界には全くと言っていいほど存在しない。
ただでさえ外に出られない軟禁に近い生活なのに娯楽もないのではたまったものじゃない。それで同人誌作成という流れになったのだ。
オンラインゲームをしていたからといって全員がそのゲームだけで生きていたわけじゃない。わたくしだって普段は花の女子高生だった。
他にも社会人や、趣味でコミックマーケットという同人誌即売会に参加していた方、教師や裁縫を仕事としていた人などプレイヤーには色んな方がいる。
だからこそ保護された女性達は自然な流れのようにいくつかのグループにわかれていた。趣味が合う者同士で集まって談笑しながら同人誌を作るのだ。
わたくしが加わっているのは主に談笑を目的とした年の近いグループで、同人誌の内容も青春の学生話というものだ。
勢力が強いのはいわゆる同性同士の恋愛物を圧倒的な画力で書き上げるグループで、今もストレスの反動で凄まじい勢いで百ページ越えの超大作を描き上げているところだ。
男の方にも女の子同士の恋愛が好きな方もいるわけで、女性でもそういった方が発生するのは別に不自然なことではないので、あしからず。
ただし内容が今も潜入で頑張っているアルトさんが見たら青ざめそうな内容ということは伏せておこうと思う。
「ユーナちゃんはこの男の子が好きな女の子に対して次にどんなこと呟くと思う?」
「下校の場面で夕焼け空なら、一緒に帰ろうでいいと思いますわ」
「そっかー!アンちゃんは?」
「ここで照れ屋な感じで顔を赤らめて俯きながら小さく呟き、女の子に顔を近づけられてもう一回言ってとお願いされるのはどうかな?」
「そっかー!ハトリちゃんは?」
「アタシは言っている途中で下校を知らせるチャイムに遮られる切ない場面でもいいと思うわよん!」
わたくしを含めて五人のこのグループ。一人は同じギルド仲間のハトリさん。
先程から周囲に意見を聞いているのは運動少女のように活発で明るい、槍使いのミヨンさん。
少女漫画が元来好きだったため鋭い意見を言うのは姫騎士のアンさん。
そして最後の一人は無言でペンを素早く動かしているグループの要でもある召喚士のヒダルマさん。
全員女子高校生で、普通にノーマルな恋愛が好きで、ヒダルマさん以外絵心がないため集まったのだ。
ヒダルマさんは元文芸部だとかで、丸くて大きな眼鏡がずれても気にせずに集中して、少女漫画らしい絵柄を披露している。
水色の髪をツインテールにしており、目は燃えるように赤い。ゆったりとしたローブで体を隠しているが、腰が細くて綺麗なカーブを描く体をしている。
ミヨンさんはバレー部で黒い髪も男の人のように短い。目も黒く、キャラメイクでの奇抜な色を選ぶのが苦手だと笑っていた。
表裏のない快活な笑顔で、思わず向日葵を思い出してしまう。肌も健康的な色で、体も筋肉がついているが女性らしい曲線と上手くバランスを保っている。
ただ少し色っぽいシーンの話をすると顔を真っ赤にするのがとても可愛い。だが照れながら槍を振り回す癖は止めてほしいところだ。
アンさんはロリータ系統が好きで、姫騎士の鎧姿にフリルをあしらった可愛らしい装備がとてもよく似合っていた。
ドリルのようなツインテールの髪は桃色で目が銀色、蠱惑的な笑みを浮かべる唇でたまにすごい下ネタを言うので、その度にミヨンさんが顔を真っ赤にして槍を振り回す。
元の生活でも自分の服を手作りしていたらしく、今もフーマオさんから買った布と糸で可愛い服を作っている。コスプレ姫と他のグループからの好感度も高い。
ちなみにアンさんはフーマオさんとよく商談、いえ相談だろうか。とにかくアンさんの意見を聞いたフーマオさんは翌日には商品を揃えていることが多い。
特に化粧品。女性の嗜みの一つは大きな貢献となり、室内で暇を持て余す女性達には交流のきっかけとして大きく働いた。
布や糸で衣装を作るし、つけ睫毛や鬘などもフーマオさんにNPCにこう尋ねて作らせてみたらどうだろうと言っては、本当に揃えている。
ヒダルマさんは召喚士としてモンスターを使役する少し変わった中級職だ。本来なら戦闘で使うはずなのだが、今は同人誌作成のために呼び出している。
水の精霊は墨汁作り、木の精霊は枝を尖らせてペン軸、土の精霊はペン先など、そういう使い方もできるのかと目を見開くばかりだ。
しかもフーマオさんはそこに金の匂いを感じ取ったらしく、ヒダルマさんから一晩借りたと思ったら次の日にはNPCによる販売や生産体制を整えている。
商人のフーマオさんはお金を使うことで戦闘するかなり変わった職業の商人だ。武器は持てないし、ステータスも全職業の中で最低の部類だ。
だが逃走用の必殺技のバリエーション豊富や魔物とも交渉できる手段、なにより荒れた匠の街キョートにおいてもNPCと和やかに会話できる身軽さや親しみやすさがある。
