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二話「ただいま」



昨夜までの不調が嘘のように、今朝の体調はすこぶる良かった。

マネージャーからは「今日も休むように」と強く止められたが、彼女はどうしてもスタジオへ行くと譲らなかった。


長引く休止や気味の悪い現象のせいで、何日もファンを待たせてしまっている。


今日こそ、元気な声で復帰配信をしなければ。


軽くメイクを済ませ、カバンを手に玄関へ向かおうとした結衣は、ふと足を止めた。


さっきまでは何ともなかったはずのフローリングに、じっとりと水が広がっている。




「え……?」




驚いて水元を辿ると、どうやらキッチンの冷蔵庫の下から漏れ出ているらしい。

ジワジワと、ゆっくり少しずつ広がっていく。




「うそ、買ったばかりなのに……保証、効くよね。あとで連絡しないと」




やっと原因不明の体調不良から抜け出せたというのに、今度は家電の故障か。

結衣は困ったようにため息をつくと、急いで雑巾で水を拭き取り、冷え切った指先を洗面所で洗い流した。


そして、気を取り直すようにマンションの玄関扉を開ける。




「よし。行ってきます」




パタン、と重い金属扉が閉まる。

主が不在となり、完全な静寂だけが取り残された部屋。



――ピキッ。



洗面所の鏡の中心に、一本の細いヒビが入った。



同時に、先ほど綺麗に拭き取ったはずの冷蔵庫の下から、再び透明な水がじわじわと溢れ出し始めた。














仄暗い和室。線香から立ち昇る燻蒸の香煙に、姉が吹かす細い煙草の紫煙が混ざり合う。




『戒』と、姉は生徒に対するように俺の名を呼ぶ。




『私たちが怪異を祓う時、なぜわざわざ【原因】を探るのか、分かるかしら? 憑りつかれた人間の肉体から、怪異をただ力任せに引き剥がせば手っ取り早いのに』




まだ葛城の家にいた頃の記憶。

縁側に腰を下ろした姉は、気怠げに煙をくゆらせながら、幼い俺を冷ややかに見下ろして問いかけた。




『……それでは、また別の人間が狙われるから、ですか』




蛇に睨まれた心持ちで俺は答える。




『半分正解で、半分間違いね。本当の理由は、「それだと、すぐにまた同じ穴から湧いてくるから」よ』




姉は細い指先で煙草の灰を落とし、優雅で、酷薄な笑みを浮かべた。




『例えば、怪異が親しい人間の声や姿を真似て【なりすます】理由。あれはね、単に標的を油断させるためだけじゃない。自らの手で、内側から鍵を開けさせるためよ。……家族の声で「ただいま」と呼ばれたら、人は疑いもせず自ら鍵を開けて「おかえり」と招き入れてしまうでしょう?』


『自ら……』


『ええ。「名を呼んで、返事をさせる」「問いかけて、同意を得る」。怪異は存在しない。存在しないものは、現世に干渉できない。でもね、怪異の言葉に返事をしてしまったら、存在していなかったはずのそれらは、たちまちの内に現実の世界に越境する。死と生の境界は破られ、呪いが夢から溢れ返る』




姉はそこで言葉を区切り、ふうっと細い煙を吐き出した。




『ただの怨念や浮遊霊には自我も知能もないけれど、怪異の中には人の言葉を巧みに操り、狡猾な罠を張って積極的にこちら側へ干渉してくるモノたちもいる。そうした存在のこと、何というか分かるかしら?』




俺は答えることができず、姉がそのまま後を引き取る。




『ただの悪霊ではないわ。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもはや神に等しい――【祟り神】と呼ばれる存在かもね。そんな格のモノをいくら祓ったところで、また別の呪いが湧いて出るだけ。より確実に、完全に祓うためには……』




