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手を抜くためには、抜けるほどの実力がいるのだ。

 放課後、俺はすぐに帰宅せず街の図書館へ向かった。俺が基本的に求めているのは無機質な静寂だ。


 街の図書館、高校の図書室でないのがポイントだ。あまり人気のない平日の図書館、静寂が支配するこの場所がいい。クラスメートに見られる心配もないのも好ましい。


俺は参考書を開き、黙々とペンを走らせた。やるのは宿題ではない。一年先の範囲までの先取り学習だ。実際のテストでは高得点を取らないし、授業中も目立って回答したりはしない俺だが、勉強には手を抜かないし、正直に言えば中学時代から学年トップの学力があると思う。


記憶にある限り今まで、テストで解けなかった問題はない。なぜそこまで勉強するのか。


理由はシンプルだ。「聞こえてしまうから」である。


テスト中、周囲の思考——焦りや、歓喜と共に想起される解答——が、ノイズとして入ってくることがある。俺にはカンニングする趣味はない。


だが、勝手に聞こえてくる声を防ぐ術もない。

だから、誰よりも早く、問題を見た瞬間に解く。周囲が思考を開始する前に、俺は解答を終えていなければならない。


これは優秀でありたいという欲求ではない。俺のプライドを守るための防衛策だ。

ノイズに汚染されていない、俺だけの答えを出すために。


その結果俺は大抵のテストなら満点を取れるが、あえて空欄を作り平均点を取る。目立つとろくなことがない。向けられる心の声が増えるだけで、それはうるさい。手を抜くためには、抜けるほどの実力がいるのだ。


 一時間ほど集中し、脳が疲労したところで図書館を出る。次は身体の時間だ。

俺は学校から少し離れた人気のない河川敷へ移動した。


橋の下、土手の死角になっている一角へ降りる。ここは釣り人も寄り付かない、俺が綿密なリサーチの末に見つけたエアポケットだ。


 心の音は、ない、俺の『聴覚』の有効半径はおよそ二〇メートル。相手が感情を昂らせていない限り、それ以上の距離があればノイズは届かない。念のため、橋脚の裏まで確認したが、反応はゼロ。完璧な無人地帯だ。


「……ふぅ」


鞄を置いて着替えると、軽くストレッチを始める。


夕日が川面を染め、微かに潮の香りが混じる風が吹き抜ける中、俺は走る。心拍数を上げ、筋肉に負荷をかける。筋トレとシャドーボクシングを反復する。


幼い頃からボクシングジムに通いつめ、こうした自主トレも欠かさない。高校生としては上位のボクサーである自負はあるが、鍛錬はやめない。振るう予定もない拳を、鍛え続けている。


 なぜなら、俺は知っているからだ。人の心には、どれほど善良そうに見える人間であっても、どす黒い「悪意」が潜んでいることを。俺は幼い頃、その悪意に晒され続けた。


だから、身を守る力が必要だった。暴力という物理的な害意からも、言葉という精神的な害意からも、自分一人で立ち続けるための力が。


「……ふぅ」


 汗を拭い、息を整える。多分俺は、同世代の男子として、そこそこ優秀な力を持っているのだろう。だが、俺はこれを隠す。目立てば、人は俺を見る。俺を見れば、俺について考える。称賛、嫉妬、好奇心。それらはすべて「ノイズ」となって俺に降り注ぐ。


だから俺は、モブでいい。モブ『が』いい。誰の記憶にも残らない、背景のような存在でありたい。

 俺は鞄を拾い上げ、夜の帳が下り始めた街へと歩き出した。


※※


俺の住むマンションは、このあたり、つまりは湘南エリアでも有数のセキュリティを誇る高級物件だ。オートロックを抜け、最上階の角部屋へ。一度背後を振り返り、誰もいないことを確認したうえで重厚な扉を開ける。「おかえり」の声はない。


「……ただいま」


広すぎるリビングには、俺一人の生活音だけが響く。家具は最低限。生活感がない。まるでモデルルームのような部屋だ。家賃も学費も、口座に振り込まれる金で賄われている。送り主である両親は、割と有名な、社会的地位も名誉もある「立派な人たち」らしいが、俺にとってはただのスポンサーだ。


 彼らは世間的に見れば「成功者」で、そして「注目を集める」人間たちだ。幼い頃の俺は、彼らに向けられた悪意のトバッチリを食らうのに忙しかった。家の壁に落書きされたり、知らない大人に腕を引かれたり。学校でも苦労した。


おかげで俺は学んだのだ。目立てば狙われる。弱ければ食われる、と。この無駄に広い部屋も、俺が続けている格闘技も、すべては身を守るためのシェルターだ。


だから俺は、高校では徹底して「モブ」でありたい。誰の記憶にも残らない背景モブであれば、石を投げられることもないのだから。


俺はキッチンに立ち、一人分の夕食を作り始めた。キャベツを刻み、豚肉と炒める。包丁のリズムだけが、空虚な部屋に響く。


この孤独は、俺が自ら望んで手に入れたものだ。誰にも干渉されず、誰の声も聞こえない。これこそが至高の平穏。


——なのに。ふと、無音のキッチンに「幻聴」が混じった気がした。


(佐鳥くん!)


今日一日、俺の脳髄を散々痛めつけた、銀髪の美少女。朝比奈七瀬。彼女は、ただ「完璧な自分」であるために、そして「俺に好かれる」ために、愚直なまでに努力を重ねている。


俺には理解できない。なぜそこまでするのか。なぜ俺なのか。だが、あの唐揚げの味を思い出す。俺が今作っている、塩コショウだけの適当な野菜炒めとは違う。天才を演じるために積み重ねられた、膨大な試行錯誤の味。


「……もしかしたら」


俺は「平穏」を守るために、必死に勉強し、体を鍛え、モブを演じている。 彼女は「完璧」を守るために、必死に演算し、自分を磨き、聖女を演じている。 目的は真逆だが、その水面下の「必死さ」において、俺たちは——。


「いや似てねぇか……あいつ、うるせぇし」


出来上がった野菜炒めを皿に盛りながら、俺は苦笑して否定した。それにしても、あんな騒音まみれの一日を過ごした後に、この静寂のなかでうるせぇ声を思い出すとは、毒されたか、俺も。


明日は体育がある。また彼女の脳内実況オリンピックが始まるのだろう。気が重い。……本当に、気が重いだけならいいんだが。


俺は一人の部屋で、静かに手を合わせた。

「いただきます」

その声は、誰にも届かずに消えた。



この話はハッピーエンドで終わります

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湘南が舞台だったとは 住んでるのは葉山かな?
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