↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

尻ぬぐい令嬢は帝国で皇后になる もう二度と助けを求めないでください

掲載日:2026/09/10

尻ぬぐい令嬢は帝国で皇后になる


もう二度と助けを求めないでください


右手の親指の爪を噛む癖は、帳簿の数字が合わない夜ほどひどく出た。机の上には、三日前に義妹のリリアナが飲み残した白く濁ったハーブ水と、父が乱雑にめくって角を折った領地の支出台帳が積み上がっている。窓の外では冷たい秋雨が降り続き、雨漏りを受けるブリキ缶が、ぽつん、ぽつんと鈍い音を立てていた。


クララは唇から親指を離し、赤くなった爪の縁を色褪せた麻のリストバンドで隠した。支出台帳には、領民へ貸し出すはずだった冬小麦の購入費が記載されているが、倉庫には一袋も届いていない。その代わり、リリアナが舞踏会で着る真珠色の絹のドレスと、父が王都の競馬場で作った借金の請求書が、同じ金額だけ残されていた。


「どうして私が、妹のドレス代まで領地経費に見せかけなければならないのかしら。冬小麦がなければ、来年の収穫に間に合わないわ。それでもお父様は、領民には我慢させればよいとおっしゃるのでしょうね」


クララは冷え切った指先をこすり合わせ、台帳の横へ訂正表を置いた。家令も会計係も、父に意見して解雇されたため、伯爵家の金庫を管理しているのは二十歳のクララ一人である。母を亡くした十二歳の冬から八年間、彼女は父の失敗を隠し、義母の浪費を値切り、リリアナが壊した品物の代金まで、自分の装身具を売って支払ってきた。


部屋の扉が壁へぶつかり、古い蝶番が甲高い音を立てた。父のオスカー伯爵が、泥のついた革靴のまま絨毯を踏み荒らして入ってくる。その後ろには薄桃色の夜着をまとったリリアナがおり、スミレの練り香水を塗りすぎた甘い匂いが、古びた部屋いっぱいに広がった。


「クララ、明日の昼までに三千金貨を用意しろ。ヴェルナー伯爵がお前を気に入っているそうだ。食事に付き合って、うまく頼めば貸してくれるだろう」


父は新しい督促状を机へ叩きつけた。紙の端がハーブ水のグラスに当たり、濁った液体が訂正表へこぼれる。クララが慌てて布を押し当てる横で、リリアナは自分の爪に塗った薄紅色の染料を確かめながら、小さく鼻を鳴らした。


「お姉様は地味なのだから、せめて家の役に立たなくては困るわ。私の新しいドレスも、明日の午前中に受け取ってきてちょうだい。それから靴の留め金が外れたから、今夜のうちに直しておいてね」


クララは濡れた訂正表を持ったまま、父と義妹を交互に見た。父の外套から落ちた泥が、亡き母の選んだ深緑の絨毯に黒い染みを作っている。リリアナの足元には、今朝クララが磨いたばかりの白い靴があり、その爪先にも遠慮なく泥がついていた。


「領地の冬小麦を買うお金は、どこにあるのですか。納入期限は三日後です。三千金貨を用意する前に、領民へ返さなければならないお金でしょう」


父の眉間に深いしわが寄り、クララの手から訂正表を奪い取った。濡れた紙は簡単に裂け、八年間書き続けた細かな数字が床へ散らばる。父はその一枚を踏みつけ、机の端に置かれた真鍮の燭台を乱暴に押しのけた。


「領民には来年まで待たせればいい。お前が帳簿を整えれば済む話だ。今までもそうしてきただろう」


その言葉を聞いた瞬間、クララは親指を口元へ運びかけた。しかし、噛み跡の残る爪が目に入り、手を止める。雨漏りの音、スミレの香水、油の切れたランプの煤、何日も取り替えられていない木皿のパンくずが、八年間の暮らしそのものとして目の前に並んでいた。