今度は俺が、姉の言葉を引き取る。




『……【根】に辿り着き、それを絶つ必要がある』




『その通り』と姉は快活な笑みを浮かべた。『……じゃあ、戒。神にすら届き得るその【根】の正体は、何だと思う?』




答えを出そうと頭を巡らせる俺に、姉は掌を向けて制する。そして人差し指で天を指し示し、それを唇の元へと引き寄せる。




『戒。どんな怪異も、元を辿れば必ず人間から生まれるわ。妬み、嫉み、執着。そういった「底なしの悪意」こそが呪いを形作り、怪異という現象と存在に繋がる。……行き着く先は結局のところ「人間の底なしの業」なのよ。

――だからこそ、気をつけて』




射抜くような姉の視線が戒を捉える。這い寄るような冷気が、部屋の空気をぞわりと凍らせた。




『怪異は、常に理不尽よ。戒、例えアナタが原因を祓ったと思っても……残酷な結末を止められるとは限らない』




姉はそう言って、まるで遠くを見つめるように目を細める。吐いた煙が、虚空へ向けて解けていった。




『――私でさえもね』




本当に、ままならないわ。


昏く澄み渡った記憶の中で、姉は最後にそう付け加えた。















駅前の喧騒から逃れるように入った喫茶店は、昼前だというのに妙に薄暗かった。

窓際の席には淡い陽が差しているはずなのに、二人の座る一角だけが、光が届かず冷え冷えとしている。


コーヒーの香りが漂う店内で、葛城戒はスマートフォンを机に置き、藤沢の話を黙って聞いていた。


相槌は少なく、視線は一度も藤沢の顔に向かない。


終始、藤沢の肩越しの空間へと注がれている。


得体の知れない目の前の青年に、藤沢はある程度探りを入れるように素性を尋ねてみた。


しかし、戒はひどく面倒くさそうに視線を逸らしたまま答えた。




「……霊能者とか、そういうのでいいです。シンプルで分かりやすいでしょう?」




あっさりと煙に巻かれ、藤沢は適当に誤魔化されたのだと悟ってそれ以上の追及を諦めた。

釈然としない様子で藤沢が口を噤むと、戒はこれ以上の脱線は無用だとばかりに、先ほどまで藤沢が必死に説明していた事業内容の確認へと話を戻した。




「要するに、画面にその『あばたー』という架空のモデルの人物画を使い、何千人もの人間を相手に会話をしたり、歌を、談話を、つまりは娯楽を届ける。……しかし、劇場のように入場料を取るわけでも、直接物を売るわけでもないんでしょう? 誰もが無料で見られるはずの映像で、どこからどうして金銭が発生するんです?」




藤沢は思わず苦笑したが、直後にぞっとした。

戒のその言葉にからかうような悪意が一切ない。

目の前の青年が、本気で配信文化というものに縁がないまま生きてきたのだと察した。




「戒さん。ミーチューブくらいは見たことあるでしょう?」


「……ありますよ。ヒカ〇ンとか、ですよね?」


「ええ、まあ……本当にそれ以外は全くご存じないんですね。悪いですけど、私みたいな中高年のおじさんのほうが、戒さんよりよっぽど今のネット文化に詳しいですよ」


「勉強不足ですみません。昔から、姉や妹にも呆れられてました……。今回を機に学ばせていただきます」




生真面目に頭を下げる戒に、藤沢は少しだけ毒気を抜かれたように息を吐いた。




「基本的には視聴者からの投げ銭……直接的な支援金や、広告収入ですね。ただ、どれだけ最新の技術で魅力的なキャラクターを用意しても、それだけでは誰も見ません」




藤沢はコーヒーカップに視線を落としながら、少しだけ熱を込めて言った。




「『中』にいる生身の人間……演者が、自分の声や感情、人生の時間を注ぎ込んで、ファンと一緒にそのキャラクターを育てていくんです。彼女たちにとっては、ただの動く絵じゃありません。ネットの向こう側で生きる、もう一つの大切な『体』なんですよ」




