第一話 冷たい雨と、春の陽だまり
冷たい、冷たい雨だった。石畳を叩く雨音だけが、薄暗い路地裏を支配している。
ゴミの山に埋もれるようにして倒れていたその『生き物』は、荒い息を吐きながら、ただ死を待っていた。銀色だったはずの毛並みは泥と血で汚れ、見る影もない。頭頂部から生えた獣の三角耳は力なく垂れ下がり、泥水に浸かった尻尾は重く水分を含んで、もはや動かすことすらできなかった。路地裏の人間達に石を投げられ、数日まともな物を食べていない。
ああ……寒い……。
獣人の孤児。名前は、かろうじて『ルカ』だと覚えていた。今はいない母親に、そう呼ばれていた記憶が残っている。彼に残された唯一の温かな記憶であった。
氷のように透き通った青い瞳は虚ろに濁り、灰色の空をただ見つめていた。もうすぐ、自分は死ぬのだ。誰にも気づかれず、誰にも悼まれることなく、この汚い路地裏でゴミの一部になる。そう思ってゆっくりと目を閉じた、その時だった。
「――まあっ!大変、こんな所に小さなこどもがいるわ!」
突然、冷たい雨粒が顔に当たらなくなった。恐る恐る、目を開ける。視界を覆っていたのは灰色の空ではなく、パッと花が咲いたような明るい色の傘だった。そして、その傘の下から覗き込んでいたのは、陽だまりのようなハニーブロンドの髪を持つ、人間の少女。
「アメリアお嬢様!なりません、その者は獣人の孤児です。不潔ですし、病気を持っているやもしれません!触れてはなりません!」
「何を言っているの、セバス!この子が息も絶え絶えになっているのが見えないの!?」
背後で慌てふためく豪奢な服を着た従者をぴしゃりと跳ね除け、少女――ルーベンス伯爵家長女、アメリアは、泥だらけの路地裏に躊躇なく膝をついた。
……こっちに、くるな……!
獣人は人間から忌み嫌われる存在だ。石を投げられるに決まっている。本能がそう告げ、彼は残された最後の力を振り絞って牙を剥き、細い喉から「グルル……」と威嚇の声を漏らした。
しかし、アメリアは全く怯まなかった。若草色の真っ直ぐな瞳に浮かんでいたのは、嫌悪でも恐怖でもなく、純粋な『慈愛』。
次の瞬間、ふわりと、甘い紅茶のような香りが鼻腔をくすぐった。
「――っ!?」
ルカは目を丸くした。上等なシルクのドレスが泥水で汚れるのも構わず、アメリアは泥と血にまみれた彼を、その細い腕でぎゅっと抱きしめたのだ。
「かわいそうに。酷く怪我をしているわ……それに、氷みたいに身体が冷たくなってる……。今まで一人で、よく頑張ったわね」
「……あ、ゥ……」
威嚇の声は、情けない嗚咽に変わってしまった。
温かい。人間の体温が、ドレス越しに伝わってくる。彼女の小さな手が泥に塗れた獣の耳を、震える背中を、何度も何度も優しく撫でる。その手のひらの温もりに、凍りついていた彼の何かが音を立てて溶け出していった。
「お屋敷に連れて帰ります。すぐにお医者様を呼んでちょうだい」
「お、お嬢様!伯爵様がお許しになるはずが……!」
「お父様とお母様には、私からしっかりお話ししますわ」
アメリアは彼をしっかりと腕に抱いたまま、振り返って凛とした声で宣言した。
「今日からこの子は、私の弟にしますの。私が、この子のお姉ちゃんになってあげるんですから!」
――おねえちゃん、おとうと。
言葉の意味は、よく分からなかった。けれど、彼女が自分を見捨てず、自分の全てを引き受けると言ってくれたことだけは、幼い獣人の魂に深く、深く刻み込まれた。
気がつくと、そこは雲の上のようにふかふかなベッドの上だった。泥と血にまみれていた身体は、温かいお湯で綺麗に洗い流されていた。傷口には丁寧に包帯が巻かれている。
「あら、目が覚めたのね」
声がして振り向くと、水盆とタオルを持ったアメリアが立っていた。彼女はベッドの端に腰掛けると、無防備に顔を近づけてくる。石鹸のいい匂いと、彼女自身の温かい匂い。
「泥を落としたら、こんなに綺麗な銀色の髪だったのね。耳も尻尾もふわふわで、とっても可愛いわ」
アメリアはニコニコと笑いながら、彼の頭の上の三角耳を優しく撫でた。くすぐったさと、経験したことのない心地よさに、彼の尻尾がシーツの上でパタパタと小さな音を立てる。
「そうだわ。貴方のお名前、なんていうの?」
「ぅ……る、か……」
「ルカ?ルカというのね!とっても素敵な名前だわ!苗字も教えてちょうだい?」