クララは引き出しを開け、二通の書類を取り出した。一通は、三か月前に帝国大使館へ送った財政改善案に対する返書であり、もう一通は帝国財務院の採用通知書である。毎晩、家族が眠ったあとに書き上げたその提案書には、破綻寸前の領地を再建するための徴税改革と備蓄制度がまとめられていた。


「お父様、私は今まで、家族を守っているつもりでした。けれど、私が穴を埋めるたびに、あなた方はもっと大きな穴を掘りました。ですから、今夜をもって伯爵家の会計管理を辞任いたします」


父は一瞬ぽかんと口を開け、それから腹を揺らして笑った。リリアナも口元へ手を添えたが、姉が旅行用の革鞄を机の下から取り出すと、笑い声を止めた。鞄の中には三着の服、母の形見の濃紺のショール、自分名義の預金証書、そして八年分の会計記録の写しが収められていた。


「辞めるだと。お前のような愛想のない女を雇う場所が、どこにある。明日の朝になれば、泣いて謝ることになるぞ」


「明日の朝、私は帝国へ向かう馬車の中におります。ヴェルナー伯爵にも会いません。リリアナの靴も直しません」


クララは父の前へ金庫の鍵を置いた。小さな鉄の鍵が机に当たり、乾いた音を立てる。八年間、眠る前にも枕の下へ入れていた鍵だったが、指を離してみれば、驚くほど軽い物にしか見えなかった。


「これからは、ご自分で帳簿をつけてください。借金の利子も、ドレスの代金も、ご自分たちでお支払いください。私はもう二度と、あなた方の尻ぬぐいをいたしません」


翌朝、雨は止んでいた。クララは使用人用の小さな台所で最後の黒パンを薄く切り、固い皮を温かい山羊乳へ浸して食べた。誰かのために紅茶を淹れる必要も、リリアナの食べ残しを片づける必要もない朝は、古びた台所を昨日までとは違う場所に見せた。


伯爵家を出るとき、見送りに来た家族はいなかった。長く勤めた老庭師だけが門を開け、泥をかぶった白百合を一本切ってクララへ差し出した。クララは母のショールで花を包み、帝国行きの乗合馬車へ乗り込んだ。


「お嬢様がいなくなれば、あの家は半年ももちません。どうか振り返らず、お行きください。奥様も、きっとそうお望みです」


馬車が動き始めると、伯爵邸の屋根が少しずつ遠ざかった。クララは爪を噛みそうになり、代わりに膝の上の白百合を両手で持つ。泥の下から現れた花弁は傷んでいたが、朝の光を受けて、まだ白く輝いていた。


帝国の財務院で与えられた最初の仕事は、皇宮の食料庫に関する不正調査だった。帳簿上では兵士五千人分の小麦が毎月納入されているにもかかわらず、倉庫に届く量は四千人分しかない。クララは納品記録、門衛の当直表、荷馬車の車輪税を照合し、三日で横流しの経路を突き止めた。


会議室には、焦げた珈琲と乾燥したインクの匂いが漂っていた。帝国の高官たちは、外国から来た若い伯爵令嬢を値踏みするように眺めていたが、クララは一人ずつに証拠書類を配った。最後に入ってきた銀髪の青年だけは席へ座らず、壁際に立ったまま資料を読み始めた。


「不足分は倉庫番の横領ではありません。納入業者と財務院の次官が結託し、国境警備隊へ送る小麦を市場へ流しています。こちらが七年間の取引記録です」


ざわめきが広がる中、銀髪の青年は一枚目から最後のページまで目を通した。濃紺の軍服には勲章が一つもなく、袖口には乾いた泥がついている。しかし、財務院長が青ざめて立ち上がったことで、クララは初めて、彼が皇帝ルディガーであると気づいた。


