↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

山を二つ超えたところ

作者: 朝山みどり
掲載日:2026/11/03

 山を二つ越えたところ


 山奥の集落と聞いていたから、車一台がやっと通れるような道を想像していた。崖の下には川が流れ、対向車が来たら、どちらかが延々と後退しなくてはならない。


 けれど、さっきから続いているのは、きちんと舗装された二車線の道路だった。白いガードレールもある。落石注意の看板は少し気になるけれど、道路の端には黄色い花まで咲いている。


「普通の道だね」


 私が言うと、ハンドルを握る母は小さく笑った。


「どういう道だと思ってたの」

「途中から歩くとか」

「引っ越しのトラックはどうするのよ」

「そこまでは考えてなかった」


 前を行くトラックには、私たちの荷物が積まれている。あの家で暮らした十五年分にしては、多いのか少ないのか分からなかった。


 トラックは制限速度を守って走り、私たちの車はその後ろをついていく。信号も渋滞もないまま、山に入ってもう一時間になる。


「まだ?」

「もう少し。橋を渡ったら右だって」

「それ、さっきも言わなかった?」

「さっきのは、橋までもう少しって話。今のは、橋を渡ったあとの話」


 母の言い分に、反論の余地はなさそうだった。


 ナビの画面には、青い線が一本、山の中へ延びていた。


 *


 離婚した母と娘が田舎へ引っ越すというなら、行き先は母の実家と相場が決まっていると思う。少なくとも、私はそう思っていた。


 けれど、私たちがこれから向かうのは、縁もゆかりもない集落だ。母の実家から、山を二つ越えたところにあるという。


 母も初めは、実家へ戻るつもりだった。地方都市の旧家だ。立派な祖母の家で暮らして、町で仕事を探す。

 私は四月から、そこから通える高校へ入る。そういう話だったのに、母が会社を辞めると知って、声をかけてきた人がいた。どうして母なのか、そのときの私には分からなかった。


 陶芸家の、榊原宗一さん。


 芸術に詳しくない私でも、名前を聞いたことがあった。銀座で個展を開けば、開場前から人が並び、会期が終わる前に作品が売り切れてしまうらしい。


「そんなに売れるなら、もっと便利なところに住めばいいのに」


 初めて話を聞いたとき、私は言った。


「土があるんだって」

「土?」

「使いたい土が、そこにあるんだって」


 ただ、そこは人を雇うには不便な場所らしかった。工房の事務や発送の仕事を頼もうにも、毎日通ってくれる人が見つからない。そこで、空いている離れに住んで働かないかという話になったのだ。高校へは、集落のバス停から四十分ほどで通えるという。


 母は仕事内容と給料、それから冬の道路事情まで確かめに行った。


「どうだった?」


 私が聞くと、母は少し考えてから言った。


「窓から、山が見えた」

「それはそうでしょうね」

「うん。それはそうなんだけど」


 母は私をまっすぐに見た。いつもの、決めたことを話すときの顔だった。


「働いてみたいと思ったの」


 *


 橋を渡って右へ曲がると、道は細くなった。といっても、車がすれ違える幅はある。木立の向こうに屋根が見え、やがて、小さな畑と家々が現れた。干された布団、青い桶、庭先で丸くなっている猫。