ルカは首を振った。覚えているのは名前だけだった。
「そう……。それじゃあ、私がプレゼントしてもいいかしら?」
ルカは小さく頷いた。アメリアは若草色の瞳を輝かせ、彼の透き通るような青い瞳を覗き込んだ。
「貴方の髪、銀色の雪みたいにキラキラして綺麗。おめめも、冬の星空みたいに澄んでいるわね……だから、『ヴィンター』はどうかしら」
「……ヴィン……タァ……」
「そう、ヴィンター。ルカ・ヴィンター。今日からそれが、貴方のお名前よ」
ルカ・ヴィンター。
自分の輪郭が鮮明に形作られるのを感じる。アメリアがその名を呼ぶたびに、空っぽだった心に温かいものが注ぎ込まれていくような気がした。
「私はアメリア。これからは、貴方のお姉ちゃんよ。……ルカは私が立派な男の子に育ててあげるから、もう何も心配しなくていいのよ」
「……ぁ、め、りぁ……」
ルカが拙い言葉で彼女の名を呼ぼうとすると、アメリアは「まあ!賢い子ね!」と満面の笑みで彼を抱きしめた。ふわりと包み込まれるような陽だまりの匂い。ルカは彼女の肩に顔を埋め、無意識のうちに、その腕の中で強く誓っていた。
アメリアは、僕の光だ。僕の命は、僕のすべては、アメリアだけのものだ。
それは、忠誠と呼ぶにはあまりにも重く、純粋すぎる執着の始まりであった。
あの日、雨の路地裏で死にかけていた哀れな仔犬は、春の陽だまりのような少女の手によって命を救われ――そして同時に、彼女なしでは生きられない『狂犬』へと生まれ変わったのだった。
ルーベンス伯爵家に引き取られてからの日々は、ルカにとって眩しすぎる光の連続だった。
「ルカ、スプーンはこうやって持つのよ。そう、上手だわ!」
「服のボタンは下から順番に留めるの。……ふふっ、一つ掛け違えちゃったわね。おいで、お姉ちゃんが直してあげる」
アメリアは甲斐甲斐しくルカの世話を焼いた。路地裏で野良犬のように生きてきた彼に温かいスープの飲み方を教え、ふかふかのタオルの使い方を教え、人間の言葉を一つ一つ教え込んだ。アメリアが近くに来ると、ルカのピンと立った三角耳は嬉しそうに前を向き、ふさふさの尻尾はちぎれんばかりに揺れた。体力が回復し、少しずつ言葉を話し始めた頃、アメリアはルカのために初老の家庭教師を雇った。
「私は見学しているわ。さあ、先生にご挨拶して」
ルカはアメリアのスカートの裾をぎゅっと握りしめたまま、家庭教師の老紳士を見上げた。警戒心から喉の奥で小さく「グルル……」と鳴ってしまったが、アメリアが頭を撫でてくれると、すぐに大人しくなった。
家庭教師との授業は順調に進んだ。ある日、建国史と貴族の成り立ちについて学んでいた時のことだ。先生が黒板に複雑な家系図を書きながら、一人の英雄について語り始めた。
「……さて、こちらの英雄をご存知ですか。この方は本来、継承順位が二位でいらっしゃいましたが、戦で多大な偉業を成し遂げたため、特例として当主となりました」
「……けいしょう、じゅんい?」
聞き慣れない言葉に、ルカは小首を傾げた。
「ええ。この国では原則として、最初に生まれた男児、つまり長男が家と領地を継ぐ決まりになっています。ですからそれ以外の男児――つまり、次男以下の『弟』達は他家へ婿に入るか、あるいは剣を極めて騎士として仕官するなどして、いずれ必ず実家を出ていくことになっているのですよ」
いずれ必ず、家を出ていく。その言葉に、ルカの耳がピクリと反応した。
「……おとうとは、ずっといっしょにいられないの?」
「左様です。立派に自立し、自分の居場所を他所で見つけなくてはなりませんからね。どれほど仲が良くとも、姉や兄とはいつか離れ離れになる宿命なのです。……ずっと同じ屋根の下で暮らし、生涯を隣で添い遂げることができるのはご縁を結んだ『旦那様』や『奥様』だけなのですよ」
『姉と弟は、いつか離れ離れになる』
『生涯を隣で添い遂げるのは、旦那様だけ』
「……っ」
ルカのピンと立っていた三角耳が、へたりと力なく垂れ下がった。ルカは最近、アメリアの両親――伯爵夫妻が、庭を散歩しながら熱烈に愛を囁き合っている姿を何度も見ていた。そしてアメリア自身も、「いつか素敵な殿方と愛し愛される関係になりたいわ」と、頬を染めて夢見るように語っていたのだ。
ずっと一緒にいられるのは、旦那様だけ。弟でいれば、いつか必ず、アメリアと離れ離れになってしまう。