「七年間、誰も見つけられなかった数字だ。君はどうして三日で分かった」


「荷馬車の車輪は、積荷が重いほど深い跡を残します。帳簿は嘘をつけますが、雨上がりの道は嘘をつきません」


ルディガーは窓の外の荷馬車道を見て、それから小さく笑った。クララは無礼を働いたのではないかと親指を握り込んだが、皇帝はその手元を一度見ただけで、机の上にあった砂糖壺を彼女の前へ押した。冷えた珈琲へ角砂糖を二つ落とす音が、静まり返った会議室へ響いた。


「よく働いた者には、温かい飲み物と休息が必要だ。報告の続きは、昼食を取ってから聞こう。それまで誰も、彼女へ新しい仕事を渡すな」


クララは帝国に来て初めて、仕事を終える前に食堂へ行った。焼きたてのパンを割ると、湯気とバターの匂いが立ち上る。皿の端には林檎の薄切りが添えられており、それを誰かのために残さず、自分で最後まで食べた。


それから二年、クララは各地の税制と備蓄制度を立て直した。彼女が作った規則では、支出を一人で決裁することはできず、三人の担当官が互いの記録を確認する。災害用の小麦は倉庫ごとに封印され、毎月違う監査官が在庫を調べるため、誰か一人が徹夜で穴を埋める必要もなくなった。


ルディガーは週に二度、財務院の食堂へ現れた。皇帝専用の豪華な食事ではなく、職員と同じ豆のスープを食べ、固すぎるパンには容赦なく眉をしかめる。クララが仕事を抱え込みすぎると、彼は書類を半分取り上げ、代わりに蜂蜜を塗ったスコーンを机へ置いた。


「陛下、これは職権の乱用です。私はまだ報告書を三通仕上げなければなりません」


「違う。労働規定の執行だ。財務院の規則を作った本人が、休憩時間を破ってどうする」


クララは最初、休むたびに背後から叱責されるような気がしていた。しかし、昼食を取っても帳簿は消えず、眠っている間に国庫が空になることもなかった。仕事を分けた部下が自分より早く誤りを見つけた日には、悔しさより先に、机の上が空いたことを喜べるようになった。


親指の噛み跡が消えた頃、故郷の伯爵家から最初の手紙が届いた。封筒には父の荒い筆跡で「至急」と書かれ、内側には借金の一覧と送金先だけが入っている。謝罪も近況を尋ねる言葉もなく、末尾には「家族を見捨てるな」と記されていた。


クララは返事を書かなかった。二通目は義母から届き、リリアナの婚約が破談になったため、帝国で新しい相手を探せと要求していた。三通目には、父が領地税を二重に徴収したことで監査を受け、爵位剥奪の審理が始まったと書かれていた。


秋の午後、皇宮の正門で騒ぎが起きた。破れた外套をまとった父と、流行遅れのドレスを着たリリアナが、クララに会わせろと衛兵へ詰め寄っている。かつて真珠色だったリリアナの靴には泥がこびりつき、外れた留め金を麻紐で結んであった。


クララは皇宮の階段の上から二人を見下ろした。父がこちらへ気づき、衛兵の腕を振り払おうとする。クララの右手は一度だけ濃紺のドレスの裾をつかんだが、爪を噛むことはなかった。


「クララ、今すぐ金を出せ。お前が帝国へ逃げたせいで、伯爵家はめちゃくちゃだ。皇帝に頼んで、爵位剥奪を取り消させろ」


「お姉様、私も皇宮で暮らせるようにしてちょうだい。あなたばかりきれいな服を着て、立派な部屋をもらうなんて不公平よ。昔は私の欲しいものを何でも用意してくれたでしょう」


クララは二人の顔を静かに見た。自分がいなくなったから伯爵家が壊れたのではなく、自分が壊れるまで支えていたため、崩れる時期が遅れただけだった。父の後ろには王国の役人が待っており、横領された冬小麦の代金を回収するための令状を持っていた。