葛城は紅茶に砂糖を投入すると、スプーンで混ぜつつ得心するように頷き、




「……架空のモデルを、自己とは異なるもう一つの肉体とする。そこに生きた感情を注ぎ込み、見返りを求めない群衆から自発的な布施を集める。なるほど、宗教法人のシステムと同じですね」




その言葉に、藤沢は眉をひそめた。

偶像と信者という構図は確かに宗教的で、それ自体が悪いというわけでもないのだが、戒の解釈はどこか短絡的だったからだ。

もっとも、戒の方はただ純粋な推察を感想として吐き出しただけのようだった。




「……すみません。失礼な例えでしたか?」


「あ、いえ。……興味ない人が外から見れば、そう見えるのも仕方ないですから」


「ただ、藤沢さんのその説明で、一つの辻褄が合いました」




戒が低い声で話題を本筋へ戻す。




「辻褄、ですか?」


「ええ。藤沢さんが拾ってきたであろう怪異が、なぜあなた自身を『本命』として喰おうとしなかったのか、という疑問です」




ごくり、と喉が鳴った。

店内では学生らしい二人組が笑いあい、カウンターでは店員がカップを洗っている。

ありふれた風景の中、戒と藤沢、二人の席だけが、透明な膜で隔てられているようだった。




「現代のネット回線は、あちらとこちらを繋ぐ霊道。そして、何千何万もの感情が注ぎ込まれ続けるその実体無き『体』は……呪いや祈りを一身に集めるための極上の形代になり得るのかもしれません」




戒は淡々と続ける。




「霊道や形代については聞き馴染みのない言葉かも知れませんが、当座の間、充電ケーブルと端末の関係だと考えてください。ケーブルを通じて、端末に電気が流れ込む。まあ、スマートフォン程度であれば細いケーブル一本で事足りますが、『ケーブルが強固かつ太くなるほどに、端末もまたその性能を上げざるを得ない』。もっとも、流れ込まれているのはここでは霊力ですし、液晶に映るのはあの世の光景なわけですが」




机の上のスマートフォンを何気なしに裏返しつつ語る戒の不思議な喩え話に、藤沢は曖昧に頷く。




「つまり、うちのタレントと配信サービス、そして視聴者の関係が、何らかの理由によって儀式化されているということですか?」




戒は笑みを浮かべ、




「おそらくは。構造というのは常に置換可能なものです。どれほど不可思議な形態であれ、回路が繋がれば結果は吐き出される」


「待ってください」




藤沢は身を乗り出した。




「架空のキャラクターに感情を注ぎ込むだけなら、人気のアニメや漫画でも同じ現象が起きるはずじゃ? なぜ、うちのタレントたちなんです?」



それはおそらく。



「対話です」




戒は即答した。




「詳しいわけではありませんが、アニメのキャラクターは、画面の向こうから視聴者の名前を呼んだり、コメントをするとリアルタイムで返事をしたりはしない。……けれど、あなたの会社のタレントたちは、それを行うんでしょう?」


「ええ、そうですが……」




藤沢は惑いつつも頷く。




「名を呼んで、返事をさせる。問いかけて、同意を得る。……怪異というものは本来、存在しないんです。だから害をもたらすこともない。ただし、怪異の言葉に返事をしてしまったら──怪異という非存在をまるで存在しているように扱ってしまったら──夢と現は刹那、ネガフィルムのように切り替わる。怪異はね、その機会をずっと窺っている。そして怪異から見れば、数千数万人と同時に行う匿名性の高いコミュニケーションなどは、その最たる機会ということになる」




藤沢は絶句した。自分たちがファンを喜ばせるために作り上げた大切な居場所が、言うなれば自分たちが招くような形で、怪異がこの世に顕現するための儀式として『悪用されていた』と突き付けられたからだ。


戒は冷めた紅茶を一口すすり、さらに続けた。




「問題はそこからです。パイプを繋ぎ、この世界に生まれ落ちただけでは、奴らは満たされない。怪異にとって最高の栄養分は、人間の『負の感情』……恐怖や不安です」


「丁寧な説明、ありがとうございます。私には昨日祓ったはずなのにまた同じものが憑いている。でも、今までと違って私は今元気だ。戒さんは、それがおかしいと思っているんですよね?」