 トラックの音に、畑にいた人が腰を伸ばした。


「見られてる」

「引っ越してくる人が来た、って思ってるのよ」

「そうだもの」


 母は当たり前のように答えたけれど、ハンドルを握り直した。緊張しているのは、私だけではないらしかった。


 緩い坂を上った先で、トラックが左のウインカーを出した。生け垣の切れ目から入ると、広い庭に出る。母屋は庭の向こうにあって、その手前に、平屋の離れが建っていた。


 古いけれど、玄関の木戸はきれいに拭かれていた。軒下には小さなベンチがあり、その隣に、底の抜けた大きな壺が置いてある。


「あれ、高いのかな」

「触っちゃ駄目よ」

「まだ何もしてない」


 車を降りると、空気がひんやりしていた。街より春が遅いのか、生け垣の向こうには梅の花が残っている。


「遠かったでしょう」


 声のした方を見ると、作業着姿の男の人が立っていた。白髪交じりの髪に、紺色の前掛け。袖をまくった腕にも、靴にも土がついている。


 母が背筋を伸ばした。


「本日からお世話になります」

「こちらこそ。お嬢さんも、よく来たね」


 榊原さんは、私に向かって軽く頭を下げた。雑誌で見た写真では、難しい顔で器を眺めていた。その人が今は、片手に雑巾を持っている。


「こんにちは」


 私が挨拶すると、榊原さんは玄関を振り返った。


「さっきまで掃除をしていたんだけど、床が少し湿っているかもしれない。気をつけて」


 有名な陶芸家が、私たちの住む家の床を拭いていた。母も同じことを思ったらしい。


「そんな、私がやりましたのに」

「今日から暮らすんでしょう。荷物を入れる前の方が楽だから」


 玄関を開けると、木の匂いがした。


 窓を開けると、すぐ向こうに畑が見えた。その先は山だった。


 机を置くなら窓際がいい、と思った。


 そう考えてから、私は少し驚いた。ここに住むのだと、初めて実感した気がした。


 *


 荷物の運び込みは、業者の人たちがあっという間に済ませてくれた。その間に、榊原さんが工房を案内してくれることになった。母と並んで、あとをついていく。


 工房の裏手には、薪が屋根の高さまで積まれていた。開いた戸の向こうに、棚いっぱいの器が並んでいる。私が足を止めると、榊原さんが振り返った。


「見てもいいよ。乾かしている途中のは、触らないでね」

「全部、売るんですか」

「売れるものはね」


 棚の端に、小さな茶碗が置かれていた。淡い青色で、縁が波打っている。


「これは?」

「ああ。それは割る方」


 榊原さんは茶碗を裏返した。底に、赤い印がついている。


「割るんですか?」


 思わず声が大きくなった。


「ひびが入っているんだ。水が漏れる」


 榊原さんが指さした先に、細い線があった。よく見なければ分からないほどのひびだった。


「きれいなのに」


 私がつぶやくと、榊原さんは茶碗を元の場所に戻した。


「植木鉢にでもする?」


 返事をする前に、母が言った。


「そんな、せっかくの作品を」

「茶碗としては使えないから。欲しければ持っていって」


 私は両手で持ち上げた。見た目より軽かった。


「……欲しいです」


 *


 私は青い茶碗を両手で包むように持って歩いた。工房の裏の鉢から、小さな苗も分けてもらった。白い花が咲くという。


「ねえ」

「何?」

「榊原さん、どうしてお母さんを雇おうと思ったのかな」


 母は意外そうに私を見た。


「前に働いてた会社のお客さんなの。話さなかった?」

「聞いてない」

「何年か前に、出荷した荷物が届かなくてね。そのとき、私が窓口だったのよ。届くまで毎日連絡して、代わりの品も手配したの」

「それだけ?」

「そのあとも、何度か注文をいただいてたから。仕事を辞めるってご挨拶したら、人を探してるって」


 私は立ち止まりそうになった。名前の知られた陶芸家が、どうして母に声をかけたのか。何か特別な事情でもあるのかと、ずっと思っていた。


 母は前の会社で、十年以上、受注と発送の仕事をしていた。私はそれを知っていたのに、結びつけて考えていなかった。


「お母さん、仕事できたんだね」

「失礼ね」


 母は私の顔を見て、それから少し得意そうに笑った。


 *


 晩ご飯は、榊原さんが招いてくれた。


「引っ越したばかりで大変でしょう」


 榊原さんはそう言って、炊き込みご飯とけんちん汁を並べてくれた。


「炊き込みご飯もけんちん汁も、同じ材料なんだ。手抜きでごめんね」

「いえ、嬉しいです」


 母は笑って、台所を借りた。しばらくして、卵焼きを運んでくる。


 私の好きな甘いやつだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
お初ですm(_ _)m すんなり一読で楽しめて読めました。    母親と陶芸家は、ただの雇い主と従業員みたく書いてありますが   少し恋仲っぽい感じの方が自然かなと、思いました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。