山を二つ超えたところ
山を二つ越えたところ
山奥の集落と聞いていたから、車一台がやっと通れるような道を想像していた。崖の下には川が流れ、対向車が来たら、どちらかが延々と後退しなくてはならない。
けれど、さっきから続いているのは、きちんと舗装された二車線の道路だった。白いガードレールもある。落石注意の看板は少し気になるけれど、道路の端には黄色い花まで咲いている。
「普通の道だね」
私が言うと、ハンドルを握る母は小さく笑った。
「どういう道だと思ってたの」
「途中から歩くとか」
「引っ越しのトラックはどうするのよ」
「そこまでは考えてなかった」
前を行くトラックには、私たちの荷物が積まれている。あの家で暮らした十五年分にしては、多いのか少ないのか分からなかった。
トラックは制限速度を守って走り、私たちの車はその後ろをついていく。信号も渋滞もないまま、山に入ってもう一時間になる。
「まだ?」
「もう少し。橋を渡ったら右だって」
「それ、さっきも言わなかった?」
「さっきのは、橋までもう少しって話。今のは、橋を渡ったあとの話」
母の言い分に、反論の余地はなさそうだった。
ナビの画面には、青い線が一本、山の中へ延びていた。
*
離婚した母と娘が田舎へ引っ越すというなら、行き先は母の実家と相場が決まっていると思う。少なくとも、私はそう思っていた。
けれど、私たちがこれから向かうのは、縁もゆかりもない集落だ。母の実家から、山を二つ越えたところにあるという。
母も初めは、実家へ戻るつもりだった。地方都市の旧家だ。立派な祖母の家で暮らして、町で仕事を探す。
私は四月から、そこから通える高校へ入る。そういう話だったのに、母が会社を辞めると知って、声をかけてきた人がいた。どうして母なのか、そのときの私には分からなかった。
陶芸家の、榊原宗一さん。
芸術に詳しくない私でも、名前を聞いたことがあった。銀座で個展を開けば、開場前から人が並び、会期が終わる前に作品が売り切れてしまうらしい。
「そんなに売れるなら、もっと便利なところに住めばいいのに」
初めて話を聞いたとき、私は言った。
「土があるんだって」
「土?」
「使いたい土が、そこにあるんだって」
ただ、そこは人を雇うには不便な場所らしかった。工房の事務や発送の仕事を頼もうにも、毎日通ってくれる人が見つからない。そこで、空いている離れに住んで働かないかという話になったのだ。高校へは、集落のバス停から四十分ほどで通えるという。
母は仕事内容と給料、それから冬の道路事情まで確かめに行った。
「どうだった?」
私が聞くと、母は少し考えてから言った。
「窓から、山が見えた」
「それはそうでしょうね」
「うん。それはそうなんだけど」
母は私をまっすぐに見た。いつもの、決めたことを話すときの顔だった。
「働いてみたいと思ったの」
*
橋を渡って右へ曲がると、道は細くなった。といっても、車がすれ違える幅はある。木立の向こうに屋根が見え、やがて、小さな畑と家々が現れた。干された布団、青い桶、庭先で丸くなっている猫。
トラックの音に、畑にいた人が腰を伸ばした。
「見られてる」
「引っ越してくる人が来た、って思ってるのよ」
「そうだもの」
母は当たり前のように答えたけれど、ハンドルを握り直した。緊張しているのは、私だけではないらしかった。
緩い坂を上った先で、トラックが左のウインカーを出した。生け垣の切れ目から入ると、広い庭に出る。母屋は庭の向こうにあって、その手前に、平屋の離れが建っていた。
古いけれど、玄関の木戸はきれいに拭かれていた。軒下には小さなベンチがあり、その隣に、底の抜けた大きな壺が置いてある。
「あれ、高いのかな」
「触っちゃ駄目よ」
「まだ何もしてない」
