俺の中で、何かが切れる音がした。
午後の日差しが照りつけるコート。
準決勝の相手は、1年3組。
昼休みに屋上から見下ろした時、俺たちに粘着質な視線を送っていた連中だ。
「よし、気合入れてくぞー!」
「おー!」
表向きは爽やかなスポーツマンシップ。
だが、開始早々、俺の「耳」は不快な周波数を拾い続けていた。
(へへっ。マークっつって密着しちゃえば役得じゃね?)
(聖女様も必死な顔するとそそるよなぁ)
(調子乗ってる3組、ここで潰しとくか)
歪んだ好奇心と、集団心理に守られた加虐心。
イヤというほど向けられて、良く知っている感情だ。
彼らにとって、これはスポーツではない。
「高嶺の花」を引きずり下ろして遊ぶゲームだ。
「……朝比奈!」
試合が動く。
味方からのパスを受けた朝比奈が、ドリブルで切り込む。
だが、その進路には敵の男子生徒が二人、壁のように立ちはだかっていた。
(来た! 囲め!)
(ボール奪うフリして、ちょっと体当たり……っと!)
「きゃっ!?」
敵の一人が、不自然に足を出し、朝比奈の肩に体をぶつけた。
審判の死角をついた、ファウルギリギリのチャージ。
朝比奈の体勢が崩れる。
(警告! 衝撃感知! 左舷、被弾しました!)
(シールド(体幹)出力低下! 転倒します!)
(ダメ! ここで転んだらボールを奪われる! 佐鳥くんの前で無様な姿は晒せない!)
(総員、歯を食いしばれ! 根性で耐えろォォォッ!)
朝比奈の脳内から、金属が軋むような悲鳴が上がる。
彼女は倒れそうになる体を無理やりねじり、ボールを死守してパスを出した。
「……っ、椛島くん!」
パスが通る。椛島が強引にシュートを決める。
得点にはなった。だが、朝比奈の膝はガクガクと震え、呼吸は荒い。
「朝比奈、大丈夫か」
俺は素早く彼女のもとに駆け寄った。
朝比奈は俺を見ると、引きつった笑顔を作った。
「だ、大丈夫よ……。ちょっと当たっちゃっただけ」
(痛い……今の、わざと? でも、気のせいよね?)
(弱音を吐くな! 聖女は常に優雅であれ! 佐鳥くんに心配かけちゃダメ!)
彼女の思考が、必死に自分を奮い立たせている。
その健気さが、今は痛々しい。
「……無理するな。あいつら、狙ってるぞ」
俺は小声で忠告した。
だが、朝比奈は首を振る。
「平気よ。私だって、みんなのためにも勝ちたいもの。……それに」
彼女は、じっと俺の目を見た。
(佐鳥くんに、私の『強さ』を見せるって、あの時誓ったから!)
……なんだそれ。また俺が覚えていない過去の話か?
俺は舌打ちを噛み殺した。
試合は進む。
3組のラフプレーは、時間を追うごとに露骨になっていった。
「おっと、悪い!」
「ごめーん、足滑ったわー」
(うわ、今の感触ヤバっ。柔らかー)
(もっと困らせてやれ。泣き顔見たいわー)
朝比奈が動くたびに、敵の手が伸びる。
「……チッ」
俺は自分のマークを捨てて、朝比奈のカバーに入った。
敵がチャージに来る瞬間、俺が割り込んでコースを塞ぐ。
(うおっ!? なんだこのモブ!)
(邪魔だなぁ、どけよ!)
敵の思考ノイズが俺に向く。
構わない。朝比奈に向けられるよりはマシだ。
だが、多勢に無勢だ。
俺一人がどれだけカバーしても、全ては防ぎきれない。
「くっ……!」
試合終了間際。
朝比奈が再び、激しいチャージを受けて床に手をついた。
膝が擦りむけ、白い肌に赤い血が滲む。
(損傷拡大! バイタル低下! 燃料切れです!)
(動け! 動け私の足! あと少しで勝てるんだから!)
(佐鳥くんに……勝利を……!)