しかも最悪な状況の原因である大型ギルド「唐紅」相手に商売しているようである。お金がないと商人は何もできないので、仕方ない話かもしれないが。
商人はプレイヤーショップを無料で所持できる。フーマオさんのお店は万福屋という名前で、ゲーム時代から商売をしていた。
最初の一週間は開店していなかったのだが、これ以上は稼がないと生きていけないということで、誰に対しても公平な商売をしている。
公平、つまりは大型ギルド「唐紅」にも、わたくし達にも、NPCにも、他の街からやって来たプレイヤーに対しても区別しないということだ。
最初は「唐紅」に物を売るなと言う人もいたが、フーマオさんの公平な商売と買い物の雑談において貴重な情報が手に入るようになった。
またNPCとも親交を深めて根を張り巡らせており、そこからも街の構造や新しく判明したことなど、外に出られない身としては大切な情報が多く手に入る。
今では不満を言う者はおらず、むしろフーマオさんに仕入れてほしい物BOXという目安箱ができてしまった。
フーマオさんの商人として恐ろしいところは、本当に仕入れてほしい物を持ってくることである。
現実の世界でのCDラジカセやパソコンは手に入らないということはわたくし達は理解している。しかし本やお菓子、温かい毛布に可愛い服など。
中にはいつ使うのだろうかという貴重な武器すらもフーマオさんは仕入れてくる。ただし貴重な物ほど高いわけで、外に出られない身では買えない物も多いのだが。
また前述したような自作のペンやこの世界ではなかったような化粧品も、キョートの街に住んでいるNPCに話を持ちかけて生産できないか交渉して、成功している。
匠の街であるキョートではNPCも職人が多いらしく、プレイヤー職の武器職人などには負けるものの、口頭の説明だけで望んでいた製品を作れるらしい。
フーマオさん曰く、おそらく世界の仕組みとしてプレイヤー側の常識が無意識のうちに浸透しているのではないかということ。
この世界は人間、つまりプレイヤー、NPC側から見ればアバターによって進化していく。
最初は定例文しか話さなかったNPC達が自由に喋れるようになったのも、わたくし達の常識が無意識のうちに浸透したからではないかということ。
このまま進んでいけばもしかしたらもう一つの現代日本が作れるかもしれないとフーマオさんは笑っていた。しかしわたくしとしては微妙に笑えない。
何故ならゲームの世界観ぶち壊しだからだ。中世技術で現代日本を再現したようなファンタジーごっちゃ混ぜのちゃんぽんさが、オンラインゲーム「RINE-リンネ-」のいい意味で魅力だからだ。
なんにせよわたくし達は来るべき時に備えて暇潰しをしている、に尽きてしまう。
「そういえばさー、ハトリちゃんどうして語尾に、ん、がつくの?」
ミヨンさんが何気ない風を装いつつ、好奇心丸出しでハトリさんの特徴に疑問を投げた。
ハトリさんは肩を震わせ、視線を彷徨わせたが助け舟を出せる相手がおらず、顔を真っ赤にしつつ小声で呟く。
「こ、個性が欲しかったから……よん」
最後の語尾は本当に小さすぎて集中しなければ聞こえなかったであろう音量だ。そして返ってきた答えにミヨンさんはそれだけなのかと首をかしげている。
ヒダルマさんも気になったのかペンを動かすのを止めてハトリさんを眺めている。アンさんも穏やかそうな笑顔で続きを待機している。
しかしそうやって期待の視線に晒されれば、自然とハトリさんの肩身が小さくなっていくようだ。顔だけでなく首や耳も赤い。
「だって、普通が嫌いなんだもん……アタシ昔から普通普通って言われてきたから」
唇を少し尖らせて呟くハトリさん。拗ねた顔すら美少女で、どこか普通なのだろうか。
美しい顔立ちに抜群なボディスタイル、魅力的な声に無邪気な性格。それを本人が普通と思っているというギャップ。
女のわたくしですら可愛いと思ってしまう。そしてどう見ても聞いても無個性ではないのに、もったいない。
「でもね!でもでも!!チドリちゃんったらそんなアタシの言葉聞くと乾いた笑いを零すのよん!?もー!!」
すぐに頬を膨らませ、両手を動かして怒りを表現するハトリさん。子供の苛立ち方みたいだ。
しかし姉弟仲は良好なのだろう、本気で怒っているわけではないようだ。チドリさんの名前を出したすぐ後に、顔に影が落ちる。
敵に捕まったまま会えずにいるから心配なのだろう。敵もハトリさんを欲しがっているわけだから、無下に扱うとは思えないが、優しくはしてなさそうだ。
「大丈夫ですわ、ハトリさん。わたくし達がいますでしょう?」
慰めの言葉をハトリさんに伝える。せっかくの綺麗な顔を曇らせるのはわたくしの美意識に反する。
すると一気にハトリさんの顔が明るくなり、大好きという言葉と共に大きな胸の中に顔を引き寄せられる。
