知ってたよ。お前は、そういう奴だってな
ふざけるな。俺は平穏を愛している。静寂を愛している。だが、こんな……悲鳴すら上げられない、呼吸すら忘れるような、死んだような静寂なんて求めていない。
なにより、朝比奈は、あんなにポンコツなのに聖女でいる彼女の水面下の努力は、こんな風にふみにじられていいはずがない。
あいつの心は、もっとうるさくて、鬱陶しくて、生きる力に溢れていたはずだ。
自分でも驚くほどに、腹が立っていた。
「……おい」
俺は、低く呟きながら歩き出した。モブ? 今はもう知るか。目立たってしまう? あとからフォローしておけばいい。俺ならそれくらいできる。
汗ばんだ前髪が、視界の端で揺れて鬱陶しい。
「……ちっ」
俺は右手で、濡れた前髪を乱雑にかき上げた。
丸めていた背筋を伸ばし、顎を引く。視界と思考がクリアになる。
もう、この狭いコートの中で、気配を殺すつもりはない。
「……佐鳥、くん?」
七瀬が、うつろな瞳で俺を見る。俺は彼女の横を通り過ぎ、ボールを持った敵の男子――さっき彼女を突き飛ばした奴の前に立った。
「……静かすぎて、耳が痛ぇんだよ」
「は? なに言って――」
敵が言いかけた瞬間、俺の耳に思考が届く。
(なんだコイツ、急に雰囲気変わりやがって……。右にパスしてかわすか)
思考が聞こえるということは、未来が見えるということだ。 俺は敵が動くよりも早く、右側に一歩だけ足を踏み出した。そこに、ちょうど敵の手から放たれたボールが飛んでくる。
バシッ。
乾いた音が響き、ボールは俺の手の中に収まっていた。ノールック・スティール。
「あ……?」
敵が呆気にとられる。パスコースを読んだわけじゃない。単に「そこに投げると言っていた」から、そこに手を置いただけだ。
「お前らがやりたいのはバスケじゃねえんだろ?」
俺は遮るもののない視線で、敵を見下ろした。
「……なら、付き合ってやるよ。ルール無用の泥仕合に」
(は? なんだ今の……まぐれか? まあいい、囲め! ボール奪っちまえ!)
敵の司令塔が思考で合図を送る。右から二人、左から一人。俺の死角を突いて、ボールではなく体を狙ってくる気配が伝わってくる。
(右から肘をあててやる!)
(俺は左から脚だ!)
俺は、ボールを片手で持ったまま、半歩だけ前に出た。 最小限の動き。だが、それで十分だ。
中学時代、嫌になるほど反復したピボットターン。リングの上だろうがコートの上だろうが、体に染みついた「重心移動」は嘘をつかない。
ブンッ。
敵の足と肘が、俺の残像があった場所を空回りする。
「うおっ!?」
勢い余った敵二人が、俺の背後で激突し、無様に転がった。俺は一歩も動いていない。ただ、そこに『いなかった』だけだ。
「え……?」
コートの外で見ていた女子が、息を呑む声が聞こえた。
「今の見た? 佐鳥くん、見てないのに避けたよ……?」
「すげぇ反応速度……」
「ってか、佐鳥くんが前髪あげてるの初めて見たかも。意外とイケてない?」
これはあまり望ましい反応ではない。後々対応が必要だ。だがその前にこの試合を片付ける必要があ
る。
「椛島!」
俺は手首のスナップだけでパスを前線へ放った。予想より鋭い弾道となったが、相手は椛島だ。問題ない。
「戻れ! 守備だ!」
敵が慌てて戻ろうとする。その視線が、ふと、立ち尽くしている七瀬に向いたのがわかった。
(チッ、あいつは気味が悪い……なら、また聖女様いじめとくか……!)
(朝比奈ちゃんがボールを持てば、また足を……)
「……させるかよ」
俺は走った。フォームはバスケではなく短距離走のそれだが、速度なら負けない。ボールを持っていない七瀬へのマーク。明らかにボールに関係のない位置でのタックル。 それを狙っている敵のコースに、俺は先回りして体を割り込ませた。
ドンッ!
「ぐえっ!?」
敵が俺の背中にぶつかり、弾き返される。俺は微動だにしない。十年間、一日も休まず鍛え上げたフィジカルは、伊達じゃない。
「……よそ見すんな」
俺は敵を見下ろし、淡々と告げた。
「お前らの相手は俺だ。……あいつには指一本触れさせねえ」
俺の言葉に、敵が後ずさったのがわかった。だろうな。お前らみたいな連中とは、場数が違う。
「佐鳥くん! 任せたよ!」
椛島からのリターンボールを受ける。 ここからが正念場だ。俺はバスケについては素人だ。だが、敵がどこに動くか分かっているなら、技術など不要だ。
ダム、ダム、ダム……。
俺は腰高の、不格好なドリブルでゆっくりと敵陣へ進む。素人が見ても隙だらけだろう 当然、敵は嘲笑ってカットに来る。
(へたくそ! もらった!)
右前方から、スティールを狙う手。思考が聞こえる。俺はボールを、ペタン、と床に押し付けるようにして、わずかにタイミングを遅らせた。
敵の手が空を切る。
(は? なんで?)
(ガラ空きじゃねえか、今度こそ!)