「ピーッ! 試合終了!」
どうにか、勝った。
スコアは僅差。予選のような圧勝ではない。
「はぁ……はぁ……」
朝比奈は肩で息をしながら、立ち上がろうとして――よろけた。
「……おい」
俺はとっさに彼女の腕を支えた。熱い。
支えた二の腕が微かに震えている。
「ご、ごめんなさい……。ちょっと、疲れちゃって」
「……膝、やってないか。次の試合は見学しろよ」
「えっ」
朝比奈がビクリと体を固くした。
あの時不自然なひねり方をしていたのを俺は見逃していない。
「平気よ。そんな大げさなことしたらみんなが心配するわ。……絶対に出るわ」
(狙われてるのはわかってる。でも、これで逃げたらあの人たちが喜ぶだけ。私は勝つ。そして、もう二度とこんなことする気がなくなるようにしなきゃだめ)
ここで「痛い」と言えば、チームの士気が下がる。
だから、笑う。
「聖女」という役割は、ここまで彼女を縛るのか。
「……そうかよ」
俺は彼女の手を離した。止めても無駄だ。
彼女は今、ブレーキの壊れたダンプカーだ。
視線を感じて顔を上げる。コートの向こう側。
決勝の相手となる2組の集団が、こちらを見ていた。
(あーあ、聖女様ボロボロじゃん)
(いっそ決勝でトドメ刺しちゃえば?)
……なるほど。あいつらか。
俺は小さく舌打ちをして、冷えたスポーツドリンクを喉に流し込んだ。
※※
決勝戦。
コート上の空気は、異様な重苦しさに包まれていた。
「……ッ!」
開始早々、朝比奈が小さく呻いた。
審判の死角で、彼女の軸足に自分の足を引っかけたのだ。
「あ、ごめーん! 足もつれちゃって!」
「大丈夫っすか朝比奈さん!」
大げさに謝る男子たち。その顔はニヤニヤと笑っている。
審判の先生は、「気をつけなさい」と流すだけだ。
「……大丈夫。平気、だよ」
朝比奈は転倒しそうになった体を無理やり立て直し、笑顔を作った。
だが、俺には聞こえている。
(痛い痛い痛い痛い!)
(膝が熱い! ジンジンする!)
(でも笑って! 笑顔キープ! ここで崩れたら、みんなが心配する!)
悲痛なノイズが、俺の鼓膜を削る。
「ほらほら、聖女様! パス出さないと!」
「ディフェンス固いっしょ?」
執拗なマーク。ユニフォームを引っ張る、体をぶつける、足を踏む。
ベンチで見ている2組の女子たちが、手を叩いて笑っている。
そして、決定的な瞬間が訪れる。
残り時間3分。同点。
朝比奈が最後の力を振り絞り、シュート体勢に入った時だ。
敵の男子が、ブロックに飛ぶフリをして――空中で、彼女の肩を思い切り突き飛ばした。
「――っ!?」
無防備な空中でバランスを崩された朝比奈は、受け身も取れずに床に叩きつけられた。
ドスン、という鈍い音が響く。
「きゃああっ!?」
「朝比奈ちゃん!」
敵の男子は「うわ、勢い余っちゃった! わりぃ!」とヘラヘラと手を差し伸べている。
俺は息を呑んだ。
朝比奈は激痛を感じているはずだ。
だが。
「……っ、ふ、ふふ。……平気、です」
朝比奈は、差し出された敵の手を借りず、自力で立ち上がった。
膝から血が流れている。顔面は蒼白だ。
それでも、彼女は完璧な角度で、完璧な「聖女の微笑み」を浮かべていた。
「ただの、事故ですから。……続けましょう」
その瞬間。
俺の世界から、彼女の「音」が消えた。
(…………)
聞こえない。「痛い」とも、「辛い」とも、「助けて」とも。
いつもなら鼓膜を破壊するほどの脳内会議が、プツリと断線したように消え失せた。
代わりに漂うのは、底知れない、冷たくて暗い静寂。
彼女は今、脳のリソースの全てを「笑顔という仮面を維持する」ことだけに費やしているのだ。
心を殺して。感情を殺して。
ただの「完璧な人形」として、そこに立っている。
「…………」
俺の中で、何かが切れる音がした。




