マジでうるさい。あー、うるさいな。うるさいってば。
体育館裏の渡り廊下。西日に照らされたその場所で、彼女は折れた花のように座り込んでいた。
「……っ、うぅ……」
膝を抱え、小さく呻く声。だが、俺の耳に届く心の声は、依然として死に絶えたような無音のままだ。脳内会議を開く余裕すらないほどの激痛と、張り詰めていた糸が切れた虚脱感 。白い肌に滲む鮮血が、嫌に生々しい 。
「……無理しすぎだ、バカ」
俺は、彼女の「平穏」を乱す悪意をすべて叩き潰したつもりでいたが、こいつ自身が抱え込んだ無理までは、まだ処理できていなかったらしい 。
「……あ、佐鳥、くん……」
顔を上げた七瀬の瞳は、涙で潤んでいた 。そこには「学園の至宝」と呼ばれた高潔な輝きはなく、ただただ、痛みに耐え、安堵に震える一人の少女の姿があった 。
「……ごめんなさい。ちょっと、情けないわね……立てなくて……」
「……わかってる」
俺はため息を飲み込み、その場に膝を折った。一瞬、彼女の体が強張る。だが、構わずその細い背中と膝裏に腕を回した 。
「えっ……!? ちょっ、佐鳥くん……!?」
「じっとしてろ。騒ぐと傷に響く」
俺は彼女の体を軽々と浮かせた。いわゆる「お姫様抱っこ」という、俺の柄にも、彼女のキャラにも似合わない移動手段だ。
腕の中に収まった七瀬は、熱を持った小動物のように震えていた。抵抗する気力もないのか、それとも別の理由か。彼女は観念したように、俺の首に細い腕を恐る恐る回してきた 。
――その時だ。
(…………♪)
不意に、凍りついていた俺の脳内に、微かな、けれど確かな「音」が灯った。
それは、さっきまでの絶望的な無音ではない。氷が解け、そこからあふれ出した水が奏でるような――星が降る夜の静寂に響く、優しく透き通ったオルゴールの旋律 。
(あったかい……)
(夢じゃない……よね。本当に、来てくれた……)
(あの時と、同じだ……。泥だらけで、ボロボロだった私の前に、真っ先に現れてくれた……)
そこから先は、言葉にならない、純粋な幸福と情愛の音。
「あの時」だと? またそれか。俺は歩を進めながら、記憶の隅にある、埃をかぶった断片を手繰り寄せた。
腕の中にある朝比奈の柔らかい感触。――前にも、こんなことがあったような気がする。ずっと前に。そのときも、誰かが泣いていた。俺は、たしか、絆創膏を差し出して、それから少しだけそいつと話したんだ。
『うるせぇんだよお前は』
『腹括って演じきれば、それは本物と同じだろ』
子どもの頃の、この能力や両親の影響で散々だった時期、負けないように、努力を始めた時期の、俺自身の声が聞こえた気がした。
――まさか、な。
※※
「さ、佐鳥くん…… みんな、見てる……」
「見させておけばいい」
俺は前だけを見据えて歩き出した。
体育館から校舎へ続く渡り廊下には、試合を終えた生徒や、次の試合に向かう生徒たちが溢れかえっている。その真っ只中を、俺たちは突っ切る。
俺たちが姿を現した瞬間、喧騒が波打つように変わった。
「おい見ろよ、あれ……!」
「えっ、嘘、朝比奈さん!?」
「抱っこされてる……! 誰だあの男子!?」
無数の視線が突き刺さる。驚愕、好奇心、そして嫉妬の声、声 普段の俺なら、最も忌み嫌う「注目の的」だ。胃が痛くなるような状況だ。だが、不思議と今は、それらがただの有象無象の羽音にしか聞こえない。
「あれ、1組の佐鳥じゃね?」
「さっきの試合で無双してたやつだ!」
「マジかよ、聖女様をお姫様抱っこって……!」
「うわぁぁぁ、いいなぁ……俺も代わりてぇ……」
「絵になりすぎだろ、映画かよ……」
悲鳴のような男子の羨望と、女子たちの黄色い声。やっぱり、朝比奈に敵意を持っていたのは、ごく一部の歪んだやつだけだったらしい、少しばかり安心する。
俺は小さく鼻を鳴らし、少しばかり安堵して、腕の中の朝比奈を抱え直した。
腕の中の朝比奈は、顔を真っ赤にして、俺の胸にギュッと顔を埋めている。
そんな彼女の様子も、周囲の視線も、内心も含めたひそひそ話も、全部無視だ。今の俺にとって重要なのはこの演技派な聖女を最短ルートでベッドに寝かせることだけだ。
「……道、空けてくれ」