気持ちいいのだが、同じ女としては少々辛い柔らかさだと、わたくし自身の胸を思い出して密かに涙しそうになったのは別の話である。
それにしてもアルトさん、早く合図を寄越してくれないだろうか。いい加減待ち侘びてきたのだ。
悪徳ギルド「唐紅」の本拠地に潜入中のアルトさん。あちらで熱を上げている同性愛同人誌の犠牲になっていることを本人は知らないだろう。
一生知らなくていいことだが、あまり遅いと自費出版される恐れがある。なのでその前に戻ってきて人権侵害とか本人が騒いで止めないと、大変だ。
★
すっごく嫌な予感がした。少しでも早くこの潜入を終わらせて姫さん達のところに戻らないといけない気がする。
そんな危機感を抱きつつも、いい男である大泥棒の俺様アルトは泥棒らしく天井裏を音もなく移動している。和風建物が功を奏して中腰で進めるのはありがたい。
目的は厳重に施錠された部屋。悪徳ギルド「唐紅」のリーダーであるデットリーが女神さんを手に入れるために隠している、大事な物を仕舞い込んだ場所。
どうせ弟の色男の方だろう。むしろそれ以外ないだろう。なので俺様は姐さんと呼んでいる軍師サハラの要請で、姐さんの部屋にいるという設定で他の奴らを誤魔化した。
その際に同情的な視線多数、及び軟膏に似た回復アイテム、慰めの言葉や美味しい物を用意していると言われ、複雑な気分を味わったのは別の話である。
大体姐さんはオカマだけどよ、男性好きというのはデットリーを抑圧するための演技って誰か気付けよ。冗談で粉かけられたが、少し話せばわかるもんだろうが、馬鹿野郎共。
そんな心情を内心叫びつつも、行動は冷静に素早く行う。さすがいい男である俺様。自画自賛するレベルだ。
目的の部屋の上に来た際、まずは耳を傾ける。アバターという肉体によって壁越しくらいなら普通の音声と同じくらい聞き取れるだろう。
しかし何も聞こえない。もしかして匠さん特製の遮音部屋か。だとしたら大泥棒の技を一つ使うしかないか。
というわけで必殺技の一つ「聞き耳」を発動するわけだ。盗賊の職業でも覚えられる初歩的な技だが、色んな場面に使える。
ゲーム時代でも隣の部屋が遮音で調べられない時は「聞き耳」で、情報を得られる仕組みだった。これがゲームを基本とした世界なら、十分通用するはず。
俺様の読み通り部屋の情報、というか音声が耳に流れ込んでくる。荒い息遣いの男の気配と、下卑た笑いを出している男の気配。その二つのみ。
「すごいなアバターの体というのは。一ヶ月飲まず食わずでも死なないとは」
「……っ、髪を引っ張るな下衆野郎」
「ふん、てめぇみたいなやつは禿げた方が世のためだ」
思わず吹き出しそうになった。下卑た笑い声は明らかにデットリーの声だ。坊主頭のアンタが髪を引っ張って禿げろって何かのギャグかよ。
将棋みたいな形の顔のくせして、ちょっとツボに入ったせいで「聞き耳」が途切れてしまう。声も出ないほどの笑いだが、天井裏の板を叩くことはできない。
万が一ばれたらいい男の名が廃るからな。それにしても相変わらず小者っぽいおっさんだ。嫌いじゃないぜ、扱いやすくて。
気を取り直して改めて「聞き耳」を使う。もう一人の声はゲーム時代に聞き覚えがある。間違いなく女神さんの弟だ。
相変わらず色っぽい声だな、おい。姫さんが聞いていたらはしゃいでいそうな、ムカつく声だ。
呼吸音が荒い上に渇いている。喘息の呼吸音に似ていて、咳も聞こえる。どうやら本当に飲まず食わずらしい。
なるほど。アバターという肉体は一ヶ月飲まず食わずでも死なないが、ある程度の弊害は出るようだ。
さらに耳を澄ませば鎖の音も聞こえる。しかも軽くじゃない、重い音。一つだけではなく蛇の群れみたいに何重もかけられているような。
ただの天井板みたいに見えるが、試しに「下調べ」という必殺技を使う。予想以上に固い上に壊れたら大きな音が出るようだ。匠さん、いい仕事しすぎだろう。
とりあえず色男の居場所はわかったが、もう少し情報が欲しい。今度は中に侵入してみるか。
今日はこれ以上姿を現さないと怪しまれる可能性がある。色男には悪いが、もう少し捕まっていてくれ。
俺様は静かに素早く天井裏からひと気のない場所へと移動し、軽く埃を落として何事もなかったように「唐紅」のギルドルーム内を歩き回る。
妓楼のような、最早ギルドホームと言った方が正しいこの場所はどこも様々なアバター達が歩いている。
それにしても中腰とはいえ、天井裏で大分腰を痛めた俺様。痛みを和らげようと擦っていると、何人かに声をかけられた。
同情的な視線、今度奢ってやるという優しい言葉、そして軟膏に似た回復アイテムを渡された。トドメは煤だらけで通りかかった匠さんの一言。
「激しかったから、深く聞かずに優しくしてやれと周りに言っといたから」
余計なお世話だよ、匠さん。ありがとうよ、どちくしょうがぁっ。