震えが伴う藤沢の声に、戒の戻したカップがソーサーに当たる音が重なる。


戒は静かに頷いた。




「ええ。あなたに憑いてきた怪異は、事務所に帰ってきたあなた越しに、もっと美味い餌……つまりは『形代』を見つけ、乗り換えた。だから今のあなたは、枝葉の残りカスが絡みついているだけで済んでいる」




藤沢は顔から血の気を引かせ、言葉に詰まった末にようやく次の言を絞り出した。




「じゃ、じゃあ……トラッカーが誰もいない方向を向くのも、リスナーが見たという不気味な影も……!」


「器であるアバターに収まりきらなくなった怪異の力が、現実の空間やシステムにまで漏れ出しているんでしょう。あなたに張り付いていたものは怪異の『枝葉』です。そいつは昨日、俺が切った。その影響で、事務所全体に根を張っていた『蔦』も一時的に緩んだ。だから、今朝だけは彼女たちの症状も軽くなったんでしょう」




戒は藤沢をまっすぐに見据えた。




「しかし、いくら『枝葉』を切ったところで、問題は解決しません……大元の『根』を引きずり出さないことには。今すぐ、そのトラブルが起きているタレント本人に会わせてください」




それまでは戒の言うことに狼狽えていた藤沢だったが、その要求を聞いた瞬間、奥歯を強く噛み締めた。

決して戒を疑っているわけではないと自身に言い聞かせつつも、にわかには信じがたいオカルトの話に会社とタレントの命運を全ベットできるほど、完全に信じ切れているわけでもなかった。


どうすべきか。重い葛藤が、藤沢の顔に濃い影を落とす。




「……本来なら、それは絶対にお断りしているところです。彼女たちの現実の姿……『演者』を直接、外部の人間と接触させるなんて、この業界では最大のタブーですから」


「……」


「万が一、情報が漏れて『特定』でもされれば、タレント本人の人生が壊れる。情報漏洩を起こしたとなれば、事務所の信用も地に落ちる。ましてや……今回あなたがもしも会うことになるとすれば、うちの屋台骨を支えているトップタレントです。もし彼女の情報が漏れて何か問題が起きれば、会社ごと一発で吹き飛ぶかもしれない」




藤沢は苦しげに言葉を絞り出す。




「身元の保証も、秘密保持契約も結んでいないあなたに会わせるなど、社長として到底首を縦には……振れません、が……」




藤沢はそこまで言って、苦しげに言葉を詰まらせた。

昨日、自分に憑いていたものを祓ってもらった。

戒の力は本物だと分かっているし、命の恩人だと深く感謝もしている。

だが、それとこれとは話が別だ。


コンプライアンスか、人命か。


そんなもの天秤にかけるまでもないはずなのに、現代の常識に縛られた藤沢の脳は、狂気の世界へ足を踏み入れることを無意識な自己防衛のため激しく拒絶していた。


ギリッと奥歯を噛み締める音が、薄暗い喫茶店の席に響く。

必死の抵抗だった。それは単なる保身ではなく、タレントを守るための切実な苦悩と拒絶だ。



だが、戒はシガーケースを指先で弄びながら、淡々と言い放った。



「怪異が現世で受肉し、充分な力を得た場合に、一体何が起こるか。

今までのようにただ悪夢にうなされたり、体調が悪くなったりするだけでは済みません。

楽に死ねればまだ良い方で、この世には死よりもずっと恐ろしいことが沢山ある。

そしてそれはさらに広がり続ける。

……でもあなたも社員とタレントを守る立派な社長さんだ。

俺はただ通りかかっただけの人間に過ぎない。別に無理強いをするつもりも道理もありませんよ」



「だから──藤沢さんが選んでください」




「秘密を守り切って呪いに怯えて終わるか、昨日会ったばかりの俺を信じて助かるか」




突き付けられた冷徹な二択は、本物の刃物のように藤沢を突き刺した。




「俺は、家を出た半端者です。しかし、家を出たとしても葛城家の人間であることには変わりはない。口の軽さは死を意味します。生きていくための最低限の金は頂きますが、無闇に他人の秘密を暴いたりもしない」