「爵位の剥奪は、王国の法に基づく決定です。帝国が介入することはありません。領民から奪ったお金は、ご自分の財産を売ってお返しください」


「実の父親を見殺しにするのか。お前は家族のために働くしか価値のない女だぞ」


父の声が前庭へ響き、噴水のそばにいた人々が足を止めた。クララは母の形見のショールを肩へ掛け直し、衛兵長に向かって顎を引いた。ショールからは、保管箱に入れていた金木犀の香りがかすかに漂っていた。


「私は八年間、あなた方を助けました。けれど、その手を踏み台にしたのはあなた方です。もう二度と私に助けを求めないでください」


衛兵が二人を門の外へ連れ出すと、父の怒鳴り声は次第に小さくなった。クララは最後まで振り返らず、皇宮の中へ戻る。広い廊下の窓からは、庭師たちが植え替えた白百合が、秋の日差しを受けているのが見えた。


その日の夕方、ルディガーはクララを皇帝執務室へ呼んだ。革張りの長椅子の前には、林檎のタルトと温かいアールグレイが用意されている。机の上には一冊の分厚い書類が置かれており、表紙には金色の文字で『皇后冊立に関する婚姻契約書』と記されていた。


クララは椅子へ座らず、契約書を最初のページから読み始めた。皇后には国政への発言権、固有財産の管理権、予算の監査権が認められ、皇帝の命令であっても違法な支出には署名を拒否できる。さらに、皇后の業務時間、休日、病気療養中の代行者まで、細かく定められていた。


「陛下、これは求婚でしょうか。それとも人事異動の辞令でしょうか」


「両方だ。私は君を愛している。だが、愛という言葉だけで君の働きを無償にするつもりはない」


ルディガーは指輪ではなく、署名用のペンを差し出した。クララはすぐには受け取らず、第七条の文字を指先で叩く。共同統治における最終決定権が皇帝にあるという一文だけは、彼女が求める関係と異なっていた。


「第七条を修正してください。国家予算と民の生命に関わる政策については、皇后にも拒否権を認めていただきます。それから、陛下が私へ仕事を押しつけた場合、三日間、林檎のタルトを召し上がることを禁止します」


「前半は受け入れよう。後半は刑罰が重すぎないか」


「私に皇后になってほしいのでしたら、必要な規則です。私を陛下の尻ぬぐい役にするおつもりはありませんね」


ルディガーはしばらく契約書と林檎のタルトを見比べ、それから羽根ペンを取った。第七条を自ら書き直し、余白へタルトに関する条項まで追加する。その署名を確認してから、クララも自分の名前を書き入れた。


半年後、帝都の大聖堂で皇后冊立式が行われた。クララは金糸を過剰に使った衣装を断り、深緑のビロードに白百合だけを刺繍したドレスを選んだ。右手には皇帝から贈られた指輪が輝き、その親指には、もう噛み跡が一つも残っていなかった。


式を終えると、二人は祝宴を抜け出して皇后執務室へ向かった。窓辺の小さなテーブルには、少し焦げたスコーンと林檎のタルトが並び、銀のポットから湯気が立っている。ルディガーがタルトへ手を伸ばしたところで、クララはその皿を自分の側へ引き寄せた。


「陛下、本日の予定には二時間の休憩と書かれています。皇后になった初日から、私へ未決裁の書類を十八通も持ってきた方には差し上げられません」


「違う、クララ。君に処理させるためではない。一緒に確認してもらいたくて持ってきただけだ」


「同じことです。ご自分の書類は、ご自分でお読みください」


ルディガーは反論を諦め、自分の机へ書類を運んだ。クララは焼きたてのタルトへフォークを入れ、甘酸っぱい林檎と香ばしい生地をゆっくり味わう。窓の外では白百合が風に揺れていたが、どの花も泥に伏すことなく、夕暮れの空へまっすぐ顔を上げていた。


「陛下、書類を片づけたら、残りの半分は差し上げます。それまでは、助けを求めないでくださいませ」


「皇后陛下は、ずいぶん厳しいな」


「ええ。もう誰の尻ぬぐいもしないと、決めておりますので」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。