人だかりの前で、俺は低く声をかけた。それだけで、生徒たちがモーゼの海割れのように道を開ける。 俺は誰とも目を合わさず、ただまっすぐ歩いた。
ふと、他の連中とは違う種類のノイズも入ってくる
(目ぇ合わせんな……あいつ、なんか変だぞ)
(あいつにも、聖女様にも……もう関わらんとこ……絶対……)
人混みの陰に隠れるようにしていた、2組の連中だ。実に結構。これで俺の平穏を乱すヤツの数が減った。もう二度と朝比奈に手出しはしないだろう。
「……佐鳥くん……」
腕の中で、七瀬がポツリと漏らす。その瞳は、もう周囲の野次馬なんて見ていなかった。 ただ、真っ直ぐに前を見据える俺の顔だけを、熱っぽい瞳で見つめていた。
(……かっこいい)
ぽつり、とだけ漏れた。その心の声が聞こえた瞬間、俺は少しだけ歩く速度を上げた。……勘弁してくれ。このままだと、俺の顔まで赤くなりそうだ。
保健室には、運よく――あるいは運悪く、先生がいなかった。茜色に染まる室内は、消毒液の匂いと、静寂に満ちていた。世界から切り離されたような、二人だけの時間。
俺は七瀬をベッドに座らせると、棚から救急箱を取り出した。彼女の白い足には、擦りむいた傷と、青あざが痛々しく残っている。俺は膝をつき、その足に手を伸ばした。
「……しみるぞ」
「……うん」
消毒液を含ませたガーゼを、傷口にそっと当てる。 ビクリ、と七瀬の細い足が俺の手の中で震えた。痛みに耐えるように、シーツをギュッと握りしめる音が聞こえる。俺はできるだけ手早く、かつ丁寧に処置を済ませ、大きな絆創膏を貼り付けた。けがの手当ては、怪我ばかりしていたころに慣れている。
いつもなら、こんな時ですら(痛い顔は見せない!)(ここで甘えるべき!?」という喧しい脳内会議が漏れ聞こえてくるはずだ。だが、今はそれがない。
聞こえてくるのは、彼女の安らかな呼吸音と――耳の奥をくすぐる、例の優しいオルゴールの旋律だけ。
思考が停止し、純粋な感情だけで満たされている時の音だ。
さっきのコートでの、痛みを押し殺した「死んだような静寂」とは違う、体温のある音色。
その温かい調べが、今の俺には不思議と心地よかった。
その作業の間、俺の頭上からは、ずっとあの「音」が降り注いでいた。
(♪~~~~……)
優しく、甘美なオルゴールのような音。言葉すら溶けてしまった、純粋な幸福の旋律。それは彼女が俺を信頼し、身を委ねてくれている証拠、なのかもしれない。
「……よし。これでいいだろ」
俺は顔を上げ、救急箱を閉じようとした。
その時、視線が絡んだ。 ベッドに座る七瀬が、少し上から俺をじっと見つめていた。 逆光の中、少し乱れた銀髪が黄金色に輝いている。その瞳は潤み、どこか熱っぽい光を宿して、俺を捉えて離さない。
「……佐鳥くん」
「ん?」
「ありがとう。……助けてくれて、ありがとう」
それは、今日の試合のことだけではないように聞こえた。もっとずっと前からの、積もり積もった感謝のような響き。彼女の視線が、俺の心臓を射抜くように真っ直ぐで、そして甘い。
(幸せ。……佐鳥くんと、二人きり)
「佐鳥くん、すごかったね。みんなびっくりしてたと思うよ」
(痛いのも、辛いのも、全部飛んでっちゃった)
「でも、私は知ってたよ。佐鳥くんが、とってもカッコいいんだってこと」
(……ずっと、こうしていたいな)
心の声と、現実の声が重なる。あ、静かだ。窓から差し込む夕日と、遠くから聞こえる球技大会の喧騒。そして、目の前の少女の穏やかな呼吸音と、美しい旋律。このまま、この穏やかな時間が続けばいいのに。この俺がそう思ってしまうほど、今の彼女は、嘘みたいに綺麗だった。
だからだろうか。俺は、柄にもなく口を滑らせた。
「……朝比奈、よく頑張ったな」
独り言のような、けれど確かな本音。
「最後まで腹くくって『聖女』やってたじゃねえか。……凄かったぞ」
その瞬間。朝比奈の時間が、ピタリと止まった。
きょとんとして、瞬きを数回。
それから、張り詰めていた糸が切れたように、その大きな瞳が揺らぎ――。
(……あ……)
小さな、吐息のような心の声。
それは、いつもの騒がしいノイズではなかった。
雨音のような、あるいは雪が降り積もるような、切ないほどの静寂。
(……うそ。……みてて、くれたの?)