「──それもまた、葛城をやるということですので」




戒はそう告げると、あとの選択はご自由にとでも言うように黙ってしまう。

重い沈黙の中、藤沢の中でコンプライアンスとタレントの命、その他諸々が渦のように廻っていた。




「……昨日のことがなければ、絶対に信じませんでした」




ややあって、藤沢は苦しげに言った。




「それでも、今はあなたを頼るしかない。彼女たちを守れる可能性があるなら、私は社長として、その可能性を選びます」




戒が頬をすっと緩めて、




「賢明なご判断だと思います」


「ただ、戒さん。彼女には、あなたを霊能者とは伝えられません」




でしょうね、と戒は頷く。




「怯えますし、何より説明が難しすぎる。機材トラブルの調査という名目にします。戒さんはその専門家、ということで」


「……なるほど」




と戒はにやりと笑い、




「分かりました。ではそうしましょう。そちらの世界の作法は、藤沢さんに任せますよ」













二人で喫茶店を出てから、戒はほとんど口を開かなかった。

駅前の人波を抜け、オフィス街へ入る。昼間の街は騒がしいはずなのに、事務所の入っている雑居ビルが近づくにつれて、周囲の音が一枚ずつ剥がれていくように遠のいていった。




「……ここです」




藤沢が足を止めたのは、駅から少し離れた場所にある古いオフィスビルの前だった。

戒はビルの外観を見上げ、目を細めた。




「綺麗ですね」


「え?」


「いや。汚れていないなと」




その言葉の意味が分からず、藤沢は返答に詰まった。

だが戒はそれ以上は説明せず、先にビルの中へ入っていく。

エレベーターの扉が閉まる直前、背後のガラス扉に何かが映った気がした。


星を散らしたような青い瞳。白い髪。笑っているのか、泣いているのか分からない口元。


振り返った時には、ただ薄暗いアスファルトが続いているだけだった。


事務所の扉を開けると、藤沢の目にはいつもの見慣れた空間が広がっていた。


デスク、モニター、資料棚、収録ブース。何も変わらない。


変わらないはずなのに、空調の音だけがやけに大きく耳についた。




「藤沢さん。今日来ているそのタレントですが、売れているんですか?」




戒が歩きながら尋ねた。




「ええ。一期生としてデビューした三名のうちの一人です。お恥ずかしい話ですが、会社の売り上げのほとんどは彼女一人に依存しています。事実上、うちの稼ぎ頭でして」


「なるほど」




戒はそれだけ言うと、再び口を閉ざした。

一番奥にある防音扉の前に着く。

その瞬間、戒の足がぴたりと止まった。




「……どうしました?」


「いえ」




戒は扉でなく、扉の向こう側を見ているようだった。




「藤沢さん。開ける前に一つだけ」




どこか聞かれることを警戒するかのように、戒は声を潜めつつ言う。




「はい」


「中で、モニターや機材にあり得ないモノが映っても、普段通りに接してください。アレに出来るだけこっちの不安を悟らせたくない」




藤沢はごくりと固唾を呑んで頷いた。













「結衣ちゃん、お疲れ様。今ちょっといいかな」




ノックをしてから収録ブースの扉を開ける。


防音仕様の中で、何台ものモニターが薄暗く光っていた。


その前に座っていた少女が、ゆっくりとこちらを振り返る。


大きなゲーミングチェアにすっぽりと収まった小柄な体躯。


大きめのパーカーを着込み、顔の半分を黒いマスクで覆っている。


目の下には、眠れていない人間特有の薄い影が落ちていた。


だが、藤沢が最初に見たのは彼女本人ではなかった。


視線の先――結衣の背後には、部屋の空気を軋ませるほどの悍ましく禍々しいナニカが、彼女の小さな体をすっぽりと覆い隠すように居座っていた。