車を降りると、空気がひんやりしていた。街より春が遅いのか、生け垣の向こうには梅の花が残っている。
「遠かったでしょう」
声のした方を見ると、作業着姿の男の人が立っていた。白髪交じりの髪に、紺色の前掛け。袖をまくった腕にも、靴にも土がついている。
母が背筋を伸ばした。
「本日からお世話になります」
「こちらこそ。お嬢さんも、よく来たね」
榊原さんは、私に向かって軽く頭を下げた。雑誌で見た写真では、難しい顔で器を眺めていた。その人が今は、片手に雑巾を持っている。
「こんにちは」
私が挨拶すると、榊原さんは玄関を振り返った。
「さっきまで掃除をしていたんだけど、床が少し湿っているかもしれない。気をつけて」
有名な陶芸家が、私たちの住む家の床を拭いていた。母も同じことを思ったらしい。
「そんな、私がやりましたのに」
「今日から暮らすんでしょう。荷物を入れる前の方が楽だから」
玄関を開けると、木の匂いがした。
窓を開けると、すぐ向こうに畑が見えた。その先は山だった。
机を置くなら窓際がいい、と思った。
そう考えてから、私は少し驚いた。ここに住むのだと、初めて実感した気がした。
*
荷物の運び込みは、業者の人たちがあっという間に済ませてくれた。その間に、榊原さんが工房を案内してくれることになった。母と並んで、あとをついていく。
工房の裏手には、薪が屋根の高さまで積まれていた。開いた戸の向こうに、棚いっぱいの器が並んでいる。私が足を止めると、榊原さんが振り返った。
「見てもいいよ。乾かしている途中のは、触らないでね」
「全部、売るんですか」
「売れるものはね」
棚の端に、小さな茶碗が置かれていた。淡い青色で、縁が波打っている。
「これは?」
「ああ。それは割る方」
榊原さんは茶碗を裏返した。底に、赤い印がついている。
「割るんですか?」
思わず声が大きくなった。
「ひびが入っているんだ。水が漏れる」
榊原さんが指さした先に、細い線があった。よく見なければ分からないほどのひびだった。
「きれいなのに」
私がつぶやくと、榊原さんは茶碗を元の場所に戻した。
「植木鉢にでもする?」
返事をする前に、母が言った。
「そんな、せっかくの作品を」
「茶碗としては使えないから。欲しければ持っていって」
私は両手で持ち上げた。見た目より軽かった。
「……欲しいです」
*
私は青い茶碗を両手で包むように持って歩いた。工房の裏の鉢から、小さな苗も分けてもらった。白い花が咲くという。
「ねえ」
「何?」
「榊原さん、どうしてお母さんを雇おうと思ったのかな」
母は意外そうに私を見た。
「前に働いてた会社のお客さんなの。話さなかった?」
「聞いてない」
「何年か前に、出荷した荷物が届かなくてね。そのとき、私が窓口だったのよ。届くまで毎日連絡して、代わりの品も手配したの」
「それだけ?」
「そのあとも、何度か注文をいただいてたから。仕事を辞めるってご挨拶したら、人を探してるって」
私は立ち止まりそうになった。名前の知られた陶芸家が、どうして母に声をかけたのか。何か特別な事情でもあるのかと、ずっと思っていた。
母は前の会社で、十年以上、受注と発送の仕事をしていた。私はそれを知っていたのに、結びつけて考えていなかった。
「お母さん、仕事できたんだね」
「失礼ね」
母は私の顔を見て、それから少し得意そうに笑った。
*
晩ご飯は、榊原さんが招いてくれた。
「引っ越したばかりで大変でしょう」
榊原さんはそう言って、炊き込みご飯とけんちん汁を並べてくれた。
「炊き込みご飯もけんちん汁も、同じ材料なんだ。手抜きでごめんね」
「いえ、嬉しいです」
母は笑って、台所を借りた。しばらくして、卵焼きを運んでくる。
私の好きな甘いやつだった。