(もしかして、ずっと……気づいててくれたの……?)
(わたしの……いちばん、ほしかったことば……)
俺の鼓膜に、彼女の琴線が震える音が伝わってくる。
それは、彼女がこれまで積み重ねてきた孤独な努力と、意地と、そして俺への想いが、一気に許容量を超えてあふれ出す音だった。
現実の彼女の瞳から、ポロリと大粒の雫がこぼれ落ちる。
そして、次の刹那。
((((((((ブワワワワワワァァァァァッ!!!!))))))))
「ぐっ!?」
俺は脳を揺らす衝撃波に、思わずよろめいて耳を押さえた。
オルゴールの美しい調べ? そんなものは一瞬で奔流に飲み込まれた。
今、ここで鳴り響いているのは、数千発のスターマインと、サンバカーニバルの打楽器隊と、第九の合唱団による『歓喜の歌』のフルボリューム大合唱――いや、それすらも凌駕する、巨大なダムの決壊音だ。
(褒められたァァァァァァァ!!)
(聞いた!? 今聞いたわよね!? 『凄かったぞ』って! 名前呼んで! あの佐鳥くんが私を認めたァァァ!)
(報われた! 私の人生全部、今この瞬間のためにあったの!!)
(ああああもうダメ! 好き! 好きすぎて心臓が痛い! 呼吸ができない!)
(そういえばバスケの時から佐鳥くんが前髪あげてる! イケ! てる! メン!)
(議長! 緊急動議! この日を国民の祝日『聖・佐鳥記念日』として制定することを提案します!)
(可決! 満場一致で可決ゥゥゥゥ!)
(ああっ、好き! 大好き! もう一生ついていきますぅぅぅぅ!!)
フィーバータイムな朝比奈の脳内に反して、朝比奈本体は言葉にならない声をあげている。
「あ、あう、あうう……! さ、佐鳥くんっ、あ、あのっ……!」
朝比奈の顔が、一瞬で茹でダコのように真っ赤になる。さっきまでの儚げな美少女はどこへ行った。戻せ。
朝比奈は興奮で頭から湯気が出そうになっている。現実では言葉になっていないが、脳内は饒舌すぎるほどに愛を叫んでいる。
「……はぁ」
俺はガンガン響く頭を押さえ、深いため息をついた。やっぱり、俺の平穏は遠いらしい。だが、不思議と不快ではなかった。あの死んだような静けさよりは、この騒がしい「生」の音のほうが、今の俺にはずっとマシだ。
いや、違うな。
不器用で、一生懸命で、どこまでも一直線なこの「騒音」が、俺は――
「……帰るぞ、朝比奈」
「は、はいっ! ……えへへ」
嬉しそうに笑う彼女と、脳髄を殴り続ける「大好き」の大合唱。
……まあ、たまにはこんな騒音も、悪くない。
いややっぱりうるさい。マジでうるさい。あー、うるさいな。うるさいってば。