間違いないと確信する。これが、戒の言っていた『根』の一部なのだろう。


藤沢が傍らの戒に素早く視線を走らせると、戒もまたほんの一瞬だけ表情を強張らせ、何かを確信したように小さく息を呑んでいる。


戒の忠告通り、緊迫を悟られないようにして、藤沢が努めて明るく口を開いた。




「こちら、さっきメッセージで伝えた、機材トラブルの専門家の戒さんだ。戒さん、こちらが先ほどお話しした『宵月ましろ』の……結衣ちゃんです」




藤沢に紹介され、少女が小さく頭を下げる。

戒は表情をすぐに取り繕い、軽く会釈を返した。




「……初めまして。名前は、戒。『葛城』をやっています」




短く名乗る。それは単なる挨拶ではないということを、藤沢は戒から聞いていた。

忌まわしき『葛城』の名を聞いた怪異がどう反応するかを見極めるための一手だという。


少女は「かつらぎ……?」と不思議そうに小首を傾げるだけだったが、彼女の背後にある気配も、逃げるどころかピクリとも動かない。


戒は静かに息を吐き、おもむろに懐からシガーケースと革の小袋を取り出した。




「一応確認しますが、ここは禁煙ですよね?」




戒は結衣に向けて訊ねたが、結衣が答えるよりも早く藤沢が止めに入った。




「当たり前ですよ! 吸うなら建物の外へ。火災報知器でも鳴ったら大変です」




タレント事務所でボヤ騒ぎにでもなれば、所属タレントの評判にも関わってくる。評判はタレントの命だ。




「……ですよね」


「火は絶対にNGですからね?」




必死に両手を振って制止する藤沢を見て、戒は「分かりました」とあっさりと引き下がり、シガーケースを上着のポケットにしまう。駄目元で聞いてみただけなのだろう。


藤沢は胃の痛みを覚えながら冷や汗を拭ったが、何も知らない結衣からすれば、ただの不審者でしかない。


長袖で刺青こそ隠しているものの、気怠げな目つきや漂う空気は、どう見てもカタギのそれではない。


そんな男がいきなり密室でタバコらしきものを取り出し、火が使えるかなどと尋ねたのだ。


結衣は完全に引いてしまい、警戒するようにパーカーの袖口をぎゅっと握り直すと、戒から半歩だけ距離を取った。




「……社長。この人、本当に専門家なんですか?」


「もちろんだよ結衣ちゃん。ちょっとやり方が古風なだけで、彼の腕は確かだから……」




藤沢が必死に取り繕う横で、戒は結衣の反応を気にも留めず、革の小袋から手のひらサイズの束を取り出す。

神道、仏教、陰陽道など、様々な宗派の護符をラミネートし、十枚ひとまとめにリングで綴じたものだった。




「駄目なら仕方ない。一つ手順を飛ばして、別のテストを行います。さっき藤沢さんから聞いたんですが、誰もいない方向を向くカメラの誤作動。ええと、『とらっかー』でしたか? 今からそれの異常を調べます」




言いながら、戒はその奇妙な札の束を一番上へ掲げた。




「作業道具ですよ。こういう複雑な図形や文字の羅列を見せると、機械が人間の顔だと勘違いして認識エラーを起こすことがある。……そうですよね、藤沢さん?」




戒がしれっと横目で合図を送ると、藤沢は一瞬ビクッとした後、慌てて口裏を合わせた。




「そうなんだ結衣ちゃん。トラッカーの顔認識ソフトは、特定の複雑な模様を誤認することがあって……これはその、調査用のテストらしいんだ」


「……テスト」




結衣は訝しげな目を、もう隠そうともしなかった。

疑念もあらわに、戒の手にあるその札の束をジッと睨みつける。




「それ……どう見ても筆文字みたいなのが書かれてますけど。お札か何かにしか見えないし……」




もっともな疑問だった。どう見てもカタギではない男が、密室で意味不明なチェックを始めようとしているのだ。警戒しない方がおかしい。不満を口にしないのは、所属事務所の社長の手前ということもあるだろう。




