腹くくって演じきれば、それは本物だ
放課後。
俺はいつものように、人気の消えた河川敷、橋脚の陰にいた。
頭上を走る電車の轟音だけが響くこの場所は、俺がモブの仮面を脱げる唯一の時間だ。
「……ふっ、しゅっ!」
たっぷりと筋トレをして、肉体を追い込んだ後、鋭い呼気と共に、拳を突き出す。
シャドーボクシング。誰に見せるわけでもない、自己満足の鍛錬。
もし、あの時の俺が今の俺くらい強ければ、あんな目には合わなかった。
もし、あの時の俺が今の俺くらい賢ければ、あんなことにはならなかった。
自己満足と言われればその通りと応えるしかないが、俺と同じ『能力』がないやつにはそんなことを言われたくない。
だから、昨日も今日も、明日も、一年後も、俺は黙々とこれを続ける。
そんななか、ふいに。
(……きれい)
風に乗ってきたかのような、微かな「音」が鼓膜を撫でた。
俺は動きを止めず、視線だけを巡らせた。
距離、二〇メートルぎりぎり。土手の上のガードレールの陰。
……いる。 朝比奈七瀬だ。
ペットなのか、小型犬をつれて立ち尽くしている。
気付いたことを気づかれたくない。俺は、動きを止めなかった。
(……すごい。あんな動き、体育の授業じゃ一度も見せたことないのに)
(重心がブレてない。拳が風を切る音が、ここまで聞こえるみたい)
いつもの「キャーッ! 汗ばんだ鎖骨ぅぅ!」みたいな絶叫ではない。
静かで、熱を帯びた、祈るような独白。
彼女は、俺が隠していたものを、まるで宝物のように見つめている。
(いつも頑張ってて、すごいな。図書館でも、ここでも。どうして、学校ではああなんだろ?)
……なんだ、今日のあいつは。
脳内会議の連中は全員休暇か?
あまりに真っ直ぐすぎる「尊敬」の念が伝わってきて、俺の背中がむず痒くなる。
(……思い出すなぁ)
ふと、彼女の思考の色が変わった。
(あの時……私が一番辛かった時に、何も言わずに隣にいてくれた……)
(あの日の『強さ』と、今の貴方の背中は……)
……あの時?
ノイズ交じりの思考は、射程距離ギリギリであることもあって、部分的にしか聞こえなかった。
(泥だらけで、傷だらけで、それでも一人で立っている……そんな貴方だから)
そこまで聞いて、俺は拳を止めた。
これ以上聞いていると、シャドーボクシングのリズムが狂いそうだったからだ。
(大好きだなぁ)
……距離が遠いせいか、いつものような大音量ではない。
まるで、零れだしたような静かな吐露。
やめろ。そういうのは、どう反応したらいいか困る。
(『中身がどうだろうと関係ねえ』『腹くくって演じきれば、それは本物だ』)
(だから私も頑張るよ。弱音も、本音も全部飲み込んで――彼が認めてくれる『聖女』として、胸を張っていたいの)
……は?
あいつのあの完璧な演技は、そんな哲学に基づいていたのか。
だとしたら、ただの見栄っ張りとは年記が違うな。
「……」
俺はタオルで乱暴に汗を拭い、わざとらしく大きく息を吐いて、彼女がいる方向へ背を向けた。
「気づいていない」フリをしてやるのが、今の俺にできる唯一の返答だ。
(……あ、終わっちゃった)
(……ふふ。お疲れ様、佐鳥くん。行こうか、ポチーヌ)
満足したような、温かい余韻を残して、気配が遠ざかっていく。
俺は彼女がいなくなるのを完全に確認してから、深くため息をついた。
「……ポチーヌって、もっと考えてから犬に名前つけろよな」
そう口走ることしかできなかった。
※※
球技大会を目前に控え、準備の作業も大詰めにはいっている。
今日こなすべき作業を終えた俺は一度教室を出たものの、予習のための教科書を忘れたことを思い出し、再び夕暮れの教室へと戻ってきた。
西日が差し込む廊下はオレンジ色に染まり、校舎内はひっそりと静まり返っている。
教室のドアに手をかけようとして、ふと動きを止めた。
おかしい。朝比奈の、あのバカバカしいピンク色の騒音が全く聞こえない。
教室の引き戸を開けると、朝比奈が一人だけ残っていた。
机に突っ伏して動かなくなっている。
寝ている。
規則正しい、小さな寝息。
普段は完璧な『聖女』の仮面を被っている彼女だが、今の寝顔はひどく無防備だった。
(…………)
静かだ。
信じられないほど、静かだった。
電源の落ちたモニターのように、一切の思考ノイズが聞こえてこない。
……俺がずっと求めていた、完璧な平穏。
俺は音を立てないように自分の席に座り、頬杖をついて窓の外を眺めた。
静かだ。最高に静かで、快適だ。
そう、快適なはずなのに。
「……調子が狂うな」
ぽつりと、独り言が口をついて出た。
あの大騒音が聞こえないと、教室がひどく広く、空虚に感じる。
その時、廊下の奥から足音が近づいてくるのが聞こえた。
(あー、今日の戸締まり当番めんどくせー。まだ誰か残ってんのかな)
別のクラスの教師だ。このままでは、朝比奈の居眠りが見つかる。
俺は足音を忍ばせて立ち上がり、教室のドアへと向かった。
足音が教室の前に差し掛かった瞬間、俺は内側からドアを開け、教師の前に立ち塞がった。
「おっ、と。なんだ。えーっと……佐鳥だったか。まだ残ってたのか」
「忘れ物を取りに来ました。戸締まりなら、俺がやっておきます」
俺は背後の朝比奈を隠すように立ち、事務的なトーンで告げた。
「お、そうか? じゃあ悪いが頼むわ。気をつけて帰れよ」
「はい。さようなら」
教師の足音が消えていくのを確認し、俺は音を立てずにドアを閉めた。
再び、教室にはオレンジ色の西日と、彼女の微かな寝息だけが満ちる。
俺は朝比奈の机のそばに立った。
相変わらず深い眠りの中だ。西日が眩しそうに、むにゃむにゃしている。
俺は無言で手を伸ばし、少しだけ窓のカーテンを引く。
柔らかな日陰ができ、彼女は幸せそうな顔になった。
不器用なくらい真面目に聖女を演じ続け、あの騒音を撒き散らしながら必死に立っている。
そりゃ疲れもするだろう。
本当に、わけのわからないやつだ。
俺は鞄から、未開封のミルクティーを取り出した。
ボトルの底を拭き、彼女の顔から少し離れた机の端に、そっと置く。
それから、付箋にペンを走らせた。
『戸締まりはしておく。お疲れ。 佐鳥』
たったそれだけ。
その付箋をペットボトルに貼り付ける。
……俺にしては、少し干渉しすぎたな。
もう少しだけ、休ませてやるか。
静かすぎる教室に背を向け、今度こそ足音を忍ばせて廊下へと出る。
明日になれば、またあのバカバカしくて、やかましくて、嘘くさい騒音が戻ってくる。
今はただ、俺の平穏を脅かすはずのそのうるささが――少しだけ、待ち遠しかった。
……いや、そうでもないな。
冷静に考えると、あの付箋を見た後の彼女の騒音、すごいことになりそうだな。
やっちまった。
まあ、仕方ない。明日は我慢するとしよう