「や、だ……!」
ポロポロと。
透き通った青い瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「おねえちゃんとはなればなれになるの……いやだ、やだぁっ……!」
「お、おや。ルカ君、どうしましたかな」
声を上げて泣き出してしまった幼いルカに、見学していたアメリアが慌てて駆け寄り、その小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「よしよし、大丈夫よルカ。先生のお話が怖かったのね」
「いやだ……!おうち、でない!ずっと、いっしょにいるぅ……!」
アメリアの胸に顔を埋め、しゃくり上げるルカ。その背中を優しく撫でながら、アメリアはふわりと温かい声で囁いた。
「大丈夫よルカ。貴方が望むなら……そうね、立派な『執事』として、ずっと私の傍にいてくれたら嬉しいわ」
――『執事』として。
その言葉が、ルカの耳にこびりついた。執事。それは、旦那様ではない。彼女の隣で微笑み合い、彼女を抱きしめる権利を持つ男ではない。ただ後ろに控え、仕えるだけの存在。
ルカは涙で濡れた顔を上げ、縋るようにアメリアを見つめた。
「……だんなさまじゃ、だめ……?」
「え?」
「ぼくが、おねえちゃんの、だんなさまに、なる。そうしたら、ずっといっしょ……」
必死の懇願だった。自分のすべてを救ってくれた光の、一番の特別になりたいという幼くも純粋な求愛だった。
しかし、アメリアは。
春の陽だまりのような慈愛に満ちた、残酷なほど美しい笑顔を浮かべて――こう言い放った。
「ふふっ、嬉しいわルカ。でもね、ルカには将来、もっと素敵なレディーにいつか会えるわ」
ルカの心臓が、冷たく凍りついた。
「私にも、まだ見ぬ素敵な殿方が待っているのよ。だからルカは、私の可愛い弟として、そして頼もしい執事として、私のお嫁入りを見守ってちょうだいね」
――私には、まだ見ぬ素敵な殿方が待っている。
アメリアは夢見るような瞳で、存在すらしない『誰か』を想って微笑んでいる。目の前にいるルカのことなど、一人の男として、これっぽっちも見てはいない。
その瞬間、ルカの涙はピタリと止まった。静かになったルカを見て、安心したのだと勘違いするアメリア。家庭教師も同じように、本のページを一枚捲り、説明を再開した。
その日の夜。
寝る前のブラッシングの準備をして部屋に入ってきたアメリアは、ルカの様子が少し違うことに気がついた。いつもなら「おねえちゃん!」と尻尾を振って飛びついてくるはずが、今日はベッドの脇に静かに立ち、ピンと背筋を伸ばしていたのだ。
「ルカ?まだお昼のことで泣いているの?」
アメリアが心配そうに覗き込むと、ルカはゆっくりと首を振った。透き通った青い瞳には、昼間の幼い涙はすっかり乾ききり、代わりに獲物を狙う静かな光が宿っていた。
「……アメリア、おじょうさま」
「まあ。お嬢様だなんて、どうしたの急に。私はルカのお姉ちゃんなんだから、今まで通り『お姉ちゃん』と呼んでちょうだい?」
アメリアがふわりと微笑み、ルカの頭を撫でようと手を伸ばす。しかし、ルカはその手をそっと両手で包み込むと、彼女の若草色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……ぼくはおとうと、じゃない。だから、おじょうさま、ってよぶ。……ぜったいに、そうよぶ」
「……ふふっ。もしかして、先生の前で泣いちゃったのが恥ずかしくて、男の子ぶっているのね?」
アメリアは勝手に納得し、ルカの鼻先をツンと突いた。
「わかったわ、ルカの好きにしていいのよ。でも、ルカは私の可愛い『弟』であることには変わりないんだからね?」
ニコニコと笑いながらブラッシングを始めるアメリアの背後で。ルカは極上の笑顔のまま、ゆら……ゆら……と重々しく尻尾を揺らした。
――ちがうよ、アメリア。ぼくはだんなさまには、なれないかもしれない。でも、ずっとそばにいられる、だれよりもすごい『しつじ』になってみせるんだ。アメリアにちかづくジャマなやつらは、ぜんぶ、ぼくがかみころす。アメリアが、ぼくがいないと生きていけなくなるまで……ずっと、ずっと。
それは、忠犬の皮を被った狂犬が産声を上げた、確かな瞬間だった。
つづく