「それはだな、光学的なエラーを直接引き起こすための特殊な図形で……」




しかし当の藤沢がしどろもどろになって言葉に詰まっている様子を見て、結衣は小さく溜息をついた。




「……大丈夫です」


「結衣ちゃん?」


「正直、全然納得してませんし、すごく胡散臭いです。でも……社長がそこまで言うなら、今は信じます。せっかく体調も良くなったんです……機材のバグさえ直るなら、もうやり方はなんだっていいんです。早く配信を再開したいので。……テスト、手短にお願いします」




その横顔には、得体の知れない男への強い警戒心よりも、ファンを待たせていることへの焦りと、強い責任感が勝っていた。


藤沢が内心で胸を撫で下ろす横で、戒は静かに一枚目の護符を捲り、結衣の顔を映しているトラッカー用の小さなカメラに向けて、それを見せつけるようにかざした。


結衣には、ただの奇妙な模様が描かれたカードにしか見えていないはずだった。

けれど藤沢には、戒の指先がわずかに緊張しているのが分かった。




「……どうですか。画面のトラッカーの挙動はおかしくないですか?」




結衣は確認用のモニターに目をやり、小さく首を傾げた。




「はい。緑色の認識枠は、普通に私の顔を追跡してます。エラーは出てないです」


「なるほど。では、次です」




二枚目。一般的な神社の清め祓い。変化はない。


三枚目。密教の軽い魔除け。これも無反応だ。


ここまでは予想通り。戒の指先が、四枚目の護符を捲る。


『九字護身法』と『急急如律令』が朱墨で記された、本格的な陰陽道の呪符。


これで、ある程度なら少なくとも見て取れるほどに動揺はするだろう代物だ。


しかし、トラッカーは正常に結衣を映し続けている。

彼女の背後にある気配も、ピクリとも動かない。


常に無表情だった戒の顔が、ここで初めてわずかに曇った。


続く五枚目。


仏教において最強の破魔の力を持つ『不動明王の梵字』。

これを突きつけられて平然とできるはずがない。そのはずだったが――



しかし、護符そのものには一切の反応がなかった。



代わりに、デスクの上に置かれていたマイクのランプが、一瞬だけ赤く明滅した。




「今、何か……」




藤沢が呟くと、戒が鋭く視線だけで制した。




「不味いな」




その声は、これまで聞いたどの言葉よりも低く、微かに焦りが混じっていた。


結衣が小さく肩を震わせ始める。




「……寒い」


「結衣ちゃん?」


「いえ、大丈夫です。少し、冷えたみたいで……」




そう言って笑おうとしたが、結衣の目はモニターの一点に吸い寄せられていた。


黒い画面。


何も映っていないはずのそこに、彼女だけが何かを見ているようだった。


わかりきってはいたが改めて思う、執着心が強すぎる。


このまま放っておけば、確実に彼女は――――


そう思いつつ、戒は六枚目の護符に指をかける。

その護符は、神仏の力に頼るものではない。

葛城の家が外法として使う、怪異の核を強制的に引きずり出すための劇薬、



――忌み札『離魅振(リビフリ)




大きなリスクもあるが、使わざるを得ない。その護符を引き抜こうとしたその瞬間だった。




「あの……もう、行ってもいいですか?」




結衣が、ひどく申し訳なさそうに言った。




「体調不良でお休みして、たくさんの人に迷惑をかけちゃったから……早く配信して、埋め合わせがしたくて……」




健気な言葉だった。

ファンを想う、責任感のある言葉だ。


藤沢は胸を締めつけられるような思いで結衣を見つめる。


だが戒だけはその間、別のものを見ていた。

結衣の背後で、空間が、ゆっくりと歪み始めていた。

彼女の言葉に反応するように。

その責任感すらも、餌として噛み締めるように。


バチンッ!