今度は左から二人掛かりで来る。俺はドリブルを止めた。ボールを両手で抱え込み、ただ突っ立って、敵が突っ込んでくる軌道から半歩だけ体をずらす。
バスケの技術じゃない。ただ、聞こえている心の声に即座に反応するだけの身体能力が俺にはある、それだけのことだ。
ドサッ、ドサッ。
勢いよく突っ込んできた敵が、俺に触れることもできずに通り過ぎ、バランスを崩して転倒する。アンクルブレイクなんて高等技術じゃない。闘牛士が牛をいなすような、ただの「回避」だ。だが、はたから見れば、俺が触れようとする敵を次々と見えない結界で弾き飛ばしているように見えるだろう。
(な、なんだよこいつ……!)
(動きはトロいのに、なんで捕まえられねえんだよ……!)
(思考が読まれてるみたいに、全部かわされる……!)
敵の目に、明確な恐怖が宿ったのがわかる。俺はいつも通りの無表情のまま、敵陣を蹂躙していく。汗一つかかない。なぜなら、無駄な動きを一切していないからだ。
「うおぉぉぉぉっ!?」
クラスメートたちの歓声が沸き上がる。
「おい見ろよ! 佐鳥のやつ、二人抜きしやがった!」
「動きヤバくね!? 達人かよ!」
「あいつ、あんなスペック隠してたのか……!?」
そして、残り10秒。1点差で負けている状況。 俺がボールを持って棒立ちになった。敵チーム全員が、血走った目で俺に集まってくる。
(こいつさえ止めれば!)
(囲め! 袋叩きにしろ!)
2組の5人全員が、俺を取り囲む。壁だ。完全に囲まれた。だが、俺は焦らない。 俺がこれだけ引きつければ、あいつはフリーになる。
膝はボロボロかもしれない。立っているのがやっとかもしれない。だが、俺は知っている。 朝比奈七瀬という女は、どんな時でも『完璧』を叩き出すために、脳みそから煙が出るほど計算し尽くす「努力の化け物」だということを。
俺は視線だけでフェイクを入れる。(シュートだ! 飛べ!)。全員が釣られて飛ぶ。 その一瞬の隙間。 俺はノールックで、背中越しに速めのパスを放った。
「……決めろ、朝比奈」
一か八かの賭けじゃない。これは、確信だ。 お前なら、計算できるはずだろ。このパスの意味も、ゴールの軌道も。
ボールは、針の穴を通すような軌道で、フリーの七瀬のもとへ吸い込まれる。
「……っ!」
七瀬がボールを受け取る。 静寂。相変わらず、彼女の脳内からは、いつもの騒がしい会議音は聞こえない。 痛みとプレッシャーで、世界が止まっているのかもしれない。
――いや。
聞こえた。ノイズではない。限界が近いゆえか、いつもよりもっと鋭く、冷たく、でもとびきり熱い、焼き切れるような「演算」の音が。
(……痛み、遮断)
(右膝の震え……誤差修正)
(心拍数……無視。呼吸……停止)
(佐鳥くんがくれた、最初で最後のチャンス……!)
彼女の脳内で、ボロボロになったミニ七瀬たちが、血を流しながら計器にしがみついている映像が浮かぶ。
(諦めるな! 計算しろ!)
(聖女なら! 完璧を見せろ!)
(佐鳥くんが信じてパスをくれたんだ! 応えなくてどうする!!)
(距離、6.8メートル)
(角度、修正よし。風、なし)
(今の私の筋力で届かせるための、唯一の軌道……!)
(見えた……!)
七瀬が、ふわりと跳んだ。激痛が走っているはずの膝で、床を強く蹴る。そのフォームは、痛みを感じさせないほど美しく、そして悲壮なほど完璧だった。
指先から放たれたボール。 それは、彼女の「意地」と「恋心」と「聖女としての誇り」をすべて乗せて、スローモーションのように空気を切り裂き――。
スパッ。
終了のブザーと同時に、ネットが白く跳ねた。 逆転。
「う、うおおおおおおおおおおおお!!」
「入ったぁぁぁぁぁぁ!!」
歓声が爆発する中、着地した七瀬が、ふらりとよろめく。だが、倒れなかった。
彼女は、俺の方を向き――クシャリと、泣き出しそうな笑顔で、小さくピースサインを作ってみせた。
それは彼女らしくなく、いや、彼女らしい。聖女みたいなんかじゃない、普通の女の子の、精一杯の笑顔。
(……入った)
(届いたよ、佐鳥くん……!)
その心の声を聞いた瞬間、俺は小さく息を吐き、口元だけで笑って返した。
ああ、知ってたよ。お前は、そういう奴だってな。
直後、コートの内外から歓声があがった。
「う、うおおおおおおおおおおおお!!」
「入ったぁぁぁぁぁぁ!!」
「勝った! 俺たち勝ったぞ!」
「佐鳥! お前すげーじゃん!」
「いや、やっぱ朝比奈さんだろ!」
「聖女!」
クラスメートたちが雪崩れ込んでくる。 歓喜の渦。誰もがヒーローである七瀬を称えようと駆け寄る。七瀬は、押し寄せる仲間たちに向けて、今度は最高の「聖女の笑顔」を見せた。
「ありがとう! みんなのおかげだよ!」
完璧だ。最後まで、彼女は演じきった。でもそれで限界だったらしい。大盛り上がりするクラスメートから、彼女がそっと輪から離れていくのが見えた。歓声に紛れて、足を引きずりながら体育館の裏手へと消えていくのを。
……まったく。 最後まで手のかかる奴だ。