照明が弾けるように明滅した。




「きゃっ……!」




結衣が小さく悲鳴を上げる。

同時に、デスクに並んだモニターが一斉に砂嵐へ変わった。


ジジッ、ジジジジッ……。


スピーカーから、耳の奥をざらつかせるようなノイズが漏れた。

その奥に、誰かの笑い声のようなものが混じっている。


戒の手の中で、忌み札『離魅振(リビフリ)』の端が黒く焦げていく。




「……藤沢さん。下がって」


「戒さん、これは……」


「『根』のお出ましです。こいつは――」




戒が言いかけた瞬間、バチン、バチンとブース内の照明が狂ったように明滅を繰り返す。

肌をジリジリと焼くような、異常なまでの殺気と霊圧。

防音材で囲まれた密室の空気が、急激に水のような質量を持ってのしかかり、呼吸すらままならない。




『ただの悪霊ではないわ。神仏から見ればただの巨大な呪いだけれど、人間からすればもはや神に等しい――【祟り神】と呼ばれる存在かもね』





戒の脳裏に姉の冷徹な声が蘇る。




クスクスと少女のような笑い声が響く。




「そうか、騒がないはずだ」




葛城である自分が立ち塞がっていようと、奴からすれば『どうとでもなる』のだ。



ただの傲慢ではない。



こちらを確実に屠るための『決定的な算段』がすでについているとしたら――。


その底知れぬ余裕を悟り、戒の背筋に嫌な汗が伝う。

直後、分厚い防音扉が勢いよく開かれた。




「しゃ、社長……」




血相を変えて飛び込んできた女性スタッフが、タブレットを握りしめていた。

蒼白な顔に、恐怖に見開かれた目が震えている。



「どうした? 呼び出しのランプも点けずに――」




藤沢が咎めるが、女性スタッフはそれが聞こえていないかのように、機材の前に立つ結衣と、自分の手元にあるタブレットを交互に指差した。




「あ、その、結衣ちゃんのチャンネルで、配信が……」


「配信……?」


「いま、勝手に始まってるんですが……」




その報告に、戒は息を呑み、悪寒に身を僅かに震わせた。


女性スタッフは震える指で、タブレットの画面をこちらへ向ける。

そこには確かに、星を散らしたような青い瞳を持つアバターが映っていた。

宵月ましろ。

結衣が演じているはずの、彼女のもう一つの姿。

けれど結衣本人は、今、戒たちの目の前にいる。




「え……?」




結衣の声が、恐怖で掠れた。




「なん、で? 私、ここにいるのに……?」




アーカイブではない。『今』、『ここ』にいるアバターが、カメラの向こうの大勢の視聴者に向かって、にっこりと笑いかけた。


直後、スピーカーから愛らしい少女の声が響き渡る。

それは、結衣の喉から発せられるものと寸分違わぬ、完璧な『ましろ』の声だった。




『こんましろー! 急に配信お休みしてて、本当にごめんねーっ! 告知もなしにいきなり配信始めちゃってびっくりしたよね? ごめんね!』




画面の中の『ましろ』が、申し訳なさそうに両手を合わせて大袈裟に首をすくめる、愛らしいモーションを取る。




『でもね、もう今は元気! ねっ、一緒にお休みしてる他の2人……めるちゃんとシオンちゃんのことも、みんな心配だよね。でも大丈夫、すぐによくなる!』




『ましろ』はカメラに向かって元気いっぱいにウインクをして見せ、それから、少しだけ声を潜めてみせた。




『てかさー! 休んでいる間に色々な怖いことがあってーーーー』


『今日は皆にきいてほしいこと、沢山あるんだよねっ』




星を散りばめた煌めく青い瞳が、画面越しに大勢の視聴者を、いや、この密室にいる戒たちを真っ直ぐに見据えて嗤った気がした。




『だから!』







――――今日もいっぱいお話ししよっ?



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